第7話 8月4日 その1

 スマホのアラームが鳴り、友梨佳はブランケットから手を伸ばしてスマホを手に取った。

 アラームを止めてスマホを顔に近づける。

 時刻は5時を表示していた。

 両腕を広げて背中を伸ばすと、ベッドから降りてカーテンを開けた。

 空は曇っているので、今日はサングラスも帽子もいらないだろう。

 友梨佳は作業着に着替え、一階のダイニングに降りる。

 テーブルにラップに包まれたおにぎりが2つ白い皿に置かれていた。

 昨夜のうちに泰造が作っておいたものだ。

 友梨佳はキッチン棚からインスタントのみそ汁を取りだし、ポットのお湯を注いだ。

 椅子に座りスマホを開く。LINEの画面が映った。

 昨夜、陽菜とLINEでチャットをしながら寝落ちしたので話の内容はほとんど覚えていない。そもそも寝ぼけながらのチャットだから内容が会話の体をなしていなかったが、日曜日の礼拝後に牧場にまた行きたいという話と『イエス事件』について話していた。

 『イエス』の件について、友梨佳は陽菜を送り届けた泰造からこっ酷く怒られた。

 友梨佳だってイエス・キリストくらい知っている。

 ただ、自分がキリストに例えられる訳が無い、きっとそういう外国人アーティストでもいるんだろうと思い込み、検索した結果ロックバンドのYESがヒットしたのだった。

 友梨佳はあわてて陽菜に電話をしたが、陽菜は友梨佳らしいねと笑い、気にもしていなかった。むしろ、以外と良い曲だったようで早速ダウンロードしたと話していた。

 これ以降、2人の中で『イエス事件』と呼ばれるようになった。

 2人だけに通じる暗号ができて、陽菜との距離がまたひとつ縮まった。それだけで友梨佳の心は弾んだ。

 おにぎりとみそ汁の朝食を済ませると、スマホを作業着のポケットにしまって家を出た。

 厩舎ではすでに泰造が馬房の寝藁を交換する作業をしていた。

「おはよう。おじいちゃん」

「おう。こっちはやっとくから、友梨佳は集牧して仔馬の体重を計ってくれ」

「はーい」

 梨佳は馬房の壁にかけてある鞍と頭絡を持ち、スノーベルの馬房に入った。

「おはよう、スノー。仔馬を集めに行くよ」

 そういうと、友梨佳は鞍と頭絡を手早く取付け、馬房の中でスノーベルにまたがった。

 スノーベルを歩かせ、厩舎の外に出ようとしたところで泰造に声をかけられた。

「今日、陽菜さんが来るんだべ?」

「うん。礼拝が終わったらそのまま来るって」

「時間見計らって迎えに行ってこい」

「いいけど、礼拝中に入っても良いもんかな?」

「外で待ってればいいべ」

「うーん……まあいいや。とりあえず教会には行ってみる」

 友梨佳はスノーベルを放牧地に向けて歩かせた。 

 高辻牧場では、仔馬と母馬を昼も夜も放牧する、いわゆる昼夜放牧を行っている。

 なるべく自然に近いかたちで生活させることで、心身ともに強い馬を育成するのが目的だ。夏場に馬を厩舎に入れるのは朝に体調のチェックと馬体の手入れをするときくらいだ。

 これから友梨佳は馬の親子を集めるのだが、とにかく高辻牧場の放牧地は広いため、歩いて集めるのは効率が悪い。

 馬に乗って親子の群れを探し、厩舎に誘導するのである。

 友梨佳は視力が弱いが、自分の牧場の地形は熟知しているし、馬の親子が集まっていそうなところも分かっているので対して苦労はしない。

「行くよ、スノー!」

 友梨佳はスノーベルの腹を両足で力強く挟む。

 スノーベルはすぐに駈歩で走り出す。

 早朝の涼しい空気が風に変わり、友梨佳の長い髪の毛をはためかす。

 放牧地の脇の白樺が、次々と後ろに流れていく。

 スノーベルの息遣いがリズミカルに聞こえてくる。

 友梨佳はこの開放感がたまらなく好きだ。陽菜にも味わわせてあげたいが、さすがに走るのは陽菜の足じゃ無理だろう。

 自分が後ろに乗って支えてあげればできるかな。とも考えたが、下半身で支えられなければ無理だと思い直した。無理すれば、ふたりとも落馬するだろう。常歩で外乗するまでできれば上出来だ。

 友梨佳はスノーベルを走らせながら考えた。夏休み中に外乗までできるようにして、その後は……また1人。

 陽菜は夏休みが終われば東京に帰る。

 東京に帰れば受験だってあるだろう。大学に入ればますます忙しくなるだろうし、新しい人間関係もできる。いくらSNSで繋がっているとはいえ、共通の話題がなければそのうち疎遠になる。

 『馬上、枕上、厠上』

 どこかの国の昔のエラい人が考え事するなら馬の上と、枕の上と、トイレが良いと言ったらしい。効果てきめんだ。考えたくない事まで頭に浮かんでくる。

「やだな……」

 友梨佳はスノーベルの駈歩を襲歩へと加速させた。


 2組の親子と1頭の仔馬の集団はすぐに見つかった。

 母馬が1頭足りないのは、昨日、親離れさせるために母馬だけ裏手にある別の放牧地に放牧しているからだ。

 以前の親離れは、ある日突然仔馬を母馬から引き離し、隔離用の馬房に仔馬を閉じ込めるものだった。

 この方法だと、仔馬が母馬を呼ぼうと馬房で大声でいななき、馬房の中で激しく動き回るため、仔馬に精神的なストレスやケガのリスクがかかる。何より、仔馬の悲痛ないななきを聞き続けるのは人間にとっても耐え難い。

 そのため、今では放牧地から少頭数ずつ母馬だけこっそりと仔馬から引き離す方法が主流である。

 母馬がいなくなった仔馬はパニックになるが、他の親子はこれまでと同じように生活を送っているので、群れの中にいると集団心理も働いて、親から引き離された仔馬もしばらくすると落ち着きを取り戻すのである。

 これを繰り返し、1週間ほどで全馬の親離れを完了させるのだ。

「みんなおいで。帰るよ」

 友梨佳は1頭の母馬の頭絡を掴んで歩かせる。

 仔馬と他の親子もついてくる。

 時折、親離れ最中の仔馬がいななきながら、辺りを走り回る。


「お馬の親子は仲良しこよし 

   いつでも一緒にぽっくり、ぽっくり歩く」


 友梨佳は仔馬をなだめるかのように口ずさむ。

 隣の牧場の青山遥に小さい頃教えてもらった童謡だ。

 そういえばしばらく遥さんに会ってないなと思った。

 遥はお隣さんということもあり、友梨佳は小さい頃からよく面倒をみてもらっていたが、父親の跡を継いでからは忙しいのか、ほとんど会うことはなくなった。

 お隣同士だし、いずれ会うでしょ。そう思いながら馬たちを誘導していると、柵の向こう側に男性の人影が見えた。

 友梨佳の目にはぼんやりとしか映らないが、背の高さと線の細さでほぼ分かった。

「タコウナギじゃなくて高柳牧師? 神父?さん、おはようございます」

 友梨佳は高柳牧師の側にスノーベルを止めて挨拶をした。

「おはようございます、高辻さん。あなたのその明るさは神のくださった贈り物です。大切にしてください。後学までにお伝えしますが、私は牧師です」

「はい、タコウナギ牧師」

 高柳は言い間違いをした幼子を見守るかのように穏やかに微笑んだ。

 高柳の歳は友梨佳の祖父とそう変わらないはずだが、若々しい印象を受ける。

 でも髪の毛の量は泰造が勝ってる。友梨佳は高柳の頭を見て思った。

「そろそろ親離れの季節ですか」

 高柳は友梨佳の後ろで1頭だけ母親をさがしてウロウロと歩いている仔馬を見ながら言った。

「そうです。少し可哀想だけど、そうしないと1人前の競走馬にならないから」

「私は仔馬が母親を探していななくのを聞くのが辛くてね。この時期だけは違う土地に籠りたくなります」

「前にくらべれば、だいぶマシですよ」 

 友梨佳が言った後に、仔馬が大きくいなないた。

 その瞬間、7歳の男の子が寂れた工場で泣き叫んでいる姿と工場の梁から首をつった男性が稲光に照らされている光景が高柳の脳裏にフラッシュバックした。

 高柳の足元が揺らぐ。

「タコウナギ牧師?」

 友梨佳の声で高柳は我に返った。

 高柳は両手にじっとりと汗をかいている。

「大丈夫? おじいちゃんに言って、うちで休ませてもらう?」

「いやいや。それには及びません。少し歩き疲れたみたいです。教会に閉じこもって聖書ばかり読んでいてはいけませんな」

 高柳は力なく笑う。

 引き返して歩きだそうとする高柳に友梨佳は声をかけた。

「あの、礼拝の最中に教会の中に入るのってNG? 友達がトシリベツ教会の礼拝に参加するので……」

「お友達?」

「陽菜です。あ、えっと……名字なんだったっけ? あの、車いすの……」

「ああ、主取さんですね。まだ2回ほどしかお会いしていませんが、非常に敬虔な方ですね」

「はい。礼拝の後にうちの牧場で遊ぶ約束をしているんです。外で待っているのも何だから、一緒に礼拝を聞けたらと思って」

 ここまであからさまに待ち合わせ目的だと言う人も珍しい。屈託のない表情に清々しさすら感じる。友梨佳の持って生まれた才能だろう。

 高柳は思わず吹き出してしまった。

「教会の扉は常に開かれています」

 では、と会釈をして高柳は歩き去った。

「行ってもいいって事だよね」

 友梨佳はスノーベルに語りかけた。

 それにしても。と友梨佳は思う。

 扉に鍵をかけないなんて不用心過ぎない?

 友梨佳は馬たちを歩くように促し、厩舎に向かっていった。

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