第3話 抑圧

 気づくと私は再びベッドに横たわっていた。

 目を開けると心配そうな顔で私を見下ろす父と母がの姿がすぐに目に飛び込んできた。

 その横にもうひとり濃紺のスーツを着た見知らぬ初老の男がいた。

 私は咄嗟に上半身を起こして部屋の中の様子をキョロキョロと伺ってみたが特に何も変わったところはなかった。

 その私の様子が錯乱したものに見えたのか、母が私の肩を強く押さえつけながら、

「大丈夫よ……落ち着いて……」

 優しさの中に説き伏せるような強制力を滲ませた声でそう私に声を掛けた。

 私は今置かれている状況に頭は混乱してはいたが、不思議と気持ちは落ち着いていた。


「ねぇお父さん、お母さん。この部屋おかしいよ……。物が勝手に動いて、姿見も割れて……」


 私は起こったことをすべてありのままに話した。

 父と母は神妙な顔で見つめあったのち、助けを求めるように、隣にいる濃紺のスーツを着た初老の男に視線を投げた。

 髪をオールバックにした、頬が痩せこけた面長のその初老の男は、貼り付いたような作り笑顔を浮かべると私の目を見つめながら私にゆっくりと語り掛けてくる。


「はじめまして……いや、正確にいえば何度もあなたには会ってるのではじめましてではないのですが……」

 貼り付いた笑顔が苦笑いに変わる。この人が何を言いたいのかさっぱり分からない。男は続ける。

「治療の過程であなたの記憶が混濁してしまった。私と会った記憶もおそらく消えているのでしょう。だからはじめましてと言って差し支えない……」

 男のこの言葉を聞いて私が今置かれている状況が自分の思っていたものとまったく違うことに気づいた。

 私は記憶喪失を治療していたのではなく、違う何かの病気の治療過程で記憶喪失になったのだ。


「申し遅れました。私は精神科医の風呂土鋤弥ふろどすきやと申します」

「精神科医……私はいったい……」

 私はやはり頭がおかしくなっていたのか?

 それならば私がついさっきこの部屋で体験したことは────

 そんな私の脳内での逡巡を見透かしたかのように風呂土は出入口のそばまで行くと姿見を持ち上げ再び私の所へ戻ってきた。

 風呂土は鏡面を私の方に向けた。私の顔がそこには一点の歪みもなく綺麗に映っていた。


「姿見の鏡面は割れてなどいません。おそらくあなたにせん妄の症状が出てしまった。記憶の障害もせん妄も薬の副作用です。でもこれは乗り越えるしかありません。あなたがこれからの人生を平和に生きるためには……」

 記憶喪失やせん妄の副作用が出るほどの激烈な治療を私はしていたのか?

 それほどまでの治療をしなければならないとは、私が患っていた症状はどれほど酷いものだったのだろうか?

「先生、私が患っていた病気っていったい何ですか? 教えてください」


 風呂土は表情を固めたまま数秒押し黙った。

 父と母は戸惑いの表情を浮かべながら同じ様に押し黙った。

 私が風呂土に投げ掛ける懇願の眼差しだけか、この部屋で雄弁さを保っていた。

 しばらくして重苦しい静寂を風呂土が打ち破った。


「何の治療をしていたか。あなたは知らないほうがいいという事もある……」


 私の頭の混乱はより深まった。

 父と母の様子の不自然さから感じた違和感がいよいよ真に迫って恐怖と不安をよりいっそう明瞭にさせる。

 私の体が震えだすのが分かった。母が私の肩をさする。風呂土はそんな様子にも顔色ひとつ変えず続ける。

「失ったものを取り返すことに躍起になるより、これから穏やかで幸せな未来を作っていくことだけに集中したらいい。物は考えようです。どんな状況もポジティブに捉える思考の癖を身につけるのです」


 馬鹿言うな。記憶は取り戻したほうがいいに決まっている。失くした過去を取り返すことなく未来に進むことなんて出来ない。


「十四歳の誕生日から今までの私の時間を返せ!」


 誰か特定の人物に対して投げ掛けた訳ではない。ただ私はそう叫びたかったから叫んだ。


「私、思い出したことがあります! 日比谷真梨子のことです! 彼女はいまどうしてるんですか! 私の十四歳の誕生日に私の部屋にいたはずです! 教えてください! 私と真梨子は幸せな時間を過ごせたんですか!」


 私は喉が擦りきれて血が流れんばかりに絶叫していた。

 叫んでいるうちに体がムズムズとして暴れ回りたい衝動に駆られた

 そんな私を母が必死に押さえつける。

 父が加勢し私をベッドに無理矢理仰向けに寝かせる。

「お母さん、お父さん、しっかりと押さえておいてくださいね」

 風呂土はそう言うと、床にしゃがみこむ。しばらくして再び立ち上がった風呂土の手には透明な液体の入った瓶と注射器があった。

 風呂土は針を瓶の中に差し込み液体を注射器に流し込む。

 そして私の額を思い切り押さえつけながら首筋に注射針を刺した。

 叫び声を上げる暇もなく皮膚を針が意図も簡単に貫通していく。首筋一点に掛けられる細い圧力がやがて体全体に広がる感覚が私を襲った。

 液体は滑らかに私の体の中へと流れ込んでいく。


 私は必死に体の自由を得ようともがいたが、大人三人のがかりの必死の抑圧には成す術がなかった。

 体を押さえつけられたまま数分がたつと、私の体を諦めが支配した。

 風呂土が耳元で私に囁く。

「日比谷真梨子は遠くで無事に暮らしているよ。安心しなさい」

 その言葉を耳にしてすぐに私は意識を失った。

 

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