第10話 心づくしの膳(鞠視点)

 私――毛利鞠は、これまで色々な男性を弄んできました。

 イケメンホスト、旧華族の御曹司、アラブの石油王にケモミミ美男子。


 どのような男性であっても鞠の原稿に閉じ込められたら、最終的に鞠の筆の前に膝を折り、薔薇堕ちすることになるのです。


 そう、鞠はBL作家。

 そしてお兄様――毛利於菟の一つ下の妹なのです。







「さて、作業を始めましょう」


 4月1日。

 今日で2年生になるお兄様は、学校に行ってしまいました。

 本当はお兄様にも不登校になってもらって、鞠と一緒にずうっと一緒にいてもらいたいのですけれど、わがままを言ってはお兄様に嫌われてしまいます。


 ですので、我慢、我慢。

 そう己に言い聞かせ、鞠は今日もパソコンに向かうのです。







 今日の鞠の獲物は殺し屋です。

 設定年齢19歳、かに座のB型。


 世界一の殺し屋なのですが、ターゲットである暗黒街の美しき貴公子に恋慕してしまい、仕事に躊躇いを生みました。

 その躊躇いの隙を突かれて捕まり、暗黒街の貴公子の前に首輪をつけて引きずりだされて、そのまま――



 はい、絵は見えました。

 後は手を動かして描くだけ。


 鞠が手を動かせば、ディスプレイには哀れな殺し屋えものが、ぐちょんぐちょんのぬらんぬらんにされていきます。

 こうしてまた一人、暗黒街の美しき貴公子のペットが増えるのです。




「……ふぅ」




 思いのほか筆の速度が速く、気付けば今日の目標は終えていました。

 時間を見ると、まだお昼にもなっていません。

 なので今から鞠の自由時間です。



「なにをしましょうか?」




 色々なことができますね。

 お兄様のためにクッキーを焼くこともできますし、少しアダルトな背徳系ゲーム(兄妹もの)をプレイすることだってできます。


 いっそ両方やりましょうか?

 背徳系ゲームをやりながら、ひたすらクッキー生地を作りまくるのです。


 なーんて。

 そんなことを考える鞠ですが、ふと思います。



 ――普通の人たちって、どういう風に暮らしているのでしょう?



 鞠は普通を知りません。

 不登校で、売れっ子BL作家。

 家族から離れ、お兄様と二人だけで暮らす。


 自分の生活を羅列すると、とても普通という言葉で括れないと分かります。




 鞠は普通を求めたりしません。

 普通であれば、お兄様を養うことはできません。お兄様の力になってあげることもできません。


 鞠はお兄様をお支えしたいのです。

 苛烈な人生を歩んでこられた、愛しく哀しいお兄様を。












 鞠は、毛利家の長女として生まれました。

 一つ上にはお兄様がいました。



 お兄様と鞠は母親が違います。

 お兄様を産んだ女性は、お兄様を産んですぐにお亡くなりになったとか。



 その方が亡くなると、すぐにお父様は志夏子しげこ――鞠のお母様と再婚しました。結婚した時のお母様は、今の鞠とそう変わらない年齢です。


 当時のお父様は既に毛利製薬の社長に就任し、巨万の富を得ていました。その富を継承する権利のあるお母様の気が大きくなったとして、それも無理はありません。


 ですがお母様の肥大した自我は、お兄様に牙を剥きました。

 お母様は、前妻の子であるお兄様を虐めぬいたのです。







 お母様に新しい子が生まれるたびに、お母様はますますお兄様を虐めるようになりました。


 お兄様が中学二年生になった頃だったでしょうか。

 お兄様にお付き合いをする人ができると、お母様はお兄様をひどくなじりました。



『あなたは終始ぼうっとしていて、毛利家を継ごうとする気概が足りない』


『それでいて女を選ぶ目もないものだから、性悪を家に連れ込むことになる』


『あなたの隣にいる女も、すぐに本性を現す。あなたが森家を継げば、隣にいるその女に毛利製薬は全て乗っ取られることだろう』


『あなたは頼朝のような人。やがて家も財も何もかも、女に取られるのがオチ』


『ほんとうに、あの人はどうしてあなたをこの家に残しておくのか分からない』



 お兄様は消沈していました。

 そのお付き合いしていた人とは、そこで解消になってしまったといいます。


 お母様のお兄様にたいする嫌がらせは、鞠から見ても酷いものでした。

 それでもまだ、当時の毛利家は対外的に「家族」と言い張れる程度の体裁は整えていたと思います。

 そのハリボテすら吹き飛んだのは、お兄様の誕生日の時でした。








 不吉な前兆はありました。

 鞠の弟、お兄様にとっては異母兄弟である不葎ふりつが病気になったのです。

 お母様はそれを見て「あの子のせいだ」とか「あの子が家によくない流れを持ってきているから」などと呟いていました。


 でも、その時の鞠は「また始まった」程度にしか考えていませんでした。

 お兄様への当て擦りはいつものこと。だから鞠も悪い意味で慣れてしまっていて、その後に起きる悲劇を予想できなかったのです。




 お母様の目の奥にある暗い光に、もっと早く気づけていたなら。

 悔みきれない鞠の不覚です。




 さて、弟の病気が益々悪化していくなか、お兄様の誕生日が来ました。

 お兄様は誕生日を迎えても、嬉しそうでもなんともありませんでした。

 お父様は仕事で家にいることもなく、お母様はあの調子で、祝われないことが当たり前だったからです。

 


 しかし、その日は違いました。

 お母様がお兄様に自ら手料理を振舞ったのです。


 これには鞠もびっくりしました。

 お兄様はもっとびっくりしていました。




『於菟、いままでごめんなさい』


『不葎が病気で苦しんでいるなか、あなたは不葎の身を常に案じてくれていた』


『その様子を見て目が覚めたの。於菟、せめて今日くらいは、あなたの誕生日を私の心づくしの手料理で祝わせて?』




 お母様がそう言うので、お兄様は満面の笑みで頷きました。


 ――ようやくこの家族が普通になった。


 鞠はこの時、そんなことを考えていたのです。





 お母様の作った料理を食べたお兄様が苦しみだす、その時までは。





 お母様はどうやら、お兄様がいなくなれば不葎の病気が癒えると思ったようです。

 思うだけならばまだ「バカ」の一言で片づけられもしたでしょうが、それを本当に実行に移す――しかも製薬会社の社長の妻である身で毒を盛るという点が、実にお母様らしいといえました。




 お母様がどれほど強力な毒を仕込んだのか、鞠には分かりません。

 お兄様が助かったのは、お母様のせめてもの恩情だったのか。

 それともお兄様の生への執念が、お母様の悪意を上回ったのか。

 本件が公になると株価に差し障ると判断したお父様によって全てがうやむやにされてしまった今となっては、誰にも分からないのです。



 ただ一つ、言えることは。

 あの事件がお兄様に毛利家への絶望を与えたということです。








 その後、お兄様はすぐに家を出ました。

 恨みの言葉一つ残さずに。

 もう自分は毛利家とは関係ない――無言の去り際が、そのことを雄弁に物語っていました。


「厄介者がいなくなったので、これから不葎はどんどん良くなる」


 お母様はそう言っていました。


 お兄様が去るのとすれ違うように、珍しくお父様が帰宅します。

 鞠はお父様に、何があったのかを全て語りました。


 すると、お父様が下した結論は――

 なんと、鞠の追放だったのです。



『お前はこの家から出ていけ』



 お父様はそう言って、鞠に僅かばかりのお金を握らせ、玄関からたたき出しました。めったに顔を合わせない親とはいえ、出会えば「お鞠、お鞠」と猫かわいがりをしてくれた、あのお父様が。


 突然のことに動揺してしまい、鞠は泣きながら許しを請いましたが、とうとう家の扉は開きませんでした。









 すっかり困ってしまった鞠が、すがった相手は――お兄様でした。

 もっとも、鞠はあのお母様の子。

 鞠の体の半分は、お兄様を苛んだあの女の血から作られています。




 そんな鞠を、お兄様が助けてくれるでしょうか?



 ――はい、絶対に助けてくれます。



 そんな確信が鞠にはありました。


 だってお兄様は、ずっと家族に飢えていたから。


「家族」という概念そのものが、お兄様にとって忌むべきものであり、そして同時に渇望しているものだから。


 鞠が「家族として助けて」と言えば、お兄様は鞠を助けざるを得ないのです。


 現に、鞠がお兄様に連絡を入れて「家族として助けてください」と言えば、お兄様は助けてくれました。

 鞠を今の家にあげてくれましたし、一緒に住むことも許してくれました。






 お兄様の弱みに付け込んだ結果が、今の鞠です。

 元々、鞠はお兄様に慕情を抱いていました。

 だから一緒に住めることは、素直に嬉しいのです。


 だけど――鞠は汚れてしまいました。

 お兄様の弱みにつけこんだ自分自身が嫌いです。

 ええ、大っ嫌いです。

 死ねばいい。そう思っています。


 自分自身を許せるとしたら、それは「お兄様の役に立っていること」。

 この一点をもってして、鞠は自分自身がこの世に生きていることを許しているのです。


 お兄様の役に立つことが、鞠の存在意義レゾンデートル

 この意義を失った時が、鞠の命日になることでしょう。






「お兄様」


 誰もいない家の中、鞠は微かに呟きます。


「鞠のお兄様。家族を欲しがって、家族に呪われて、お気の毒なお兄様」


 あの日、捨てられた鞠を助けに来てくれたお兄様のお顔を思い出しながら。

 鞠はそっと、誓うのです。



「母親という存在を知らないお兄様。母親の愛を知らないお兄様」


「大丈夫ですよ。いつだって、鞠がお兄様の母親になってさしあげます」


「だからどうか、鞠に甘えてくださいな」




 鞠の呪詛染みたお兄様への言葉が、家の空気に溶けていきます。

 いつもこの空気を吸っているお兄様の心を侵してほしいと切に願いながら、今日も鞠はお兄様の帰りを待つのでした。

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