第16話 監禁①

「ちょっと休憩するか?」



 学習会が1時間を超えた頃、俺はそう切り出した。

 心労が半端ないことになっていたからだ。







 学習会では俺が数学、エリスが日本語を勉強している。



 鞠と花子も数学のテキストを広げ、分からないところがあればいつでも俺に質問できる状態。

 数学に関しては心労を生む要因はない。



 勉強会において一番ケアが必要な花子は「ううう、こんなに勉強しなきゃいけない社会の方が間違っていないっすか?」と、数学の枠に留まらない質問をしてくる。

 いつものようにアイアンクローで返答を……というわけにもいかないこの日。



 俺が「お前はやればできるよ」と返すと、花子は少しだけ嬉しそうな、だけど物足りなさそうな顔をしていた。

 アイアンクローが一種のコミュニケーションとして成立していた俺たちの関係において、優しい言葉はむしろ異物感があったらしい。




 まぁ花子は大丈夫だろう。

 問題はエリスだった。



 エリスは日本語を学びたいと意気込み、日本語の勉強をしている。

 だけど日本語⇔ドイツ語対応の参考書って、意外と少ない。

 


 困っているエリスに、俺がアドバイスしたのは「間に英語を噛ませる」こと。

 ドイツ語⇔英語の参考書と英語⇔日本語の参考書なら実用レベルの参考書が入手しやすいため、分からない言葉があればドイツ語から英語にし、英語から日本語に翻訳すればいい。

 これで読み書きの部分は対応できる。



 一方、発音の勉強は参考書だけでは対応できない。

 やはり日本語話者の助けが必要だ。

 だから俺が、エリスが教えを求める日本語について、発音を押していたのだが。



【オト、これを読んでみてください】

「好きだ」



【これもお願いします】

「愛している」



【あと、これも。私に向けて、情熱を帯びた声で】

「結婚しよ――おいエリス!」



 彼女が選んでくる言葉に極めて恣意的な何かを感じる。

 おかげで俺の顔は真っ赤だし、ふと視線を巡らせてみれば、目を丸くしている鞠がいて、その隣には「ぬぬぬぬぬぬぬぬ」と呻きながら俺とエリスを睨んでいる花子がいた。


 なお、花子に駄犬感が垣間見えたことは、俺に妙な安堵をもたらしてくれた。

 よかった、花子が花子で。

 このまま内面まで美少女になってしまっていたらどうしようかと思った。 



 まぁ、花子の駄犬感をもってしても、エリスの甘い精神攻撃による俺の疲労中和はできなかったわけで。

 俺の心は休憩を欲している。



 今日の面子から言って、餓狼に居座るチケットである角煮丼を頼む者はいない。

 1時間がたち、新しい注文が必要だった。

 俺は皆にメニューを回す。



「そうっすねぇ……わたし、パフェが食べたいっす」

「鞠はアイスティーをいただきます」

【温かなココアが飲みたいです】

「俺はレモンティーにしようかな」




 皆が飲み物をオーダーし直し、場の空気が弛緩する。

 新しい飲み物が来て、他愛もないお喋りに興じた。

 エリスの通訳は俺が担ったし、エリスも学習からひと月程度の日本語を懸命に使って、俺たちと日本語でコミュニケーションを図ろうとしてくれる。



「ヴァイゲルトさんは、翻訳アプリはお使いにならないのですか?」



 鞠がエリスに問う。俺が翻訳すると、エリスは苦笑する。



【観光客に対してはそこそこフレンドリーなドイツ人も、移住を考えている者に対しては敏感な反応を見せるんです。でも翻訳アプリに頼らず、現地の言葉でコミュニケーションを取ろうとすれば、「自分たちの文化を理解する気がある」仲間として受け入れてもらいやすいんですよ。だから私も、日本ではアプリに頼らないようにしています。日本の皆さんと早く仲良くなりたいですから】



 ああ、そうだろうな。

 エリスの話は俺も納得できる。

 ドイツでの短期留学では、俺や謙吉もその辺りは気にしていたので、極力アプリは使わなかった。



「そうだったんですね」



 俺が通訳して伝えると、鞠も納得したようだ。

 そんな妹を見つめる俺は――ふと。

 鞠の手元にあるノートがちらりと見えてしまった。



『監禁』『依存』『ぐちょんぐちょんのぬらんぬらん』『調教』



「鞠」

「なんでしょうかお兄様」

「説教」

「え?」

「説教!」



 鞠は一瞬ポケッとして、ふと俺が何を見ているのかに気付き、慌てたように自己弁護を始める。



「ち、違うんですお兄様! これはですね、新たな創作のアイデアでして。お、お兄様はご存じありませんか? 最近、一部のコミュニティで密かなホットワードになっている『純愛監禁』という言葉を!」

「存じてたまるかそんな呪わしい言葉!」

「有名なのです! アングラ界隈では有名なのです!」

「アングラ界隈の言葉を俺が知っていたら怖いだろうが! っていうか鞠がアングラ界隈の言葉を知っていたことに俺は今とても動揺しているぞ!」



 俺は鞠の手元からおぞましい呪物のノートを取り上げようとし、鞠が抵抗する。

 そんなこんなで学習会の息抜きは、結構長いものになってしまった。

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