第9話 日独戦
4月1日は、快晴だった。
中高一貫校である私立・御息所学園に新たな風が吹く。
高等部に新たな一年生が入り、俺たちは二年生となる。
講堂では制服姿の生徒たちが密集し、紺色の海原を形成している。
生徒たちの前に学園長が登壇し、中等部から高等部へ上がった生徒への寿ぎの言葉と、一つ学年を進めた俺たちへの激励の言葉を並べていく。
儀式は厳粛に進む。
そのはずだった。
『――ひとつ、この祝いの場にふさわしからぬ、残念な話がある』
ここで、学園長の怒りがこもった言葉を、壇上のマイクが広げた。
『私の愛犬についてだ。以前より……おそらくは去年から続く周到な犯行だと思われるが……私の愛犬のことを陰で「ヘムヘム」と名付けて呼び続けたゴミ野郎がいる』
「おい、この話をどういう顔で聞いたらいいんだ?」(小声)
「知らねぇよ。殊勝な顔でも作っておけ」(小声)
俺は隣にいるクラスメイトと小声でやりとりする。
本当に祝いの場にふさわしからぬ(規模が)残念な話であるが、学園長の怒りの気配に気圧されて、誰も制止できない。
『私の知らない所で「ヘムヘム」と呼ばれ続けた私の愛犬は、自分の本来の名前を忘れてしまい、「ヘムヘム」と呼びかけないと反応しなくなってしまった。我が愛しの愛犬には、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールという立派な名前をつけてあげていたのに……』
「ヘムヘムでいいじゃん」(小声)
「ヘムヘムでいいじゃん」(小声)
俺と隣の奴で、見解の一致を得る。
『犯人がこの学園の生徒であるということまでは、目星がついている。この中にいるであろう犯人に告ぐ。私からの恩情が欲しければ、今この場で名乗り出て、床に頭をこすりつけて赦しを請うように。言っておくが、学園側は全力をあげて本件を捜査する。逃げられはしない……』
学園長は場にいる生徒たちを見渡している。
なお、「学園側は全力をあげて――」のくだりでは、集う教職員の先生方が首を小さく横に振っていた。
学園長の言う「捜査」に、教職員は呼応しないらしい。
ならば学園側の全力とは、学園長一人のことを意味しているのだろう。
たった一人で、数多い生徒から犯人を探し当てるということか。
気概は買うけれど、ワンマンアーミーが過ぎる。
多分、下手人は見つからないまま終わるだろう。そんな確信があった。
その犬とやらに、学園長は殊更の愛情を注いでいたのであろうから、名前を変えられたことには同情もする。
が、今の俺は学園長を恨む気持ちの方が強く、同情よりも先に「ざまぁみやがれ」という暗い感情の方が先に出た。
俺にこんな荒んだ感情を抱かせたのは、学園長が愛犬云々の前のスピーチで発表した内容にある。
『今年度より我が校では留学生の受け入れに一層の力を入れる』
『その先駆けとして、高等部2年1組にエリス・ヴァイゲルトさんを迎え入れる』
学園長がそう告げ、やはり現れたエリス――俺と戦う宿命にある(と俺が決めた)乙女が生徒たちの前に登壇したとき。
そこがセレモニーの一番の盛り上がりだった。
皆が「めっちゃ美人!」とか「推せる!」とか「足なっが! 顔ちっさ!」とか「前世でどのような徳を積まれたらかような御姿になれるのか」とか……まぁそれぞれ思い思いの言葉で、突如として現れた美の女神を称賛する。
あの場で湧かなかったのは、俺と謙吉ぐらいのものだっただろう。
学園長がどんな考えに至ったのかは知らないが、エリスを受け入れることで俺の生活がややこしいことになった。その点において、俺は学園長を恨むのだ。
そんなこんなでセレモニーは終わり、皆が教室に戻ろうとした時。
『えー、事務連絡です』
進行役の先生が、マイクで声を飛ばしてくる。
『1年生の……ああ新学期だ。失敬、2年生の毛利君は、この後応接室に来てください。少しお願いしたいことがあります』
うん。
多分エリス絡みなんだろう。
理由はないが、確信はあった。
そして訪れた応接室。
扉を開けると、先客がいた。
豪奢なソファに座るのは、やはりエリス・ヴァイゲルト。
まだ袖を通して日が浅いはずの制服を、完璧に着こなしている。ピンと張った服の有様は、エリスに着てもらえたことを誇っているようにも見える。
「ああ、着てくれたか毛利」
学年主任の先生が、俺にエリスの隣の位置を勧めてくる。
俺はその指示には従わず、エリスと向かい合うように座る。
普段、俺は先生の言うことはよく聞く方だ。
そんな俺が先生の指示に従わなかったことに、先生は眉を一瞬だけ寄せたが、気にするほどでもないと考えたのかそのまま話を勧める。この先生は細かいことは気にしないクチで、ありがたい。
「さっき紹介したとおり、ヴァイゲルトさんがドイツの学校からうちに留学することになった。まぁ急な話で俺も戸惑っているんだが――生徒のためであれば、戸惑いを言い訳にせず、頑張っていこうと思っている」
うん。こういう先生だ。
「当面の課題は言語だ。この学校でドイツ語に通じてるのはお前と2組の相沢だろう。ヴァイゲルトさんは1組にくるので、お前が通訳として適任だ」
ほらな、そうくると思った。
まぁ俺にとっても都合のいい話。
エリスが仕掛けてきた企画に向き合うためだ。
「どうだろう。ここは引き受けてくれるか、毛利」
「分かりました」
「ありがとう」
俺は先生にエリスの通訳を引き受けることを宣言した。
その様子を、不思議な余裕さで見ているエリス。
言葉は分かっていないだろうが、俺と先生がどんな会話をしたのか、察しているらしい。
ならばと俺はエリスに向き合う。
【エリス。俺がお前の通訳を引き受ける】
【ふふっ、嬉しいです。末永くお付き合いくださいね】
【一つ言っておく。俺は、お前やお前の支援者の思惑通りに動くつもりはない】
【その発言からして、私の企画のことは知ってくれたみたいですね】
【その企画の趣旨を潰す。エリス、お前はやっちゃいけないことをした】
【オトの出自のことを公開したことですね?】
俺は目を見開いた。
【やはり、俺が出自のことを秘密にしていたことを理解した上で、情報を世界に発信したっていうのか】
【オトが出自について一切語らないことから、オトの弱点は出自だと分かりました。そうと分かれば、打つ手はあります。現に今、オトは私と向き合わざるをえなくなっているでしょう?】
俺の内面に、ひやりとした恐怖が宿る。
エリスは俺絡みだと本当に鋭い。まるで探偵のようだ。
だが、俺も負けるつもりはない。
【俺は、誰かの手の上で都合よく踊るつもりはない。もうそういう生き方は嫌なんだ。だから、あの企画には沿わない。それを前提とした通訳だ】
【分かっています。でも、そう遠くない日に――ふふっ、楽しみです】
嫣然とほほ笑むエリスに、俺は妙な胸騒ぎを覚える。
エリスがあまりに余裕過ぎるように見えるのだ。
確かにエリスの背後には多くのドイツ人の加護がある。
金銭的な支援も抜群。
俺をじっくりと包囲し、外堀を埋め、本丸を攻めるだけという戦法もとれる。
今は4月1日だが、エリスの中では冬の陣だ。
時期が来ればいっきに夏の陣になる。エリスはそれを狙っている。
けれど、この勝負は合戦ではない。恋愛だ。
エリスに墜ちるかどうか、最終的な判断は俺の意思にゆだねられる。
俺はまだ、エリスのものになるとは言っていない。
それなのにエリスは、まるで俺が既にエリスの手の中にあるかのような余裕さだ。
――俺は何かを見落としているのか?
疑問に思うが、すぐに疑問を振り払う。
俺は虎。相手は狩人。
眼前の相手に集中しないと、ふと隙を生じさせれば、外堀を埋めるまでもなく胸を一撃で射抜かれ、それが致命傷になるかもしれないのだ。
「おい、毛利」
学年主任の先生が呼びかけてくる。
「お前、大丈夫か。俺の目には、お前が妙に緊張しているように見えるんだが。場の空気もなんか――俺が想像しているのとは違う」
「大丈夫ですよ先生。負けませんから」
「負け……? お前、ヴァイゲルトさんと何の話をしている?」
「日独戦の話をしています」
学年主任の先生は、「サッカーか何かの話なのか?」と呟いている。
俺がエリスのものになるのか。
それとも俺が意地を貫き通すのか。
日独戦の火ぶたが、静かに落とされる。
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