第11話 初恋と踊り子①
4月2日の朝こと。
エリスが初めて教室に足を踏み入れた。
2年1組が静まり返る。
昨日、行動で遠目にエリスを見て湧いていた面々が、氷の張った水面のように動かない。
こういう美は遠目に見ているから湧けるのだろう。
近くで見ると魅力が強すぎて、一種の斥力として働いている。
誰もがエリスに近づけないなか、エリスはまるで意に介さないと言わんばかりに俺の方にやってきて――
【おはようございます、オト】
【……おはよう】
俺に挨拶すると、当然のように俺の隣の席に座る。
おい、その席は別の女の子の席なんだ。
その子がやってくる前にエリスにどくように言おうとすると、席の本来の持ち主である子が教室に足を踏み入れた。
マズい。
場が凍る。
教室にいるみんなの目が俺を見る。
何とかしろ毛利、と誰もが目線で訴えている。
――テメェらが何とかしろよ。
そう思っている間にも、彼女は自身の席に近づいてきて。
「えっ、そこ私の席――」
三つ編がチャームポイントの女の子が狼狽えて、俺は慌てて説明する。
「あ、ああ。ここにいるヴァイゲルトさんが席を間違えてしまったようだ。大丈夫、俺がきちんと自分の席に座るよう、言って聞かせるから」
すると、三つ編みの子が思案気な顔をする。
「……もしかして、ヴァイゲルトさんの席って、新しく用意されたあの席?」
彼女が指さした方――教室の後ろの左端に、真新しい机。
昨日までなかった席なので、多分あれがそうだろう。
「――じゃあ、この席はヴァイゲルトさんにあげる。その代わりに、私があの席に移るね」
えっ?
戸惑う俺を置いてきぼりにして、いつもの控えめな性格ならしからぬ剛腕進行で話を勧めた彼女は、自分の荷物を真新しい席に持って行ってしまった、
【オト、彼女は私に席を譲ってくれたということでいいでしょうか?】
【ああ……でも、なんで?】
もしかして俺の隣にいるのが嫌だったのだろうか?
ふと見渡せば、周囲の面々も戸惑い顔。
なぜだろう――そんな疑問を場が共有して。
そこに、答え合わせとなる男子生徒がやってきた。
「おはよーっす……ってアレ? なんでお前が俺の隣に座ってんの?」
「いいじゃないの。ささ、さっさと座りなさい。課題やったか確認してあげる」
「ゲェ⁉ おいおい、小学校の時以来だぞこの流れ」
「小学校の時から宿題サボりがち君が悪いんですー。さ、早くだ・し・て♡」
「え、ええと課題ね……課題……概念としては知っている……が、実際に手元にあるかというと……」
「やっぱり君には私がいないとだめだね。私が隣の席になったからには、昔のように毎日面倒見てあげるね」
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
勝手知ったる者同士の会話だと、すぐに分かった。
「「「…………」」」
俺を含めた周囲が「あいつらってああいう仲だったんだ」と気付いて。
それっきり、エリスが俺の隣に座ることにハラハラする者はいなくなった。
そして、俺の隣の席を射止めたエリスは、俺に重圧をかけてくる。
その綺麗な瞳で。香水で。吐息で。
俺の隣に常に自分がいることを、静かに、そして強烈に主張してくる。
それだけならいいのだが(よくない)。
エリスと俺の間には、ドイツ語を用いたプライベートネットワークがある。
彼女がこれを最大限悪用してくるのが問題だ。
学年主任の先生に要望されたとおり、俺がエリスに授業の通訳をしている。
【分離、独立、そして顕性――この3法則に分けて考えて、体系的に知識を組み立てる。こうすることでメンデルの法則は受け入れやすいものになっていくんだ。ここまでで質問はあるか?】
【ひとつ、分からないことがあります】
【ん? なんだ?】
【私とオトの間に子を授かった場合、顕性の法則で考えると、黒い髪の子になるということでいいのでしょうか?】
【…………】
【オト、どう思いますか? あなたによく似た、黒い髪と黒い瞳の子が生まれてくると、私は信じていますが】
【…………】
周囲の皆は、俺とエリスがドイツ語で生物の授業のやりとりをしていると思っているのだろう。
間違ってはいない。が、正しくもない。
エリスは周囲に聞かれていないことをいいことに、授業中に俺の顔から火が出そうな話を振ってくる。
【愛していますよ、オト】
【この後はホテルに行きますか? ふふっ、耳が真っ赤になっていますね。安心してください。私が契約しているユースホステルのことですよ。それとも……オトが想像したようなホテルに、一緒にいきますか?】
【ねぇ、オト。考えたことはありますか。実はこの教室のなかに、私たちのドイツ語を理解している生徒がいたら……って。あっ、少し動揺してくれましたか? やはり可愛らしいですね。食べてしまいたいくらい】
…………。
………………。
……………………いつまで耐えろと?
一週間がたち、俺はすっかり疲れ果てていた。
エリスの精神攻撃は留まるところを知らない。
俺が毛利家にいた時もいつも精神を苛まれていたが、エリスはあれとは別ベクトルで強敵だ。
俺の心への影響度だけでいえば、あの継母とタメを張れるレベルだ。
「ふぃいいいいいいいい……」
ある日。
俺がすっかり疲れ果てて、始業前だというのに机に突っ伏していると、「おっはよう」と声がかかる。エリスとは違う女の子の声だ。
顔をあげて、「うっ」と呻く。
「んー? どーしたのかな毛利君。アタシの顔を見てうめき声だなんて。美代ちゃん泣いちゃうぞ?」
「林……」
林美代。
俺のクラスメイトである。
誰に対しても距離感が近い人気者。男女問わずボディタッチを行う。
だから彼女が俺の耳元に顔を近づけても、誰もが「ああ、林が誰かに絡んでる」と思われるだけ。
そんな彼女は快活そうな表情を浮かべたまま、俺の耳元で。
「……かつての恋人にその対応って無いんじゃない、ねぇ於菟?」
「……解消しただろ?」
「アタシ、了承した覚えないんだけど?」
そう低く呟いた林……改め、美代は「いっけなーい」とわざとらしく声を上げる。
「アタシ、先生に頼まれた用事、まだやってないんだけど! あああ頼むよぉ毛利君! ちょーっとこの、哀れで可哀そうで可愛い美代っちを、毛利君の漢気で助けてやってはくれんかなぁ! くれんかなぁ‼」
「おい、林。テメェ一体何を……」
「なーに難しい話じゃないのさ。図書室の本を運ぶだけ。それだけだから、ね、簡単でしょ? 簡単だよね? 簡単だと思うよ?」
「林式三段活用やめろ」
こいつは誰かを自分の予定に巻き込むとき、三段活用で押し通してくる。
中学時代から変わらない美代の癖だ。
そしてこいつが強引に俺を巻き込もうとしてきたということは、話したいことがあるということだろう。
幸い、まだエリスも来ていない。
俺を追い詰めるには焦らなくてもいいという彼女の余裕の表れだが、美代と話す必要がありそうな今は、むしろ好機と言えた。
「わーかったよ、行くよ。手伝えばいいんだろ?」
「ありがとう!」
美代はニカっと笑う。
昔と変わらない笑顔で。
だけど、昔と変わってしまった内面で。
「それじゃーいまから図書室にダッシュだよ! はいれっつらドーン!」
「走るなっての」
俺と美代は連れ立って、この時間帯なら誰もいないであろう図書室に向かった。
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