嵐山乱惨
花鳥あすか
第1話
濃いグリーンのノースリーブワンピースで、瑠璃はラウンジに現れた。エスコートされた席に流れるように腰掛け、さっとナプキンをたたんで膝に置く。
髪は漆黒で、さらさらとした絹のようだった。伏目がちな瞳は、生来のものなのか、はたまた起き抜けの眠さからくるのか、とにかく影を感じさせる妖艶さが漂っている。形のいい高い鼻と、薄桃色の唇は西洋の美を彷彿とさせた。服から伸びた手足の、抜けるように白い肌が朝日に射抜かれ、蜃気楼のような儚さを生み出している。ひとり異界から現れたようなこの女に、ラウンジの視線は必然的に集中した。
ウェイターがご用聞きに来ると、瑠璃は微笑みながら応対し、下がっていくウェイターに「ありがとうございます」と柔らかな笑みを送る。
サラダが運ばれてくると、瑠璃はナイフとフォークを軽やかに扱い、葉物野菜もフォークにするりと乗せて小さな口に運ぶ。瑠璃は食事中、音を全くと言っていいほど立てない。カトラリーのぶつかるガチャガチャという音を嫌い、忍者のように、茶道教室の空間のように、静寂の中で食事をすることを美としていた。その無音の行為がさらに、瑠璃という女の儚さを醸成していく。
瑠璃は食事を済ませると、スイートルームに戻り、ペットボトルの水を飲みながらしばらく枯山水の庭を眺めた。庭の奥で清涼な霧を吐く大きな崖壷が心に涼しかった。晴れた空には焦りを抱いたが、瑠璃は不安を振り払うように、外出用の服に着替えた。
刺繍の入った黒のノースリーブドレスに、白麻のリボンがついた黒の女優帽。ともすれば、敬愛するオードリー・ヘプバーンと見紛うような高貴な出立ち。ドレスは体のラインを精緻に拾い、瑠璃のくびれたウエストを起点とした流麗な恥骨を浮かび上がらせる。華美や蛇足を嫌う瑠璃のアクセサリーは、プラチナのブレスレット、小さなパールのピアス、そしてお守りのシルバーの指輪。クロコダイルのハンドバッグと日傘を手に取り、銀色のバレエシューズを履くと、ロビーへ向かった。もう3日も宿泊しているから、スタッフとはほぼ顔見知りだ。チェックアウトを済ませると、「七宝様、今日は猛暑日になるかもしれません。よろしければ、こちらの扇子をお持ちください」ベテラン風の女性スタッフはそう言って、にこやかに瑠璃を送り出した。
瑠璃は恵まれていた。愛情深く裕福な両親、学歴、容姿、高給の頭脳仕事。23歳ながら、費用を気にせず国内外を遊び回れる余裕と体力、身軽さ。その華やかな生活を称賛される毎日。
しかし、決して幸せというわけではなかった。何をしても、どこに行っても、虚しさが影のように着いてくる。瑠璃は、自分は病気なのだと考えていた。虚しさを振り払おうと男と抱き合っても、友と語り合っても、この不可思議な魔物は一瞬も瑠璃を離れることはなかった。ただ一つ、あの晩を除いては。
世の中全てが予定調和、ままごと、作り物、妄想、そうした類のものにしか思えなかった。バレエシューズから伝わってくるありきたりなアスファルトの感触が、思いを増幅させる。
タクシーに慣れた瑠璃の足は、ホテルから十分ほどの川の地点で不快な痛みを主張し始めた。乳酸のだるさと7月の激しい紫外線が、瑠璃の足を橋に固定する。ハンドバッグから常備薬を取り出し、慣れた手つきで喉奥へと押しやる。痛みに腹を立てても仕方がない。薬という明確な対処法があるのだから、さっさとそれに頼れば良い。今日は、脳のリソースを余計なことに割きたくない。ぎりぎりと肌に押しかけてくる紫外線は、もうすぐ届かなくなるはずだと信じて我慢するしかない。
そう自分を落ち着かせ、いまだ足にしがみついてくる痛みを引きずりながら、瑠璃は嵐山の渡月橋を目指した。
嵐山に来るのは2度目で、初めて来たのはちょうど1年前のことだった。その旅の夜を、瑠璃は今でも克明に覚えている。いや、忘れられないでいる。実に楽しい夜だった。瑠璃がホテルを出た瞬間に大風土砂降りの嵐が巻き起こり、ホテルに引き揚げるとまた快晴に戻る。今度こそと外に出ると、1度目よりひどい豪雨、落雷、洪水で、またしても何もできずにホテルに引き揚げる。すると雷鳴は止み枝垂れ雨の優しい風情が訪れる。瑠璃はこの現象に目をぱちくりさせながらも、3度目の正直、とおそるおそる外に出た。すると果たして、横殴りの雨、暴風、冠水が発生し、街路樹が頭をちぎられそうになりながらぶるんぶるんと揺れていた。この世の終わりのような光景に、瑠璃は数秒宇宙を背負った後、ぷちん、何かが弾けた音を聞き、げらげらと笑いながらホテルから続く坂を転げ落ちた。そして、雨をはけきれない夜の渡月橋を身一つで駆け抜けて、見る者がいないのを良いことにジャンプやターンなどもしてみた。バランスを崩せば濁流と化した川へ真っ逆さま。でもそれもいいと思った。ダンシンインザレイン。市営バスの赤いなヘッドライトが熱狂するびしょ濡れの瑠璃を血染めに照らし、遠ざかる。
私は嵐山に嫌われている! 頬を思い切り殴りつける大粒一つ一つに意志があるように思えた。どこに行っても、このような祝福を受けたことはない。お天道様は常に瑠璃をあたたかく照らし、包み込んでいた。しかし、嵐山だけは違った。下等生物を鞭で殴るように冷たい雨を降らせ、食肉を冷凍するように身体を凍らせた。私は嫌われている! 瑠璃はその冷えた身体で、自動販売機のアイスを買い、足で水を蹴散らして、渡月橋を渡りながらそれを舐めた。クッキークリームを買ったが、ほとんど雨の味だった。食べ物が不味いというのはこういうことなのかと初めて知った。嵐山は、瑠璃が知らなかったことを全て教えてくれた場所だった。
甘美な記憶を辿りながら、瑠璃は空を見上げる。そして、内心に焦りを募らせる。
……晴れている。
いや、まだここは嵐山じゃない。きっと嵐山に着いた瞬間、大雨が咲き乱れて私を殴ってくれる。
自分に言い聞かせながらも、日傘の柄を握る手に汗が溢れる。一歩一歩前進するたびに、不安がどっと押し寄せる。
晴れるな!
晴れるな!
しかし願いは通じず、その日、嵐山は好天に恵まれた。
立ちすくむ瑠璃から延びる虚無の影は膨張し、今にも瑠璃を食い殺さんとしている。
……あーあ。つまらない世界。煉獄。地獄。役立たずの塵。ゴミ。ミジンコ。何もかもが私の邪魔をする。
ぷちん。
瑠璃は日傘を地面に叩きつけると、足を振り上げてバキバキンと一気に踏み付け、骨という骨を折り尽くした。肩で息をして、カタルシスに浸る。しばらくして、自分の周りに人だかりができていることに気付いた。綺麗に描かれていたであろう平行眉が不細工に曲がっている女。男の腕にしがみついてこちらを凝視する女。笑いながら談合する男たち。彼らの手にはスマートフォンが握られている。
彼らから向けられているのは、敵意だった。1年前の嵐山と同じ、敵意だった。
瑠璃の頬が赤らむ。自分が求めていたもの、虚無に苛まれた理由を、この瞬間に全て理解した。
瑠璃は傘を壊し尽くすと、今度は扇子をステップよく踏みつけた。それはまるでタップダンスのようで、ギャラリーは大いに沸いた。
「なにこいつ、やばすぎ」
「イカれてんだろ」
息が上がる。黒いノースリーブドレスの脇から、透明な汗が飛び散る。
ハレルヤ!
ハレルヤ!
「この人、何で笑ってるの……?怖いよ」
瑠璃は非難と好奇と蔑みの視線を独り占めし、隅から隅まで味わう。美味しい空気が徐々に身体を満たしてゆき、やがて瑠璃から影が消えた。
嵐山乱惨 花鳥あすか @unebelluna
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