第4話 8月3日 その2
厩舎のなかは真新しい藁の匂いが漂っていた。両脇には馬房が並び、それぞれの馬房の鉄柵の脇には頭絡や轡がかけられていた。
屋根は木組みで、屋根の一番高い部分が採光のために半透明のアクリル素材で作られている。
床はアスファルト造りで、綺麗に掃き清められていた。
テレビや本で見た光景に、陽菜の心が躍った。
自然と笑顔が浮かんできた。
一番奥の馬房の鉄柵に見覚えのある白い馬が顔を出していた。
「あ、スノーベル」
陽菜は思わず声をあげた。
「今日は思う存分スノーと触れ合ってもらおうと思って、さっき連れてきた。牧草食べてるところだったから、ちょっとむくれてるかも」
友梨佳はいたずらっぽく笑った。
「おお、友梨佳。来たか」
スノーベルの馬房の柵をくぐりながら、短髪の白髪頭の男性が出てきた。
「ああ、陽菜さんかい? よく来た、よく来た」
あ痛たた……と腰を伸ばすと、陽菜のもとに歩いてくる。顔は真っ赤で大量の汗をかいていた。
陽菜は会釈をした。
「陽菜、あたしのおじいちゃんだよ」
「友梨佳。人に紹介するときはきちんと名前まで言わなきゃいかん。友梨佳の祖父の泰造です」
泰造は丁寧に腰を折り頭を下げた。
「主取陽菜と申します。横浜から参りました。友梨佳さんとは一昨日知り合ったばかりですが、仲良くさせていただいています」
泰造は目を細め、うんうんと頷き、
「友梨佳にはもったいないほど良くできた子だ。陽菜さん、友梨佳は知っての通り馬のこと以外は何もわからんような奴ですが、どうか仲良くしてやってください」
友梨佳は口をとがらせ不満そうだ。
「いえ、私の方こそ友梨佳さんからいつも元気をいただいています」
友梨佳はニヤニヤが止まらない。考えていることが本当にすぐ顔に出る。
「ほお。さすが高柳先生に師事しているだけある。友梨佳も少しは見習ってほしいものですな」
友梨佳がどう説明したのか知らないが、泰造のなかでは陽菜は高柳牧師の弟子になっているようだ。
「いえ、私はただ礼拝に参加してるだけで、師事しているなんて……」
「はは。分かってますよ。あの人は弟子をとるような人じゃありません」
「ねえ、もういいでしょ。おじいちゃん、はやく軽トラ回してきて」
「分かった分かった。では、陽菜さんまた後で」
自宅の方に歩いていこうする泰造に友梨佳が声をかける。
「ねえ、おじいちゃん。さっきのお客さんって調教師の先生?」
「いや、調教師じゃない」
「じゃあ馬主さん? 馬を買いに来たの?」
「うん……まあ、そんなところだ」
泰造は振り返らずに歩いて行った。
「ふーん、そう。ほら、陽菜」
友梨佳は陽菜に人参の細切りの束を渡した。
スノーベルが早くよこせと前脚で馬房の床を掻きだす。
陽菜が人参を一本差し出すと、スノーベルは瞬く間に平らげてしまう。
「ちょっと、早いってば」
スノーベルは首を上下にせわしなく動かし、前脚を掻いておかわりを催促する。
陽菜がもう一本差し出すと、そちらには目もくれず人参の束を持っている左手に首を伸ばす。
「ちょっと、だめ」
陽菜は笑いながら左手を後ろに伸ばす。
「あはは! 陽菜、写真撮るよ」
友梨佳がスマホを陽菜に向ける。
「え、ちょっと。だめ、待って!」
陽菜は両腕で顔を隠そうとするが、人参を目掛けて顔を突っ込んでくるスノーベルがそれを許さなかった。
スノーベルに人参を狙われ、それを避けようと奮闘する姿を次々と友梨佳のスマホに収められた。
「ちょっと、後で消してよ」
人参を食べ尽くされ、髪の毛はボサボサになっていた。
「なんで? かわいいっしょ」
友梨佳はスマホを作業服着のポケットにしまいながら笑った。
絶対友梨佳の油断した姿を撮ってやろうと陽菜は決めた。
問題は友梨佳の場合、たとえ馬糞を掃除する姿であっても似合ってしまいそうなことだ。
インスタのリールにアップしたら、またたく間に一万回再生くらい突破することだろう。
変な姿を撮るために奇跡の一枚を狙わなくてはならない。やっぱり美人は得だ。
友梨佳はスノーベルの馬房の鉄柵に手をかける。
重い音たてながら鉄柵を開く、友梨佳はスノーベルの無口頭絡を引き、スノーベルを陽菜の前まで歩かせた。
スノーベルの背中にはすでにこげ茶色の鞍が装着され、両方の鐙が鞍の上にかけられていた。
どうやら、泰造は先に鞍を装着しに来ていたようだ。
スノーベルが頭を陽菜の目の前までさげる。温かい鼻息が陽菜の頬に当たる。
「首を撫でてみなよ」
陽菜は言われるままに、スノーベルの首を優しく撫でた。
スノーベルはもっと撫でろと言わんばかりに、頭を陽菜に擦り寄せた。
陽菜は一瞬驚いたが、すぐに微笑み、今度は両手で抱きつくようにスノーベルの首筋を撫でた。
「良かったね、スノー。可愛がってもらえて。でもだめ」
友梨佳は陽菜の両肩に手を置き、
「陽菜はあたしのだから、スノーにはあげない」
陽菜は鼓動が早くなり、顔が熱くなるのを感じた。
友梨佳は平気な顔をして、からかってくる。
「ちょっと、友梨佳さん!」
「なに? 赤くなってるの陽菜?」
「そうじゃなくて、急に抱きついてきたら驚くでしょ」
「へー、じゃあ優しくゆっくりとバックハグすればいいの?」
「そうじゃなくて!」
陽菜は顔を真っ赤にして言った。
「ほれ、車まわしてきたぞ。友梨佳、じゃれ合ってないで手伝え」
厩舎の外に軽トラックを停めた泰造が、厩舎の入口に立っていた。
「はーい。陽菜、ちょっとスノー持ってて」
友梨佳はスノーベルの頭絡に引綱をつけ、陽菜に手渡した。
「え、友梨佳、どうしたらいいの? 犬を預けるみたいにしないで」
「スノーがどっか行こうとしたら、綱を引っ張って。そしたら止まるから」
それだけ言うと、友梨佳は厩舎から出ていった。
厩舎には引綱を持った車椅子の陽菜とスノーベルが残された。
「よ、よろしくね、友梨佳さんたちが戻ってくるまで大人しく待ってようね」
陽菜は諭すようにスノーベルに言った。
スノーベルは大あくびをすると鼻をならし、ゆっくりと厩舎の奥に歩き出した。
「ちょ、ちょっと待って!」
陽菜は引綱を引っ張るが力が足りないのか、スノーベルは止まらない。
引綱を話すわけにもいかず、陽菜はスノーベルと同じ速度で車いすを進ませた。
「ね、スノーベル、止まろう」
諭すように話しかけるが、スノーベルは構わず歩き続け、厩舎の反対側の出入り口まで来て止まった。
「あ、ありがとう。いい子ね。出て行っちゃうかと思った」
安心したように話す陽菜だが、今度は一向に動かなくなった。
引綱をちょっと引っ張るがびくとも動かない。
「ねえ、スノーベル。そろそろ戻らない?」
スノーベルは尻尾を左右に小さく振るだけで動く気配を見せなかった。
このままここで友梨佳たちを待とうかと思っていると、スノーベルの頭が厩舎の出入り口より左側の壁を向いていることに気づいた。
壁には轡と手綱の付いた頭絡が掛けられ、革製の頭絡には真鍮製の細長いプレートに『SNOW BELL』と刻印されていた。
「え、これを取りに来たの?」
陽菜は懸命に腕を伸ばし、壁から頭絡を取った。
するとスノーベルは踵を返し歩き出した。
「え、待って」
陽菜は頭絡を膝に乗せ、手元のジョイスティックを操作して車いすをUターンさせた。
グイグイ進むスノーベルに遅れないように、かつ車いすをスノーベルにぶつけないように陽菜は注意しながらジョイスティックを操作した。
自分の馬房の前に差し掛かったところで、スノーベルは急に止まった。
「わっ!」
車いすは急に止まれない。スノーベルに押し出されるような形で車いすは止まった。
陽菜はホッとしてため息をついた。
「ごめん、陽菜。スノーの頭絡が見つからなくてさ」
ヘルメットとプロテクタージャケットを持って友梨佳が厩舎に戻ってきた。
「しょうがないから他の子の頭絡で……」
と言ったところで、陽菜の膝にスノーベルの頭絡があることに気が付いた。
「それ、スノーの頭絡。なんで陽菜が? ここにあった?」
「ううん。スノーベルが自分で反対側まで歩いていって教えてくれた」
「ホント! すごいっしょ! スノー、あんたやっぱり賢いね!」
友梨佳はスノーベルの顔をワシャワシャと撫でまわした。
「昨日あたしが向こうにかけっぱなしにしてるのを覚えてたんだね」
「もー、ほんとに焦ったんだから。自分で取りに行っちゃうならそう言ってよ」
「自分で頭絡を取りになんか行かないよ。陽菜が初めてだから教えてくれたんだと思うよ」
「そうなの?」
陽菜はスノーベルの顔を覗き込んだ。
「陽菜もよく頑張ったね。えらい、えらい」
「嬉しくない」
「あはは! でもこれでスノーにだいぶ慣れたっしょ」
そう言うと、友梨佳はヘルメットを陽菜にかぶせた。
やや荒っぽいが、確かに変な緊張感はなくなった気がする。これもスノーベルの思いやりかな?
そう思いながら陽菜はヘルメットの顎ひもを締め、友梨佳から手渡されたプロテクターに腕を通した。
その間、友梨佳はスノーベルの無口頭絡を外し、代わりに轡の付いた頭絡を慣れた手つきでスノーベルの頭に着けた。
轡と手綱、さらに鞍を装着したスノーベルの姿は機能美にあふれ、筋肉で盛り上がった胸と前脚の肩に、美しさの中にも力強さを感じさせた。白い馬体と相まって、さながら動く彫刻の様でもあった。
その姿に陽菜は高揚感と緊張感の入り混じった気持ちを覚えた。
「じゃあ行こうか。こっちきて」
友梨佳が促すとスノーベルは素直に歩き出す。
「私の言うことは聞かないくせに」
陽菜はそう呟くと友梨佳の後をついて行った。
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