第8話 8月4日 その2
午前の厩舎作業がひと段落すると時計は11時30分をさしていた。
日曜礼拝が終わるのが12時過ぎくらいだと陽菜が言っていた。
お昼は陽菜と食べたいと思っているから、家でずっと待っているのも退屈だ。
友梨佳は教会に行くことにした。
さすがに作業着姿で行くのははばかられるので、ジーンズと白のロングTシャツに着替えた。
泰造に一声かけようと1階の和室に行くと、泰造はいびきをかいて昼寝をしていた。
普段なら昼寝はもう少し後だけど、疲れてるのかな? 友梨佳は起こさないように静かに玄関を出た。
広い放牧地に3頭の1歳馬が駆け回って遊んでいる。
先月のセリでこの子たちには買い手がついている。来月か遅くても10月中には育成牧場に引き取られ、競走馬としての訓練を始める予定だ。そして来年の初夏を迎えるころから競馬場でデビューを迎えることになる。
無事に長く走ってね。友梨佳は心の中でつぶやきながら柵沿いを歩いた。
陽菜と初めて会った場所にさしかかる。
ここで陽菜と会ったんだよね。
友梨佳は陽菜と出会った時のことを思い出す。
スノーベルが車いすに乗った陽菜を見つけて立ち止まったので声をかけた。返ってきた声質と全体の雰囲気から悪い人ではないことはすぐに分かった。近くで見たらかわいらしさの中にも知的な顔立ちの女の子だった。クリスチャンだったことは少し驚きだったが、そんなことは気にならないくらい陽菜は魅力的だった。天使がいるとしたら陽菜みたいな感じなんだろう。
陽菜は頭が良くて、いろんなことを知っている。私にないものをたくさん持ってる。あたし、そういう所に惚れたんだよね。
ん? 惚れたってなんだ? 違う、違う、そういうんじゃない!
友梨佳は右手をパタパタと振りながら柵沿いを進み、途中で森の中に進む小道に入った。
今日は曇っているから木陰に入ると肌寒いくらいだ。
小鳥の声と風の音に送られながら、森の中にひっそりと佇むトシリベツ教会についた。
何の装飾もない木造の平屋で、三角屋根のてっぺんに十字架がついている。
晴れていれば、時間帯によっては十字架に陽がさして神々しい雰囲気になるだろう。
友梨佳がここに来るのは久しぶりだ。
子供のころはよくバザーを見に来たな。友梨佳は辺りを見ながら思った。
教会の入口周辺は良く手入れがされているのか、雑草一本生えていない。
礼拝に来た人の物だろうか、車が何台か停まっている。
友梨佳は教会の入口に立つと、閉まっている扉に聞き耳を立てた。
かすかに高柳牧師の声が聞こえるが、何を言ってるかまでは分からない。
友梨佳は意を決して扉を静かに開けた。
明るい室内から高柳牧師の声がはっきりと聞こえてくる。
装飾のない十字架を前に高柳牧師が10人程度の参加者に向かい説教をしていた。
椅子は固定式の長椅子ではなく、一人掛けの椅子を並べたものだった。
皆、集中して聞いているのかだれも友梨佳の方を振り返らなかった。
友梨佳は陽菜を探した。
最前列の真ん中に見覚えのある車いすと後姿があった。
高柳牧師は友梨佳を見ると、説教をしながら軽くうなずいた。
友梨佳は軽く微笑んで会釈をすると、礼堂の壁側からまわりこんで陽菜の隣に座った。
「友梨佳さ……」
陽菜が隣に座ったのが友梨佳と気づき、思わず声をあげそうになるのを、友梨佳は自分の口に人差し指をあてて止めた。
「友梨佳さん、どうして?」
ヒソヒソと陽菜が尋ねた。
「礼拝でどんな話するのか気になって来ちゃった」
「教会で嘘をつくと罰があたるよ」
陽菜は微笑む。
「え、ホント? どんな?」
陽菜は笑いをこらえながら前を向く。
友梨佳は陽菜がカマをかけてきたのだと気がついた。
友梨佳はわざとむくれてみせた。
陽菜は両手を口に当て、今にも笑い出しそうに肩を震わせていた。
高柳牧師が大きく咳払いをすると、ふたりともあわてて背筋を伸ばした。
ああ懐かしいな、この感じ。授業中に友達とはしゃぎ過ぎて先生に注意された記憶が蘇る。
友梨佳は心が温かくなるのを感じた。
もっと早く礼堂に来ればよかった?
違う、1人で来ても仕方ない。隣に陽菜がいてくれるからだ。
ふたりで共有するこの時間が愛おしい。
でも……と友梨佳は思った。
ああ、まただ……。
『馬上、枕上、厠上、それに教会』
どうやら考え事するには教会も良いらしい。
友梨佳はちらっと陽菜を見る。陽菜はまっすぐ牧師を向いて説教を聴いている。
その膝に揃えて乗せている白く小さな手を握りたい衝動に駆られる。
陽菜がどこにも行ってしまわないように。
そんなの無理に決まっている。
やだな……。
陽菜とずっと一緒にいられるならキリスト教徒になってもいいよ。友梨佳は十字架をじっと見つめたが、神の啓示は何も降りてこなかった。
「じゃあ、ムチ持って」
昨日のように、軽トラックの荷台からスノーベルに乗せてもらい手綱を持ったところで陽菜に言った。
陽菜は言われた通り、右手で手綱とムチを一緒に持った。
「これどうするの?」
「本来だと両足で馬のお腹を挟んで発進の合図を出すんだけど、陽菜の足だと無理だから、ムチで合図を出すの」
「ムチで叩くってこと?」
「そう。右手首をひねってスノーの肩にあてて」
「痛くないの?」
「あはは。陽菜に思いっきり叩かれたって、蚊に刺されたくらいにしか感じないよ。大切なのは音。馬は音で反応するの」
「音……」
陽菜は半信半疑で自分が握っているムチを見る。
「ま、とにかくやってごらん。大丈夫。暴れたりしないから」
友梨佳は頭絡に調馬索と呼ばれる平打ちのロープを付けながら言った。
陽菜は恐る恐るムチをスノーベルの肩にあてる。
スノーベルは動かない。
「もうちょっと強く! パチンって音がするくらい!」
気が付くと友梨佳は調馬索を持ったまま10m程離れたところにいる。
陽菜は少しだけ力を入れて右手首をひねる。
パチンと高い音とともにスノーベルがゆっくりと歩き出す。
「わ、動いた」
自分の合図で大きな動物が動いてくれた。
陽菜はその高揚感で顔がほころぶ。
「そうそう! 上手!」
友梨佳がコンパスの中心になる形で、スノーベルは円を描くようにゆっくりと歩く。
3週ほど歩くとスノーベルの歩みがだんだんと遅くなり、ついに止まった。
「合図を出し続けないと止まっちゃうから、遅くなりだしたらもう一度ムチで叩いて」
「うん」
陽菜はスノーベルの肩にムチを入れた。
今度は一度で歩き出す。
上手く合図が出せた嬉しさにまた顔がほころんだ。
友梨佳はジーンズの後ろポケットからスマホを取り出した。
「陽菜、撮るよ」
友梨佳はシャッターボタンを押した。
「後で送って!」
馬に揺られながら陽菜が答える。
友梨佳はスマホの画面を顔に近づけた。
ああ、やっぱり可愛いな……。
スマホには笑顔でスノーベルに跨る陽菜の姿があった。
「ちゃんと撮れてる?」
陽菜の声にハッとする。
「大丈夫。楽しそうで良かった」
「うん。すごく楽しい。自分で馬を動かしてる。信じられない」
陽菜は呑み込みが早い。気が付けばムチを上手く操り、同じ速度でスノーベルを歩かせている。
「ねえ、友梨佳さん。私みたいな人が馬に乗るのって普通のこと?」
「ううん。普通じゃないよ。まだまだマイナーだと思う」
「いま思ったんだけど、友梨佳さんがやりたい牧場に障害者乗馬もできるようにしたら? いわゆるホースセラピー。子供たちへの情操教育にもいいかも。自治体と協力できたらカリキュラムに取り入れてもらえるかな? あとは収益化をどうするかね」
『馬上、枕上、厠上』は陽菜の様な人のためにあるのだろう。陽菜から次々と牧場のアイデアが出てくる。
あたしは陽菜と離れる時のことしか頭に浮かんでこない。脳みその無駄使いだ。
いや、そもそも無駄使いするほどの脳みそを持ち合わせていないか。あたしなんかが陽菜と釣り合うわけないよね。
友梨佳はうつむきながら自嘲ぎみに笑った。
「私ね、友梨佳さんと出会えたことを何度も神様に感謝してるの」
陽菜の言葉に顔をあげる。
「中三のときに交通事故にあってから、私はいろんなことを諦めてきた。看護師の夢だったり、体育祭でリレーを走ったり、友達と肩を並べて表参道を歩くことだったり。乗馬も友梨佳さんに出会わなかったら、きっと遠くから見てるだけだった。だからね……」
スノーベルはいつの間にか歩みを止めていた。雲の隙間から光芒がさし、陽菜とスノーベルを照らした。
「私を見つけてくれてありがとう」
友梨佳はまともに陽菜を見れなかった。
陽の光でまぶしかった事もあるが、泣いている顔を見られたくなかった。
顔をそらしてうつむいている友梨佳を見て、どうしたのか声をかけようとして光芒が辺りに差し込んでいることに陽菜は気づいた。
「ああ、ヤコブの梯子。ごめん、眩しかったね。もう帰ろう」
友梨佳は鼻をすすり、一息入れた。
「大丈夫。まあ、今日は終わろうか。じゃあ陽菜、歩かせて」
「うん」
陽菜は肩ムチを入れてスノーベルを歩かせた。
友梨佳はスノーベルの歩様にあわせて、並んで歩いた。
「もう一個夢がかなっちゃった」
「?」
「友達と並んで歩くこと。肩は私の方がずっと高いけど」
陽菜は友梨佳を見下ろしながら言った。
「表参道でもないけどね」
友梨佳はニッと笑う。
「ねえ友梨佳さん、今度一緒に町に行かない?」
「え、ああ、うん。いいけど」
一瞬、返事に戸惑う。でも陽菜とお出かけはしたい。
「よかった。私、こっちに来てから病院と教会と牧場の往復しかしてないから。町を見てみたいの」
「じゃあ……こんどの土曜日に七夕フェスタがあるから行ってみる?」
「七夕? いま8月だよ」
「北海道の七夕は8月なんだよ」
「ええ、本当?」
「疑ってるの? あ、そう。じゃあ、一緒に行ってあげない」
「ウソ、ウソ。疑ってないよ。七夕行きたい」
ふたりは顔を見合わせて笑いあった。
お祭りなら人混みに紛れるから、多分大丈夫だろう。とにかく今は陽菜と一緒にいられる限られたこの時間を大切にしたい。その先の事はその時に考えればいい。歩きながら友梨佳は思った。
光芒が差し込む放牧地を二人はゆっくりと下って歩く。
友梨佳は左手で目をかざして陽菜を見るが、眩しくて陽菜の輪郭もはっきりとわからない。スマホで撮っても逆光でうまく映らないだろう。
友梨佳は自分がアルビノであることを久しぶりに呪った。
きっと天使みたいなんだろうな。
友梨佳は陽菜と初めて会った時のことを思い出していた。
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