第22話 恋の潮目①
すごくすごく大切なことを忘れている気がする。
鞠が作ってくれた食事を食べて、洗い物をして、洗濯機をフルパワーで稼働させている間にも、もやっとした感覚が付きまとっている。
でも、それを思い出せぬまま学校に来てしまった。
教室のドアを開ける。
エリスと美代がそこにいて、俺は全てを思い出した。
思い出すのが遅すぎた。
【割れた食器を二人きりでお片付け。しかもそれが学園公式のページに投稿されているのは、少し……気になってしまいますねぇ】
「おっはよー、毛利君っ! むっふっふ、美代っちのお姉ちゃんである美代子っちの魅力に、毛利君もついに気付いちゃったかぁ~! ということで毛利君、美代子っちの魅力について美代っちと存分に語り合うために、今から人通りの少ない体育館の裏まで来てくれるかな? 来てくれるよね? 来いよ?」
二人からの圧が凄い。
俺は為す術もなく、体育館裏まで連行されるのであった。
「第一の天使がラッパを吹き鳴らせば、血の混じる音と共に火が地表に降り注ぎ、大地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、青く茂った全ての草が焼けてしまった。第二の天使がラッパを吹き鳴らせば、火に包まれた大山が海へと落ち、海の三分の一は血となり、海に生きる者の三分の一は死に絶え、船の三分の一がその形を失った。第三の天使がラッパを吹き鳴らせば――」
「感情のない目で聖書の一節を詠唱しないでくれ。怖いから」
体育館裏で、俺は2人と向き合っている。
美代は「美代っち」の演技をかなぐり捨てて、本性を露わにしている。
エリスにしたって、その笑みにいつもの余裕さがない。
この二人を相手に、対策をしておかなかったのが俺の最大の不幸だ。
いや、昨日は親父との対談という激レアかつ激重イベントがあったので、それ以外のことがすべて吹き飛んでしまった。
せめて、自分がやるべき課題をこまめにスマホにメモしておく癖をつけておくべきだったのだ。
メモの内容がたとえ「エリスと美代への言い訳を考える」という、字面的にものすごくダサい内容であってもだ。
さて。
まずは美代が口火を切る。
「ねぇ於菟、お姉ちゃんとどういう仲?」
「直球だな」
「お姉ちゃんってさ、自分の写真をネットに乗せることとかってあまりしないの。それなのに於菟と一緒に写真を撮って、それをアップロードしてくるなんてさ。すこしおかしいよね?」
「姉に直接聞いてくれよ」
「簡単に言ってくれるけど、もしお姉ちゃんの口から『実は私も毛利君を狙っていたんです~』って言葉が出てきたらどうしてくれんの? 姉妹間戦争が起きるんですけれど? 於菟ってば、そんなにアタシの変わり果てた姿が見たいの?」
「負ける前提かよ」
「当たり前でしょ! ふわふわした見た目に騙されがちだけど、実際は近距離パワー型のバーサーカーよ⁉ インファイトになったらアタシ勝てないもん!」
悲痛さすら宿る声からは、人には決して明かせない姉妹の歴史のようなものが感じられる。
そっか、美代の腹パンを以てしても敵わない女傑だったのか。
そんなことを考えて、俺は我に返る。
今、相手にするべきは美代だ。
そして俺と林先輩の間には、勘繰られるようなことは何もない。
それを言葉にすればいいだけ。嘘を吐かなくていい人生の、なんと気楽なことか。
「はぁ……あのな、一回しか言わないからよく心に刻んでくれ。俺とあの人はそんな仲じゃない! 以上!」
【オト、日本語だったので分かりません。もう一度、ドイツ語で言ってください】
【はぁ……あのな、一回しか言わないからよく心に刻んでくれ。俺とあの人はそんな仲じゃない! 以上!】
同じ言葉を繰り返す俺、とってもダサかった気がする。
【オトは、割れたお皿を男女が公衆の面前で一緒に片づけることの意味を知っているはずですよね?】
【ドイツではそういう意味なのかもしれないが、日本においては深い意味があるわけじゃない】
【ドイツでそういう意味があるという点が重要なのです。オト、いつまで私を試す気なのです? こういうことをしなくても、あなたの言葉を受けたあの日から、私の心は決まっているのに……】
【ん? おい、エリス。それはどういう意味……】
エリスが引っかかる物言いをしてくる。
俺が問いただそうとした、その時。
「私のために争わないでください~」
声がかかる方向を見れば、場に林先輩が表れていた。
美代が「お姉ちゃん……」と警戒気味の声を出す。
「うふふ、昨日から美代の様子が少し変ですから、気になってこっそり着いてきてしまいました。なるほど、そういうことでしたか~」
「……お姉ちゃん、アタシたちの会話を聞いてたの?」
「はい~」
林先輩は、いつものふわふわした笑みで言う。
「安心してください~あの写真には、お二人が心配しているような意図はありませんよ~。生徒会の広報の一環としての写真。ただそれだけです~」
俺は、思わぬ援護射撃を得ることができた。
林先輩がエリスの方をちらりと見たので、俺はやるべきことを思い出す。
【エリス、林先輩も言っているぞ。あれはただの広報資材で、他意はないって】
【……本当ですか?】
う~ん。いまいち信用がついてきている気がしない。
翻訳者の信頼性って、そのまま翻訳の信頼性と直結しているからな。
エリスが俺に少しでも疑心を抱いてしまうと、すんなり解決とはいかなくなるのは当然だ。
さて、どうしようか。
俺が悩んでいると、林先輩が薄く笑った。
【ヴァイゲルトさん。安心してください。彼の言っていることは本当ですよ】
「⁉」
俺は目を見開いた。
急いで美代に目を向けると、美代も俺の方を見て首を横に振る。
美代も、林先輩がドイツ語話者だと知らなかったらしい。
「先輩……ドイツ語を喋れたんですか?」
「喋れませんよ~」
「…………?」
今、喋ってたじゃん?
「あの一節だけ、さっきスマホで調べて暗記したのですよ。どういう展開になっているのかは察せましたので~」
ああ、なるほど。
そういうことだったのか。
【……エリス。この先輩は、今のフレーズを伝えるために暗記してきたそうだ】
【…………】
エリスは無言で、先輩を見つめている。
先輩はぽわぽわした雰囲気を纏いつつ、エリスを見つめ返す。
【オト、本当にこの人はドイツ語が分からないのですか?】
【ああ、さっきのフレーズだけらしい。エリスにあの写真のことを正確に伝えたくて、慣れない言語を覚えてきてくれたんだ】
【そうですか】
エリスはじっと俺の顔を覗き込む。
俺の瞳に偽りの陰を探しているかのようだ。
【ふふっ、どうやらオトは正直な人みたいですね】
そうエリスが言ってくれた。
俺の誤解が晴れたのだろうか。それならばよかった。
【分かってくれたか】
【はい】
エリスは朗らかに笑い、言うのだ。
【それにしても、於菟のお知り合いの女性ってお茶目なのですね。口元によだれの跡をつけたまま、人前に顔を出すなんて】
は?
俺はエリスの発言に戸惑った。
よだれの跡をつけている奴なんて、ここに一人もいないはずだ。
ふと、視線を横に滑らせる。
林先輩の方を見て――俺は目を見開いた。
ドイツ語が分からないはずの先輩が、手で口元を確認していたのだ。
【それでは失礼します】
エリスは薄く笑って、場を退出していく。
「…………」
林先輩は一瞬だけ俺を見て、そのまますっと背を向けた。
何も言わずにその場を後にする先輩の足取りは、いつものふわふわとしたものではなく、離脱という明確な目的を感じさせるものだった。
「……ねぇ、於菟。今なんのやりとりがあったのよ」
ドイツ語が分からない美代が、俺の袖を引く。
俺は「分からない」と答えれば、美代もそれっきり深堀りしてこなかった。
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