第6話 8月3日 その4
放牧地から帰ってきて、スノーベルを馬房に戻した後、友梨佳から「夕飯食べていくでしょ」と誘われた。
陽菜は一瞬迷惑になるのではと辞退しようと思ったが、風除室や玄関の手作りスロープの事を思い出して誘いを受けた。
玄関の上がり框には、手押し式の車いすが置かれていた。
聞くと友梨佳の祖母が使っていた物らしい。
玄関で手押し式の車いすに乗り換え、陽菜の電動車いすはそのまま置いておいた。
友梨佳に車いすを押されてダイニングに入ると、食卓には鮭のちゃんちゃん焼き、ザンギ、ラーメンサラダ、百合根のコロッケ等々、到底食べきれない量の料理がテーブルいっぱいに置かれていた。
全部泰造一人で朝から作ったというから驚きである。
友梨佳は、お米は自分で炊き、みそ汁に味噌を溶いたと胸を張っていた。聞くと台所に立つのは数か月ぶりと言っていた。
誘いを受けておいて正解だった。と陽菜は思った。
誘いを固辞していたら、泰造を酷くがっかりさせていたところだったろう。
テーブルの端の一部がくぼんでいて、車いすでも使いやすくなっていた。
友梨佳は陽菜の隣に座った。
「いただきます」
みそ汁を一口飲むと、味噌が底の方に溶け残っている。
「友梨佳。ちゃんと味噌を混ぜなかったべや。味噌が溶け残っとるぞ」
泰造はお椀のみそ汁を箸でかき混ぜながら言った。
「あれ、ホントだ。あはは、ウケる。陽菜ごめん、お箸でかき混ぜて」
「まったく、みそ汁の味噌を溶くこともできねえのか」
「でも、ご飯はちゃんと炊けたよ」
「あんなの線まで水を入れてスイッチを押せば誰でもできるべや。陽菜さん、申し訳ねえな」
言われた陽菜は恐縮した。人のことを言えた義理じゃない。陽菜だって台所に数か月どころか数年立っていなかった。
「友梨佳さんのおみそ汁美味しいよ」
料理の話題がこっちに飛び火しないように友梨佳を褒めておいた。
「ほらね。美味しいって」
友梨佳は満面の笑みだ。
家に帰ったら、神に懺悔しよう。と陽菜は思った。
「陽菜さんのご両親は何をされている方ですかな?」
「あのね、お父さんが公認会計士でお母さんはその事務所で一緒に事務員として働いてるんだって」
泰造が陽菜に対して言った質問に、友梨佳がザンギを自分の取り皿に取りながら答えた。
「ほお、それは立派だ。さぞお忙しいでしょう。ご兄弟はいらっしゃるのですかな?」
「ううん。一人っ子」
友梨佳がザンギをほおばりながら答える。
「高校では何か部活動は?」
「一応、文芸部に入ってるんだけど、あまり出られないんだって。帰りが遅くなると帰宅ラッシュに巻き込まれて、車いすだと大変みたい」
友梨佳が麦茶を飲みながら答える。
「友梨佳。わしが陽菜さんに聞いているんだから少し黙ってなさい」
友梨佳は不満そうに口をとがらせる。
「すまないね。この子は口から先に生まれたというべきか、思ったことがそのまま口に出るというべきか。とにかく小さい頃から賑やかでね。迷惑をかけているんでないかい?」
「迷惑だなんて、とんでもない。いつも元気をもらっています。一緒にいるととても楽しいんです」
友梨佳は嬉しそうに身体を揺らしている。
泰造も目を細め頷く。
「陽菜さんは馬が大層好きみたいですが、なにかきっかけでも?」
「最初は聖書に書かれてる馬について読んだのがきっかけです。力強く、美しい動物と書かれていて、実際に見てみたいと思ったんです」
「確かに。馬ほど綺麗な生き物はおらん」
泰造は大きくうなずく。
「それで、一度だけ父に頼んで東京競馬場に連れて行ってもらったんです」
「すごい迫力だったでしょ?」
友梨佳が両手で頬杖をついて、陽菜を見ながら言った。
「あんなに馬が沢山走ってるのを観たのは初めてで。地響きみたいな足音や馬の息遣い……。本当に聖書そのままで感激してしまって。父は馬券を外して悔しがってましたけど」
ハハッと泰造が笑う。
「その時勝った馬なんて言ったかな? アルゼンチン杯? とか言うレースで、えっと、オータム……オータム……」
「オータムリーヴス」
泰造がつぶやいた。
「そうです。オータムリーヴス。ちょうど秋だったので、この馬の馬券買ったらって言ったら、父がそんなの勝つわけないって言って、それで外して凄く悔しがって……」
泰造と友梨佳が押し黙っているのに気づいた。
「陽菜さん。ちょっとこっちに来てくれるかい?」
陽菜はなにか失礼があったのかと友梨佳を見る。
友梨佳は青い目に涙を浮かべたまま、真顔で陽菜を見つめている。
陽菜は訳がわからないまま泰造の後をついて行った。
泰造はダイニングの隣の和室の襖を開け、陽菜に入るように促した。
部屋は暗く何も見えない。
陽菜は不安と緊張で頭が真っ白になりながらも、車いすを和室に進めた。
パチンというスイッチの音とともに、部屋が明るくなった。
目の前に二柱の位牌を納めた仏壇があった。
その仏壇の横には紺色の布地に『優勝 第60回アルゼンチン共和国杯』と刺繍がされた大きな優勝レイと、小豆色の生地にオータムリーヴスの名前の入った9番のゼッケンが飾られていた。
「これは……」
「オータムリーヴスはうちの牧場で作った馬でね。良樹……友梨佳の父親が最後に作った馬だ」
泰造は優勝レイに手を置いた。
「オープンまで行ったは良いがなかなか勝ちきれない馬でね。唯一勝った重賞がこれだ。さあ、これからだって思ったんだが、レースの翌日に心臓発作で死んじまった。文字通り死力を尽くしたんだべな」
いつの間にか友梨佳がそばに来て、陽菜の両肩に手を置いた。
「そうかい、陽菜さんはそこにいたのかい。これも何かの縁だべな」
泰造は仏壇に線香をあげ、手を合わせる。
「パパとママが会わせてくれたんだね」
友梨佳も泰造の横に並び手を合わせた。
「お母様のお名前は?」
「香織だよ」
陽菜は胸元で手を組むと頭をさげる。
「主よ、私が高辻家の方々のような素晴らしい人に出会えたのはあなたのお導きです。この出会いが、私の人生を豊かにしますように。そして、良樹さん、香織さん、オータムリーブリーヴスの魂が神の平安の中にありますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン」
陽菜がゆっくりと頭を上げると、泰造が感心と驚きの混じった表情で見ていた。
「いやいや、流石毎週教会に通っているだけのことはある。良樹たちのために祈ってくれてありがとう。本人たちも喜んでいるでしょう」
「ねえ、おじいちゃん。うちもキリスト教にしようよ」
「ばか言うでねえ。こういうのはな、心が大切なんだ。真摯に祈る気持ちがなきゃ、いくら恰好ばかりつけても意味がねえ」
「分かってるよ。冗談」
友梨佳は口をとがらせむくれている。
「でも、陽菜。ありがとう」
陽菜は微笑んで首を振った。
「しかし、仏壇の前で祈らせちまって。仏様と神様が喧嘩しなきゃいいが」
「大丈夫です。神は常に寛大です」
陽菜は顔をほころばせながら答えた。
「遅くまで引き止めちまって悪かったね」
泰造が軽自動車を運転しながら、助手席に座る陽菜に話しかけた。
北海道は緯度が高いため日は長いのだが、20時をまわると流石に辺りは真っ暗になる。 時折道路わきに現れるキタキツネの瞳がヘッドライトを反射して白く光っていた。
「いいえ。こちらこそ、つい長居してしまって」
バスのあるうちに帰るつもりだったが、思った以上に話しが盛り上がり、叔父の雅治からの電話で20時を過ぎていること知った。
雅治が迎えに来ると言ったが、責任をもって送り届けると泰造が固辞した。
友梨佳も一緒について来たがっていたが、「誰がスノーベルの夜飼をするんだ」と泰造に言われて渋々玄関先で見送った。
車内には昔の曲であろう洋楽が流れていた。
洋楽が好きなのかと聞くと、陽菜が好きだから流してあげてほしいと友梨佳が頼んだとのことだった。
泰造から渡されたCDのケースには『YES:グレイテスト・ヒッツ』と書かれていた。
陽菜の頭に一瞬クエスチョンマークが並んだが、初めて出会った時のことを思い出した。
友梨佳はイエスを本当に外国人の事だと勘違いしていたのだ。
おそらく友梨佳なりに調べてロックバンドの『YES』にたどり着いたのだろう。
そんなことある? 陽菜はおかしすぎて大笑いした。
訳を泰造に話すと、「かあ~。あいつはしょうがねえなあ」と本気であきれていた。
「陽菜さん。友梨佳はこの通りどうしようもねえ馬鹿だ。振り回されて疲れるべ」
「疲れるなんて、そんな」
「本人から聞いてると思うが、あいつは高校を、まあ色々あって1年でやめてな。いや、わしがやめさせたんだ。それから先ずっとわしの牧場の手伝いをしてくれとる。あいつは産まれた時から馬に囲まれて育ったから、馬は家族や友達みたいなもんだ。高校を中退した時、友梨佳は本当に馬に助けられた。だが、ずっとどこか寂しそうでな。そりゃあそうだ、年頃の娘がこんな田舎の牧場に一人でいるんだもんな」
道路わきに設置された『矢羽根』のポールが静かに後方に流れていく。
「それが急に『友達ができた!』って大喜びで話し出してな。それからは毎日あの調子さね。そして会話の中心にはいつも陽菜さんがいる。陽菜さんが昔の友梨佳を取り戻させてくれた。感謝してもしきれん」
「いいえ。私は何も」
「いや、助けられたのはわしの方かもしれん。高校を辞めさせた後ろめたさがずっとどこかにあったからな」
陽菜は友梨佳が高校を辞めた理由が気になった。だが、知り合って間もない自分が聞いていいものかと思い、泰造に聞くことはできなかった。
「陽菜さん、あくまで一般論として聞きたいんだが……」
「はい?」
「東京は友梨佳みたいな者でも、上手くやって行けるものかね?」
「視力の事でしたら、社会インフラは比較的整っていますので弱視や全盲の方でも活躍されている方は大勢います」
「学がなくてもかい?」
「高校中退の人なんてたくさんいますし。学びなおしたいと思えば、そういう人向けの学校もありますので」
「そうか、うん、そうか」
泰造は頷きながらハンドルを握っている。
「あの、友梨佳さんに何か関係のあることですか?」
「いやいや。あくまで一般論さ」
口調は穏やかだが、それ以上の追及は拒絶するかのように、ただ真っすぐを見ながら泰造は運転した。
陽菜もそれ以上聞くことはできなかった。
車内に『Owner of a lonely heart』が静かに流れた。
”See yourself
You are the steps you take
You and you, and that’s the only way
Shake, shake yourself
You’re every move you make
So the story goes
Owner of a lonely heart”
『自分を顧みろ
君の歩みが君になる
君には君、君のやり方しかない
自分を揺さぶれ
君の行動すべてが君を作る
そうやって物語は進んでいく
孤独な心の持ち主よ』
陽菜の事か友梨佳の事か、それともふたりの事を歌っているのか。陽菜には『YES』が自立を急かしてくるように聞こえた。
無邪気に楽しく過ごせれば良かった時期はもうすぐ終わりを告げる。この夏休みが終われば、自分も進路を決めなくてはならない。
しかし、霧の中に迷い込んでいるかのように、目指すべき進路が見あたらない。
「Owner of a lonely heart……」
小さく呟くと、陽菜は現実から目を逸らすかのように静かに目を閉じた。
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