第26話 BADEND①「鞠」
こんな夢を見た。
俺は暗い空間にいる。
眼前では気難しい表情をして、腕組みをしている奴がいる。
謙吉だ。
『まったく君ってやつは、本当に手を焼かせてくれるね』
これが夢だということは分かっている。おそらく明晰夢というやつだろう。
謙吉は何やら苛立たしげだ。
俺には謙吉がこんな表情をしている理由が思い当たらない。
『おい、どういう意味だ? 俺は何かしちまったのか?』
『逆だよ。何もしなかったのが問題なのさ』
『というと?』
『君は林美代さんとのダンスの練習に夢中になりすぎて、家で待っている家族をおろそかにしたんだ。帰りだって遅くなっていたでしょ? ついでに言えば、君を待っている子に連絡をすることも忘れがちになった。一人で留守番をしているその子のケアを何もしてあげなかった』
『あっ……』
俺は思い出す。
眠りにつく前の記憶を。
俺の耳にまとわりつく、血を吐くような純情の言葉を。
――お兄様、鞠だけのお兄様。
――鞠です。鞠ですよ。うふふ、良かった、鞠の声は聞こえているんですね。
――最近のお兄様ったら、まるで鞠がいないかのように生活なさるんですもの。
――鞠の声すら忘れてしまわれたのか、心配になっていました。
――お兄様、鞠は寂しかったのですよ。
――お兄様が鞠を置いて他の女に現を抜かす毎日を、耐え忍んできたのです。
――鞠はお兄様の気を引くために、結構頑張っていたのです。
――それなのに、それなのに……どうして……っ!
――なぜ連絡をくれないのですか。なぜお返事すらくれないのですか。
――鞠の心は死にました。寂しさのあまり死にました。
――お兄様に殺されたのですよ? お兄様が他の女を選ぶから。
――鞠はお兄様と御一緒になるために生まれてきたというのに。
――なぜ意地悪をなさるのですかお兄様。
――鞠の体の半分が、あの女の血で出来ているからですか。
――それなら鞠は死にましょう。それでお兄様にご満足いただけるのなら。
――どのみち、お兄様が手に入らない人生には、未練なんてありません。
――ですがお兄様。鞠はあの世へのお土産を持っていきます。
――そう、お兄様の魂ですよ。
――お兄様、もう気付いているのでしょう。鞠たちを包むこの香りに。
――鞠とお兄様を結びつけるための香りですよ。
――ほら、手に力が入らなくなってきましたね?
――鞠も一緒です。だんだん力が入らなくなって、眠くなってきました。
――一緒に旅立ちましょう、お兄様。
――お兄様、黄泉路の途中で鞠が疲れてしまったら、背負ってくださいな。
――昔のように。子どもの時のように。
――お兄様が鞠を見てくれたあの頃のように。
――ずうっと一緒ですよ、お兄様。
『……とまぁ、これが君の物語の一つの結末だ』
闇の中、謙吉は眼鏡を光らせている。
『家族にはいくらでも迷惑や心労をかけていいと考えるのは浅慮だよ。君が正常な家族関係を構築できない理由については僕も知っている。だけど、過去を言い訳にして、今を生きている子をないがしろにするのは違うんじゃないかい?』
『…………』
『ま、少しは自分の生活を振り返ってみることだね。君の傍にいる、君を想う人の気持ち。それを少しは意識してみたらどうだい?』
パチン!
謙吉が指を鳴らす。
闇に閉ざされていた空間が強烈な光に包まれて、そして――
ガバッ!
俺がベッドから上体を起こす。
寝汗がびっしょりだ。随分と嫌な夢を見ていたらしい。
夢の中に謙吉が出てきたことは覚えている。
謙吉が何やら聞き捨てならない言葉を言っていた気がするが、内容とかは一切思い出せない。
ただ謙吉が出てきた夢だった。俺が覚えているのはそれくらいだ。
「お兄様?」
か細い声がした。
見れば、鞠がお玉を手に持って、俺を見ている。
「その、朝ご飯の支度ができたのですが……体調が優れませんか?」
「いや……すぐに行く」
俺はそう返答した。
軽く身支度を整えて、朝食の席。
今日の朝食は和食だ。ご飯、みそ汁、冷ややっこ。おひたしに小ぶりな魚の干物もある。鞠は和洋中どの料理にも対応してくれるので、ありがたい。
いただきます、と言って。
みそ汁に口を付けて――ふと気づく。
「味が変わったな」
「えっ?」
鞠がキョトンとしている。
一見すれば普通の鞠だが、みそ汁の味は普通の鞠のものじゃない。
俺は鞠をじっと見る。鞠は俺の視線から目を逸らす。
……まさか。
「おい、鞠」
俺は立ち上がって鞠に近づき、鞠の額に手を伸ばす。
触れてみれば、やはり。
「お前、すごい熱だぞ!」
「あ、ははは。ごめんなさい。鞠は少々体調を崩してしまったようで」
「ばっか、なんで我慢して隠すんだ」
「お兄様のご迷惑にはなりたくないですから……ふぇっ⁉」
俺は鞠をヒョイと抱きかかえると、ベッドに向けて運ぶ。
「お、お兄様。鞠、重くありませんか?」
「どこを気にしているんだよ……自分の体をまずいたわってあげなさい」
ポスン、と。
鞠をベッドに横たえて、毛布をかけてあげて、俺はスマホを取り出す。
「今日、看病するから学校休む」
「いけません……お兄様は最近、学校で何か大事な練習があるのでしょう? 鞠のことは気にせずに、そちらを優先してください……」
横になったまま、そう言う鞠に。
俺はそっと手を伸ばし、頬を撫でてあげる。
「いつも頑張っている家族のピンチに、ほんの少しでも力になりたいんだよ」
そう言えば、鞠はウルウルと目を潤ませる。
「嬉しい……お兄様……ありがとうございます……」
その日、俺は学校を休み、鞠の看病に一日を捧げた。
鞠は俺に手を握ることを求め、俺は鞠の傍でずっと鞠の手を握っていた。
「お兄様、鞠は幸せ者です………………すぅ」
鞠は安心したようにくうくうと眠り始め、そして次の日にはまるで憑き物が落ちたかのように、すっかりと元気を取り戻した。
元気になった鞠の作ったみそ汁を味わう。
みそ汁は、俺の舌に馴染んだ家庭の味がした。
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