第一章

1-1


 書には、聖なる力が宿る。

 文字には、まずはつづった者の心がこもる。受けがれるうちに時が宿り、読まれ広がるうちにえんが増していく。それは何もてきな話ではなく、実際に書が力を持つのである。

 これは、そんな世界の物語だ。

 建国より三百余年を数える、西の大国ロッドガルド。

 王都オセルを見下ろす小高い丘の上、この世の全てのはじまりとされる聖典『創世のしょ』の第一写本をまつだいしん殿でん

 アリアセラ――アリアは、そこで暮らす見習いだ。

 せいはない。神職に就く間、ぞくの身分は捨てなければならない決まりである。

 しんこうの中心である大神殿は、どこの国であれ、国家のしんをかけてうんとそうごんに建てられるもの。ここ、ロッドガルド大神殿も例外ではない。

 広大なしきないにははくどうが連なり、全てに聖典の文言――聖句をモチーフにしたさいもんようが刻まれる。中でもとりわけ重要な写本室は、大きく窓が切られ、神官や巫女たちが日々の聖務である聖典の転写作業にはげむため、細長いづくえがずらりと並ぶ。


「ごきげんよう、アリアセラさん」


 コツコツとブーツのかたかかとを鳴らし、文机の間を歩くアリアに、どうはいの巫女見習いたちが、ややためらいがちに声をかけてくる。


「ごきげんよう、みなさま」


 対するアリアは、ていねいしゃくはしつつ、――しかししょうどころかまゆ一つさえわずかにも動かさず、いたってたんぱくに返して通り過ぎた。彼女が歩くたび、顔の横のひとふさだけ編んで、くるりと後ろでシニョンにまとめたプラチナの長い髪が、さらさらと風に遊ぶ。

 同じ色のまつ毛はせられ、晴れた日の湖水のようにんだあおの目に、い影を落としていた。白いはだなめらかで、ほおにほんのりとあわべにす。整った顔立ちも相まって、うでのいい職人のこしらえたせいこうなガラス細工のようだ。朝の空気をらす声は、銀の鈴のかろやかさ。聖職にあることを示す胸元のメダイヨンが揺れ、ほっそりとしたがら身体からだおおう簡素なの白いトゥニカのすそが、ゆるやかにひるがえった。

 その様子を横目で見やりつつ。巫女見習いたちは、羽根ペンを紙に走らせる手を止めて、こそこそとささやき合う。


「アリアセラさん、今日もとってもれいだれより早起きして聖務に励んでいるし、聖術の成績もゆうしゅうだなんて、本当にすごいことよね。品行方正で、困っている仲間がいればそっせんして声をかけて助け、真面目にしゅぎょうのぞみ、すぐれた神力も持っている……なんて。出来過ぎて、本当に同じ人間かしらと思っちゃう」

「でも、あんまりに無表情で、話さないし……正直、少しだけアリアセラさんって苦手なの。いい人なのは知っているのだけれど。とっつきにくくて、こわいわ」

「わかる。だまっているとお人形さんみたいだもの」

「聖女候補の筆頭って話だしね」


 アリアは、このロッドガルド大神殿で、ちょっといちもく置かれる巫女見習いだ。

 実力や容色、素行もさることながら。何より、いつでもくずれない氷の無表情こそ、周囲の関心を引く一因になっていた。先日の大雨で、かみなりが落ちた大聖堂のステンドグラスが一つくだけた時も、悲鳴をあげて泣いたり逃げまどったりする巫女見習いたちの中で、平然とゆかに散らばったガラスを片付けたのはアリアだけだった。


「ねえ知ってる? アリアセラさんって、やんごとない身分のお姫様なんですって! 実は王家のぼうりゅうで、神殿に入ったのはご実家が政争に敗れたからだと聞くわ」

「今は、ジークフリード殿でんが立太子されていても、ほとんどルクレツィア殿でんですものね……じゃあアリアセラさん、きっと王太子殿下のばつの?」

「わからないけど、ひょっとしたら……ね」

「お気の毒に」

(こそこそ言ってるけど、聞こえてますって)


 根も葉もないうさわばなしに興じる同輩たちをしりにアリアはさっさと席に着くと、じょうに備え付けられたえんじゅばこから羽根ペンとインクつぼ、清書用の紙束を取り出した。いろいろとありもしないことを囁かれるなど、もう慣れた。何かと他人をネタにしてかげせんさくじゃすいかえすのが、こうしたへいされた空間の常だ。


(お姫様なんてとんでもない。残念ながら私は、ド平民どころか親もいない、ひんみんくつ出身のなんだけどね。でも、こうして明日のご飯の心配をせず暮らせて、しっかり学をさずかるばかりかお仕事までいただけるんだから、本当にありがたい話だわ)


 雑音を気にせず、アリアはもくもくと聖典を書き写す作業にいそしむ。

 ちなみに聖典の転写は、いわゆるほう活動ではない。写本は全て、実用品だ。

 なぜなら、神殿のように、人々のおもいや信仰心が『聖気』として集まった聖域において――ごく一部のとくしゅな修行を積んだ者に限った話ではあるが――聖典を手にし、中に記された聖句を引用して唱えれば、そこにめられた心の力をかいしゃくし、動力源にして、『聖術』と呼ばれる不思議のわざを使うことができるのである。

 神官や巫女は、全てが聖術の使い手で、聖典の管理者だった。

 聖術の力には法則があり、場に集まった聖気のさに比例する。誰もが知るような有名

な文言を引用すれば、それだけ大きな技が使える場合が多い。

 ただ、単純な量のみの話でなく、聖句それ自体のふくむ意味はもちろん、生まれ持っての神力という素質、使い手自身との縁深さなどの諸条件がえいきょうしてくる。おのれにとってみ深い文言を見つけて用いるのは、聖術使いの基本であった。

 ちなみに全ての聖典には、『創世の稀書』と呼ばれる長大な原典があるが、半ば伝説と化し、現在の所在は不明である。各国に伝わっているのは、全て写本に過ぎない。

 果たして『創世の稀書』の原典に直接れて縁を結び、できるだけ多くせいな写本をへんさんできた者たちが、国をおこしてきたものである。ゆえに、世界で名だたる国の王族たちは、が神官や巫女である場合が多かった。

 原典から直接書き写された第一写本には、いっぱんに、その土地の名がかんされる。たとえば、このロッドガルド王国のものなら『ロッドガルド写本』といったふうに。原典から遠ざかれば遠ざかるほどその力は落ちるので、写本の写本にあたる枝本になると恩恵は小さいが、さいな術であれば問題なく使うことができる。

 ロッドガルドでは紙の原料となる木材の生産がさかんで、しょう技術も発達しているため、しょみんでも上質な紙が安価で手に入る。こうして、巫女たちが日々書き写す枝本のへんは、いっぱんじんが火種や光源として活用できるよう、せいじょうな場で聖術を込める加工をほどこされ、神殿の貴重な収入源になっていた。


『我が声はたえなるてんらい、心は|甘《かんしずく、たましいは従順なる書のしもべにして知のけっしょう……』


 もう何千回と書き写したか知れない、元章一節目ぼうとう。羽根ペンを絶え間なく動かしてその聖句を書き付けながら、アリアが作業を進めていると。

 後ろで噂話に花をかせていた巫女見習いたちは、ころりと話題を変えた。


「そんなことより。ねえ聞いた!? 来週、とうとう『名もなき様』の新作が出るって!」

「知ってるわよぉ、もうみんなその話題で持ち切りだもの!」

(!)


 たんにアリアは、背後の机から聞こえてくる仲間の巫女たちの声に、並々ならぬ集中力でさっと耳をそばだてていた。


「もう半年も新刊が出ていなかったから、しっぴつ活動を休止されたんじゃ……って噂もあったけど、思い過ごしでよかったぁ」

「待ってたがあったわよね」


 彼女たちのはしゃぎように、何食わぬ顔をよそおいながら。アリアは、ふふ、と心の中でのみニヤついた。


(えへへ、待っててくれたんだ)


 神殿のような、ぞくから切りはなされたはいてきな共同体でしばしば起きる現象として、らくの不足がある。

 日々を修行と聖務のじっせんのみにささげ、質素けんやくむねとする神官、巫女やその見習いたち。

 彼ら彼女らは、貧民窟出身のアリアとは違い、貴族や商家などゆうそうの子女が一時的な行儀見習いに来ている場合も多い。つまり、本来は退たいくつに弱い。

 そして、そんな禁欲的なかんきょうにあって、昔から慣行とされているのが――一部の有志たちが個人で発行し、神殿内でのみ流通する、娯楽本のたぐいである。

 娯楽本の書き手は、通例として本名を明かさない。『エリザベート』や『ベルナデッタ』など、古風でゆうな仮のごうを使うのが慣わしだ。そして、買い出しにまぎれてひっそりと活版印刷屋に行ったり、ひっせきして自ら転写を繰り返すことで、多くの作品を流通させてきた。古い英雄伝説を題にとったじょもあれば、現代の世情を反映した恋愛小説、痛快なふうもの、果ては研究書までもあり、その種類は実ににわたる。

 書き手になりたければ、目星をつけたせんぱいこうしょうし、その集まりである秘密会に参加しながら、刊行の仕方や執筆のごくを教わる。それら全てが表に出ず、そもそも存在しないもの、、、、、、、、、、、として高位の神官や巫女たちに公然のおこぼしをもらいながら、ごくひっそりと人から人に伝授されてきた。時おり、あまりに過激な内容のために上部から発行禁止を食らう例外もあるが、それでもこの慣習自体は、れん綿めんと神殿内で続いているのである。

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