第5話 8月3日 その3
厩舎の外に止めた軽トラックの荷台の後ろにアルミ製のスロープが掛けられ、荷台の運転席側の側面にある『あおり』と呼ばれる鉄製の囲いは開いた状態になっていた。
友梨佳はスノーベルを開いた『あおり』側にぴったりと並ばせた。
「陽菜さん。スロープまで来てくれますか」
スロープのそばにいる泰造に呼ばれた。
陽菜がスロープまで来ると泰造が車いすの後ろに立った。
「後ろから押しますから、スロープを上がってください」
「はい」
車いすをスロープに乗せると同時に、泰造が後ろからアシストすると、車いすは一気に荷台に乗った。
スノーベルの背中が目の前にある。
「友梨佳、しっかり押さえとけよ」
「オッケー」
友梨佳は右手で頭絡を、左手で鐙を掴んだ。
「陽菜さん。年寄りに抱きかかえられるのは嫌だろうけど、少しだけ辛抱してください」
そう言うと泰造は陽菜をいわゆるお姫様抱っこで抱きかかえ、鞍にまたがらせた。
「あの、重くなかったですか?」
「何もさ。軽い軽い」
陽菜は友梨佳にむけて、「ほおーら」と声に出さず口を動かした。重そうに車いすを押した一件を根に持っていた。友梨佳は苦笑いするしかなかった
「ありがとうございます」
「いやいや。長生はきするもんですな」
「おじいちゃん、セクハラ」
鐙の長さを調整しながら友梨佳が言った。
「いや、これはいかん。陽菜さんに訴えられたらかなわん」
泰造が自分の白髪頭を叩くと、泰造と陽菜は笑いあった。
陽菜は改めて周囲を見回した。
視線が高い。放牧地のさらに先まで見渡せそうなくらい高い。
1メートル程度の視線に慣れた陽菜にとってはちょっとした展望台に登った気分だった。
しかし、不思議と恐怖感はなかった。
むしろ今まで感じたことのない開放感に包まれた。
「気持ち良いでしょ?」
友梨佳が陽菜の足を鐙に乗せながら聞いた。
「うん。とっても」
「じゃあ陽菜。手綱を握って」
友梨佳は手綱を親指と人差し指の間から通し、小指と薬指の間から出すように握らせた。
「したら、陽菜の腕とスノーの口が真っ直ぐになるように短く握り直して」
陽菜は言われた通りに手綱を手繰り寄せ、握り直した。
陽菜の手にクンっとした手応えが伝わる。
「これが手綱の握り方だよ」
陽菜が自分がいまどんな姿なのか見てみたくなったと思った瞬間、友梨佳がスマホのシャッターを切った。
「もう、また! ……あとで送って……」
「あはは、オッケー。うん、いいじゃない。様になってるよ」
友梨佳はスマホを顔に近づけて画面を見て言った。
「ほんと?」
「ほんと。さ、行くよ」
友梨佳はスマホをポケットにしまうと、頭絡を引っ張った。
スノーベルは友梨佳に促され、ゆっくりと歩き出した。
スノーベルの右肩が盛り上がったかと思うと、左の腰が盛り上がり、ゆっくり下がったかと思うと今度は左肩が盛り上がる。
スノーベルの背中が作り出す、ゆったりとした優しい波が陽菜を揺らした。
体幹の筋力が落ちているので、気を抜くと姿勢が大きく崩れそうになる。
それでも陽菜は全く苦にならなかった。
青々とした牧草はどこまでも広がり、牧草を揺らす風は陽菜を優しく包みこむ。
眼下には、3頭の仔馬が母馬の周りを駆け回っていた。
ああ、なんという開放感なんだろう。このままどこまでも行ってみたい。友梨佳が出会ったときに言った言葉の意味が心から分かった。
楽しい、嬉しい。
陽菜の心は長く忘れていた幸福感に満たされていた。
「陽菜」
呼ばれて、陽菜が友梨佳の方を向くと
カシャ。
友梨佳がスマホで陽菜を撮る。
「今度はちゃんと一声かけたよ」
「そういう事じゃなくて。どうしてそんなに写真を撮るの? あと、今のも送って」
「ごめん、ごめん。あたし目が悪いからさ。陽菜がどんな様子なのかこうしないとよくわからないんだよね」
友梨佳はスマホの画面を顔に近づける。
そういえば、さっきも同じように見ていた。
「あ……」
「ううん。こっちこそごめん。でも、写真撮るよって言うとどうしても表情を作っちゃうじゃない? あたし、陽菜の自然な表情が見たくてさ。楽しんでくれてるかなあ、とか」
「楽しんでるよ。こんなに楽しいの久しぶり……ううん、初めてかも」
「それなら良かった」
友梨佳は弾けるような笑顔をみせた。子供のような無邪気な笑顔に、自然と陽菜の表情もほころんだ。
2人と1頭は、小高い丘にある高辻牧場の放牧地の中でも一番高い場所までたどり着いた。
遠くに紺碧の海が見える。牧場に来た時感じた微かな潮の香りはあそこから運ばれてきたものだろう。
海よりも手前に視線を移すと、高辻牧場のものよりひと回りは狭い放牧地が川をはさんで高辻牧場と隣接している。
狭い放牧地に何頭もの馬が放牧されているのが見える。
「川を挟んだ向こう側の牧場もサラブレッドを生産しているの?」
「ああ、イルネージュファームのこと? そうだよ。前は青山ファームって名前だったんだけど、牧場の代表が変わってから改名したんだ」
「買収されたってこと?」
「ううん。娘さんが後を継いだの。昔から時々重賞レースに生産馬が出てたけど、今は毎年コンスタントに重賞を勝つ馬を出してる。娘さん……遥さんっていうんだけど、結構なやり手らしいよ。ちなみにあたしの乗馬の先生。中学まではよく教わってたんだ。」
「乗馬上手いんだ」
「上手いなんてものじゃないよ。国体で優勝してるし」
「へえ、すごい人なんだね」
陽菜は素直に感心した。
「スノーもあそこの牧場で生まれたんだよ。お母さんはスノーを産んだ時に死んじゃったみたいなんだけど」
友梨佳はスノーベルの首をパンパンと叩いた。
「どうしてここにいるの?」
「引き取りたくても引き取れなかったんだって。馬房がいっぱいで。それでうちが種牡馬として引き取ったんだって。種牡馬としては鳴かず飛ばずで、お嫁さんも集まらなくなったから種牡馬としても2年前に引退。騙馬にして今に至るってわけ。あ、騙馬ってのは去勢した馬の事で、去勢ってのは馬の金タ……」
「分かってるから! 全部言わなくていい!」
陽菜は慌ててさえぎった。
「あ、そう。ならいいんだけど」
事もなげに笑いながら友梨佳は言った。
馬に関することについては日常的過ぎて感覚が違うらしい。
それにしても。と陽菜は思った。
広くはない放牧地に何頭も入れられている隣の牧場の馬にくらべ、高辻牧場の馬はゆったりと暮らせてなんて幸せなのだろう。
「うちの牧場も昔は馬がたくさんいて、見学者もたくさん来て賑やかだったんだよ」
友梨佳はその場に座ると、牧草をむしりながらポツリとつぶやいた。
「だけど、小6の時にパパもママも事故で死んじゃって……。 あたしもまだ小さかったから、たくさんの馬は手に負えなくて、どんどん手放して。今じゃ肌馬3頭とスノーの4頭だけになちゃった」
「友梨佳さん……」
足がまともなら、今すぐ馬から降りて友梨佳の隣に寄りそってあげられるのに、それができないのがもどかしい。
「きっと陽菜はもう分かってると思うけど」
友梨佳は座ったまま前を向きながら言った。
「あたしアルビノなんだ」
「うん……」
陽菜はやっぱりと思ったが、口には出さず友梨佳の話しの続きを聞く。
「メラニンが極端に少ないから肌は紫外線に弱いし、虹彩が青いから光が眩しい」
陽菜は黙って頷く。
「それだけならともかく、網膜の黄斑がちゃんと形成されてないから視力も弱い。あたしね、視力が0.1あるかないかなの。ピントの問題じゃないからメガネも意味がない」
「でも、牧場のことはちゃんとできてるよね」
「自分の牧場だからどこに何があるか分かってるからね。細かい作業は苦手だけど、それ以外は特に問題ないよ。でも、あたし事務作業とか好きじゃないから、弱視を言い訳におじいちゃんにやってもらってる。あ、今の内緒ね」
友梨佳はくすっと笑った後、すぐに真顔になった。
「でも、他所じゃ無理。この髪色と目のせいでどこも雇ってくれない。あたしにはここしかないの」
友梨佳はすくっと立ち上がり、放牧地を眺めながら言った。
「あたしね。この牧場を昔みたいに賑やかにしたい。G1レースをバンバン勝つような大牧場は無理としても、とにかく人がたくさん集まる牧場。たくさん馬がいて、みんなが気軽に馬と触れ合えて笑顔になれる牧場」
振り返った友梨佳の表情は、キラキラと輝く南国の太陽のように眩しかった。しかし、光が強ければ強いほど照らされる者の影は濃くなる。
友梨佳の光は、まだ将来を見通せない陽菜の姿をまざまざと浮かび上がらせ、誰も通らなくなったトンネルの澱んだ空気の様な気持ちが、陽菜の心を覆ってくる。
友梨佳ならうまくできるだろうな。陽菜は想像した。
空はどこまでも青く、緑の牧草はどこまでも広がっている。そこにはたくさんの馬がいて、スノーベルは相変わらずマイペースに牧草を食べている。
白い柵のそばにはたくさんの親子連れがいて、小さな子供たちが馬に人参を与えている。
友梨佳は子供を抱きかかえ、馬に跨らせると、馬を引いてゆっくり歩かせる。
子供の無邪気な笑い声と馬に乗った我が子に手を振りながらスマホを向ける親たち。
それにひきかえ、そのとき私はどこで何をしているのだろう?
「じゃあ帰ろっか。疲れたっしょ?」
友梨佳の声に陽菜は我に返った。
「う、うん。こんなに運動になるなんて知らなかった。でも楽しい。また乗りたい」
努めて明るい声で返事をした。
「いつでも来ればいいさ。陽菜が1人で乗れるようになったら、2人で遠くまで乗りに行こう」
「うん。行きたい」
友梨佳はスノーベルを促し、歩き出した。
「ねえ、せっかくだからさ。もっとお互いを知り合おうよ」
「なんか言い方がやらしい」
「なんでよ。いいじゃない」
「じゃあ、私知りたいことがある」
陽菜は手をあげて言った。
「なになに? なんでも聞いて」
「好きなお寿司のネタは?」
「え、マグロ」
「なにそれ普通。もっと北海道っぽいネタかと思った」
「別にいいべさ。北海道のマグロ美味しいんだよ。じゃあ陽菜は何が好きなの?」
「サーモン」
「普通じゃん」
「私はいいの。横浜だから」
「なにそれ! 意味わかんないんだけど」
2人は笑い合いながら、放牧地を下って行った。
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