第2話 置いてけぼりは誰のせい?

 私は違うことがしたいのに、皆と同じことをしなければならないことが苦手だった。特に幼稚園の頃は、何かと先生達に叱られてばかりで苦痛だったことを覚えている。


「明日花ちゃん、ちゃんとケンケンパーをして? ほら、最初からやり直し!」


 ——面倒くさい。


 今日は週に一度のダンスの日だが、幼稚園の後だから妙に気怠いし、やる気が出ない。でも、ママも見ているし、皆と同じことをしなければダメだから、仕方なしに言われた通りのことをやってみた。


 ケンケンパーが終わった後は床に手を付いてカエル飛びをして戻るって言われたけど、それも苦手。

 普通に歩いた方が早いのに、なんでこんな面倒なことをしないといけないんだろう?


 そんなことよりも、他のママと一緒に来ている赤ちゃんが気になる。本音はそっちに行って赤ちゃんと遊びたい。


「はい! 次はケンケンパーと一緒に手を叩いてみましょう。パーの時には手を広げて……」


 あれ? 先生、私が戻る前に話出した。

 私だけが置いてけぼり——……。

 別に興味がないからいいけれど。


 でも、その時に見たママの顔が悲しそうで、それが酷く胸を締め付けた。

 ママ、どうしてそんなに泣きそうな顔をするの? ママ、泣かないで……?


「ママー、ママー!」

「明日花ちゃん! 今はダンスの時間です! 皆と一緒にちゃんとして⁉︎」


 遠くから笛を吹いて怒る先生にムッとしながら私は走り続けた。だって明日花のママが泣きそうなんだよ?


 私がママを守らなきゃ。

 私がママを元気にしなきゃ。


 だから先生の声を無視してママのところへと走っていった。全力疾走の私を両手一杯に受け止めて、ギューっと抱き締めてくれた。


 でも、それは一瞬のことで「ダメよ、早く戻らなきゃ。今はダンスの時間だから皆と一緒に頑張ってね?」って、引き攣った顔で私を突き返した。

 ママが泣きそうな顔を無理やり笑顔にしていたから、私も笑って「分かったー」って皆のところへ戻って行った。


 私、ママに見て欲しかった。

 ママに褒められたかった。


 ママ、ママ……もっと私を褒めて? 

 私、こんなに頑張っているんだよ?


 ——……★


 私は幼少期の頃を思い出しながら、両耳を塞いで蹲っていた。


 雑音の多い世界はうるさくて集中できない。皆はよく、こんな騒がしい世界で生きていけるなと感心してしまうほどだ。


 遮断される音の代わりに手から聞こえる、水の中を泳ぐような音が私に癒しを与えてくれる。それに胎児のように縮こまった姿勢が安心できるから、私は好んでこの体勢で続けていた。


「——これからどうしよ……」


 幼馴染だった勝と縁を切って、店を抜け出したところまでは良かったけれど、その後のことを考えていなかった。

 大量の通知や着信が届いているスマホは見たくない。家も勝に知られているから帰りたくない。八方塞がりとはこのことを言うのだろう。


 多くの人が行き交う路を眺めながら、私もその中に混じろうと一歩を踏み出した。けど気になる。


 人の声、話す内容。影口、私の悪口?

 叱る声、罵声、怒鳴る声——恐い。


 咄嗟に親指の爪を噛んで、精神を落ち着かせた。爪を噛むなんて行儀が悪いと怒られていたけれど、そうでもしないとパニックに陥って恐くなってしまうのだ。少しずつつ冷静さを取り戻し、やっと一息つくことが出来た。


「あ……、そうだお茶。お茶を買うんだった」


 喉が渇いていたことを思い出し、カバンの中から財布を取り出そうとした。だが、何もかも押し込んで入れていた為、欲しいものを見つけることは容易ではなかった。ハンカチ、ペットボトル……紙、レシート、ハンカチ、ハンカチ……。


 やっと見つけて小銭を確認しようと財布を開けた瞬間、背後からぶつかってきた人のせいでバラバラに散らばってしまった。


「痛……っ!」

「おい、痛ェな! こんなところでボケェっと突っ立ってんじゃねェぞ!」


 突如言い放たれた罵声に身体が竦んで縮こまった。明確な叱咤の声が容赦なく襲いかかる。その声に恐怖を覚えた私は、反射的に頭を抱えて遮断するように耳を塞いた。


「おい、テメェだよ! 縮こまってねぇで、ちゃんと謝れよ!」


 ぶつかってきた中年の男性は、追い打ちをかけるように罵声を放ってきた。

 一方的な言い掛かり。だけど誰も助けてくれやしない。こんな面倒ごとに絡みたくない。絡まれたくない……その気持ち、よく分かる。


 でも私は大きな音が極端に苦手だった為、突然の出来事が恐くて、謝るどころか身体が動かなくなって固まってしまった。


 わざとじゃないのに、わざとじゃ……。


「おい、聞いてるのか⁉︎ ちゃんと人の顔を見て謝罪しろ!」


 無理矢理腕を掴まれ、力任せに引っ張られた時だった。私とオジサンの間に割り込むように一人の男性が声を掛けてきた。


「待って……! こんなところで大声を上げる方が迷惑ですよ」

「んだよ、テメェ……! テメェには関係なだろう?」

「それはアナタも同様です。立ち尽くしていた彼女にぶつかったのは貴方じゃないですか。俺はちゃんと見ていましたからね? 理不尽な言い掛かりをつけているのはアナタの方だ」


 しばらく二人は言い合いを続けたようだったが、観念した男はその場を離れるように去っていった。


 やっと静かになったと顔を上げると、心配するように屈んだ男性と目が合った。眼鏡を掛けた真面目そうな人で、少しだけ安堵を覚えた。この人からは敵意は感じない。

 助けてくれてありがとうって、感謝を伝えないといけないのに、思うように口が動かない。だんだん不安と焦りが脳裏を支配し始めた。


「大丈夫? 怪我はない?」


 そんな私に彼はトン、トンと、まるで子供をあやすようなリズムで私の肩を叩いて宥めてくれた。


「えっと……あの」

「ゆっくりでいいよ。一方的にぶつかってきたくせに、あんなに怒鳴るなんて酷い男だったね」


 低い声だけど、ゆっくりな口調で何だか落ち着く。私は短く呼吸を繰り返して、気持ちを落ち着かせた。


 大丈夫、大丈夫、大丈夫……。


「——大丈夫です、ありがとうございました」

「そっか、なら良かった。あ、落ちた小銭拾わないと。君はここで待ってて、拾ってくるから」


 柔らかく上がった口角に安心を覚えた。

 その人は背が高いのに、私に合わせて微笑んでくれる優しい人だった。


 出会ったことのないタイプの人に、少しだけ早まる心拍数。頬も少し熱を帯びている気がする。


「これで全部かな? 目についた分は取ったんだけど」


 渡されたひんやり冷えた硬貨。それに反して手のひらに触れた指先の温かさに、思わずビクッと反応してしまった。今まで体験したことがない待遇に、私は戸惑いを隠せなかった。


「あ、ありがとう……」


 小銭を拾ってくれた彼は、落とさないように丁寧に両手を使って渡してくれた。私の手を挟むように、上下で支えて。


「——ケガもしてる。立てる? ほら、通行人の邪魔になるから向こうで休もうか?」


 そう言って彼が指差したのは、腰掛けることができる石造りの花壇。

 言われて気付いたのだが、確かに膝が擦りむいてヒリヒリする。ついでに全力で走ったせいで靴擦れしたかかとも痛くて、一人でうまく歩けなかった。

 しかし、これ以上甘えるわけにはいかない。私は首を横に振って好意を断った。


「……大丈夫です。自分でなんとかします」

「いいよ、気を遣わなくて。、慣れてるから」


 彼は私の手を取ると、そのまま肩に手を添えて支えるように歩いてくれた。無関心な人が多い世の中、どうやらこの人は特別にお人よしのようだった。


 どんな顔をしていいのか分からず逸らすように俯いたまま前へ進んだが、触れられた場所に熱がこもり恥ずかしくなった。目頭も熱くなる。涙が溢れそうになる。


「これは思ったよりも派手に転んだね……。あとにはならないと思うけど、こんなことならあのオジサンを引き止めておけば良かった」


 両膝に滲んだ真っ赤な血。こんな擦り傷、日常茶飯事だから気にしていないのに。ひざまずいて手際よく消毒していく彼を見て、私はカッと顔が熱くなった。


「い、いいです! そんなしなくても!」

「遠慮しなくていいよ。俺もよく母親の手当てをしてるから」


 違う! 手当て自体もだが、この体勢が恥ずかしい。

 ストッキングが破れて露わになった生足に膝丈のワンピース。しっかり足を閉じているとはいえ、女性にとっては非常に抵抗のあるアングルだ。

 彼にやましい気持ちがないのは分かっているけれど、素直に人為として受け取るには羞恥心が邪魔をする。


「ここまでくる時、足を引きずっているように見えたけど、もしかして足首を捻った?」


 嘘……この人、よく見てる。

 だが足首ではない。靴擦れが痛くて歩けないだけなので、私は首を横に振ってお礼を述べた。


「あの、親切にありがとうございました。もう大丈夫なので、私のことは気にしないでください」


 これ以上、彼に迷惑をかけるわけにはいかない。そう思って告げたけど、彼はジッと顔を覗き込むだけで、なかなか帰ろうとしなかった。

 もしかして助けた見返りを求めているのだろうか?


 私は謝礼を渡そうと長財布を取り出そうとしたが、不必要なものに埋まっていて探すのに時間が掛かってしまった。


 本当、私のカバンはゴチャゴチャして嫌になる。


「何を探してるん? ゆっくりでいいよ。カバンの中身を出して、一緒に探そうか」


 そう言って、彼は嫌な顔一つせずに私の行動に付き合ってくれた。

 恥ずかしい反面、こんなに親身に優しくしてもらったのが久しくて、思わず涙が溢れそう。


 このゆっくりとした話し方、ずっと誰かに似てると頭の隅に引っかかっていたけれど、やっと思い出した。


 お母さんに似ているんだ。

 私が困った時の、お母さんの声掛けだった。


「——お母さん」

「え?」


 母を口にした瞬間、堪えていた感情が一気に溢れて、涙が止まらなかった。

 自分の意思とは関係なく、止めどなく零れる涙に、彼も動揺を隠せないまま慌てて声を掛けてきた。


 違うのに……彼は何も悪くないのに。


 気付けば私は、彼の服の裾を掴んで声を上げて泣いていた。いい年をした大人にも関わらず、一人になりたくなくて縋るように泣いていた。


「——大丈夫だよ、大丈夫。大丈夫……」


 懐かしい声掛け。

 私は彼に母の面影を見ながら、久しぶりに優しさに包まれるように泣いてしまった。



———……★


「今だけだから。少しの間だけでも、お母さんに縋らせて」


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