第21話 人質②

 バシィッ!



 おでんの屋台の中に、するどい音が響いた。

 俺の拳に確かな感触が駆け抜けて――だがそれは、俺がイメージしていたような、親父の頬骨を打つ感覚ではなかった。



 俺が放った渾身の拳を、親父は片手で受け止めていたのだ。

 もう片方の手でワンカップを握ったままで。

 俺の渾身の拳を受けてなお、酒を一滴もこぼさぬままで。



「私が陸自にいたことを忘れたか? お前の拳なんて容易く止められる」



 親父はつまらなそうに俺の拳を払う。

 確かに親父――毛利林太郎は陸上自衛隊に所属し、国防を担う立場にあったことがある。

 チンピラ程度ならいくらでも地に転がせる俺の拳も、親父からしてみれば児戯同然だということなのだろう。



 だが、それがなんだっていうんだ。

 彼我の力量の差を見せつけられて、それでも俺の怒りは勢いを失わない。

 弟を……不葎を廃棄物同然のように扱う親父を許す道理は、俺の心のどこを探したってありはしないのだから。



「テメェ、一体どういう了見の物言いだ!」

「鎮まれ。お店にご迷惑だろうが」



 親父は目の前の老人に、軽く「お騒がせをしている」と頭を下げる。

 老人は何も言わず、ただ親父に会釈を返した。この辺りの仕草に、路上営業特有の肝の据わり方が表れている。




「あんた……不葎はまぎれもなくあんたの息子だろうが。病弱だったとはいえ、実の子どもだっただろうが。めったに帰ってこないあんただって、たまに帰宅すれば鞠や不葎を可愛がっていただろうが……っ! なのにどうして、そんな惨いことが言えるんだよ……っ!」



「仕事に使う道具は誰だって丁寧に扱うだろう? メンテナンスだって欠かさない」



 絞り出すように詰問すれば、返される答えは俺の予想の下をいくものだ。



「鞠も不葎も、他の子どもたちも、私にとっては目的のための道具の一つだ。だから丁寧に遇していた。だが不葎は目的を果たすどころか、目的の邪魔になる存在になり果てた。私の人生にはアレは不要だ」



「血の繋がった息子にかけてやる言葉がそれか⁉ 息子の命より、目的ってやつの方が大事ってか? だとしたらその目的ってやつは、一体何なんだよ!」







「お前に家族を作ることだよ、於菟」







 ――は?

 予想外の答えに、俺の心が冷えた。



「於菟、私はお前を愛している。私が妻・登志子としこが産んだ子であるお前を」



 登志子は俺を産んだ母だ。

 俺を産んですぐに死んだと聞いている。



「そう、私はお前を愛していた。だが私は多忙の身。まだ幼いお前の近くにいてやれなかった。母も、父も――家族と呼べる者が誰一人側にいないまま泣いている赤子のお前を見て、お前には家族が必要だと私は考えた」



 語る親父は「だから再婚したのだ」と続ける。



「お前に沢山の家族を作ってやるために、新しい妻を選び、沢山の子を作った。これでお前に寂しい想いをさせずに済むと考えた」



 俺に沢山の兄弟を作るために、なるべく若い女を選んだというのが親父の言だ。

 そうして生まれてきた子どもたちを親父は愛でた。



 の、家族の役を担える生きた人形たちだったからだ。親父が子どもたちに課した「仕事」とは、俺――於菟にとって良き家族であるように振舞うこと。

 それができない子どもは、不用品。それが親父の判断だ。



 だが、誤算があった。

 新しい妻の志夏子しげこは、親父との間に沢山の子を儲けたことで「私は夫に愛されている」と勘違いをしてしまった。




 親父は必要があったから愛でたにすぎず、そこに愛なんてものはない。




 そこを読み違えてしまったあの人は、親父の愛(という幻)を味方につけて、俺を徹底的に迫害した。

 将来、自分の産んだ子が毛利製薬を継げるように狙ってのことだろう。




 だがその行為が、親父を激怒させていた。




「あの女にはいずれ罰を降す」




 親父は薄く笑う。




「私の金で好きなものを買わせているし、贅沢もさせてやっている。しかしそれは、あの女にとって猛毒だ。奴の金銭感覚はズタボロで、もう二度と『普通の暮らし』には戻れない。あいつに育てられている、あいつが産んだ子どもたちもそうだ」




「……そこであんたが離縁を切り出すという算段か。そのためのカードが俺の毒殺未遂。あんたが俺の一件を伏せていた理由の本丸は、これか」




「通常の離婚では、財産の一部があの女の手に渡る。だが服役すれば、婚姻関係を継続できない正当な理由になる。俺の実子であるお前への殺意まで立証できれば、服役は確定だ。あの女と、あの女が産んだ子らは、俺の財産を得ることなく素寒貧で社会の寒空に放り出される。毛利家での豪奢な生活に慣れたあいつらでは最早まともに生きていけん。生活の落差が絶望を生み出す。生き地獄だ」



「……鬼め」



「私のを傷つけた奴らだぞ? 地獄の一つや二つ、経験してもらわなければつり合いがとれない」



 親父はワンカップを飲み干して、俺を見る。




「――が、鞠は別だ。あいつはお前に対する情を見せた。その一点を評価し、鞠だけは幸せになれるように取り計らった」



「……だから鞠を毛利家から追い出したのか?」



「お前と共に過ごすことは鞠にとっても本望だったはずだ。鞠を家から追い出せば、お前が拾うことも察しがついていた。現にそうなっているだろう?」



 俺が鞠を助けることは、親父の棋譜どおりだったらしい。



「鞠は復讐の対象から外したが、他の奴らはそうはいかん。遅かれ早かれ地獄を見てもらうことになる……もっとも、それはお前次第だがな」



 親父の話のスポットライトが、急に俺に向く。



「奴らを救うことができるとしたら、お前だけだ」



「何が言いたい?」



「お前が毛利製薬を継ぐというのなら、私はお前の弟や妹たちへの復讐を取りやめてやってもいい……そう言っている」



 なるほど。

 俺は合点がいった。


 親父は俺が家から離れて自由に過ごすのを黙認している。

 だが、毛利家からの完全な離脱は許さない。

 いずれは毛利製薬を引き継がせるつもりだ。


 正直、俺は弟や妹たちには恨みはない。

 母親を真似て色々俺に辛く当たってきた子たちだが、あれは環境がそうさせたのであって、根は良い奴らだと思っている。


 そしてそれを親父も見越しているのだろう。

 だからこそ、人質の価値がある――そう判断したわけだ。

 俺と毛利製薬をいずれ結びつけるための人質に。



「…………っ」



「今はまだ結論を出さなくてもいいし、結論を出すことを放棄してもいい。が、後者の場合、お前の兄弟たちが辿る末路は『地獄』の二文字だがな」


「なぜ毛利製薬を俺に継がせたがる? もっと優秀な人がいるだろ」


「毛利製薬のトップを担うものは、ある条件を満たしたものでなければならない」


「条件?」


「血だよ、血。血統だ。極めて優秀な血統が生み出す、究極の才能。それが毛利製薬を強くしていった。血のレベルからして凡人とは隔絶した存在でないと、毛利製薬を今後も拡大することはできない。膨大な社員を幸せにしていくことができない」


「…………」


「お前にこだわる理由は、お前の母親と、お前だけが条件を完璧に満たしているからだ。志夏子の子どもでは該当しない。私の血が薄まっている」



 血統。それが親父が俺にこだわるもう一つの要因か。



「於菟、カモメという鳥は知っているな?」


「ああ」


「カモメ……昔、日本では沖にいる海鳥のことを総じて『カモメ』と呼んでいたことがある。カモメとは、雑に括れるつまらない鳥……いちいち個別に名前を付けなくてよい存在を指す言葉として扱われていた。転じて、つまらない凡人のことを指す」


 そう言って、親父は一拍溜めて、ある言葉を口にする。


「鴎外」


「オウガイ?」


「『カモメの外』と書いて鴎外だ。つまらない凡人から外れた者。桁違いの優秀な者を指す。それが毛利製薬を率いていくものに必要な素質。於菟、真の意味で『鴎外の子』と言えるのは、お前だけだ」




 そう言って、親父は腰を上げる。



「病に苦しむ世界中の人々を救うには、一地方の薬問屋のままではダメだ。世界を覆う巨大な傘にならなければならない。そのために求められるのは、人間を超越する非凡な才能――『鴎外』の血だ。それを持つお前は、相応の定めを負っている。それは覚悟しておけ」




 言い置いて、親父は「ごちそうさま」と老人に言うと場を去ろうとする。


 去り際に、親父がポツリと言った。



「その酒、飲んでみろ」


「俺は未成年だ」


「それを一気飲みしたところで大して酔えん。鴎外の血というものはそういうものだ。肝機能が常人より強すぎて、アルコールをすぐに分解してしまう。送るのは渋江に任せたから、奴の車に乗れ」



 のれんをくぐって、親父の姿が消えていく。

 ひとり屋台に残された俺は、ワンカップの瓶をじっと見る。

 そしてふたを開け、一気に飲み干す。初めての酒は、ひどく苦い思い出として俺の頭に刻まれた。


 その勢いのままに財布から紙幣を二枚取り出して、場に置く。



「お代はいただいております」


「いいから、とっておいてください」



 老人に告げて、俺も屋台を出る。

 一気飲みをしたというのは、俺の頭はひどくクリアだ。



 親父が告げてきた残酷な真実がもたらす、後味の悪さ。

 それを忘れる優しい酔いを、酒は一切もたらしてくれない。




 ――そうか、これが『鴎外』の血の証ということか。

 ――俺は酒に逃げることもできないというわけか。




 夏の気配を乗せた風が吹く中で。

 俺は人生においてかつてないほどに、自分の血筋の業を思い知らされていた。



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