第3話 8月3日 その1

 初めて友梨佳と会った日と同じく、今日も良く晴れていた。陽射しは強いが湿度が低いため、吹く風が心地よい。どことなく潮の香りがするのは、海に近いからだろうか。海を望めないか見回すが、木々が生い茂っているので分からなかった。

 今日も3組のサラブレッドの親子がのんびりと牧草を食んでいた。

 陽菜は自分の両腿をさすりながらその様子を眺めていた。

 月曜日から本格的にリハビリが始まったのだが、想像以上に体に負荷がかかった。

 長下肢装具と呼ばれる両足に大腿部から足までを覆う形状の器具を装着し、平行棒につかまりながら歩行訓練をおこなうリハビリだけでなく、ここの病院ではドレッドミル上にハーネスで固定された状態での歩行訓練まで行った。

 健常者なら何でもない運動量だが、体幹の筋力が極端に落ちている陽菜にとっては1時間のリハビリでも大きな運動量になる。

 週末には友梨佳の牧場に行けることを励みに頑張ったが、正直昨日の疲れがまだ残っている。次牧場に来るならリハビリの翌々日にしてもらおう、そんなことをぼんやり考えていると、2頭の仔馬が陽菜に気づいて駆け寄ってきた。

 陽菜がこっちにおいでとばかりに手を伸ばすと、仔馬たちは互いに顔を見合わせ、踵を返して母馬のもとへ走って行った。

 陽菜は小さく息を吐き、次に来るときは角砂糖か人参を持って来ようかと思った。

 待ち合わせの時間にはもう少しある。

 今日は、叔母夫婦の家から路線バスで早めにここまで来た。

 国道沿いに中学校や高校があるため、地方都市にしてはバス路線に恵まれている。

 待ち合わせ時間ちょうどに着くバスもあったが、トシリベツ教会に寄ろうかと思いひとつ早い便で来たのだった。

 ただ来たは良いが、礼拝もやっていない教会を訪ねるにはまだ気が引けて、どうしたものかと放牧地で仔馬を見ながら迷っていたのだった。

 そんな折に友梨佳から電話がかかってきた。

「もしもし陽菜。いまどの辺?」

 一昨日別れてから何度もLINEのチャットでやり取りをしてたため、初めて会った時に少しはあった遠慮が完全になくなっていた。

「あ、友梨佳さん。いま放牧地の所」

 陽菜は敬語こそ取れたが、未だ『さん』付けで友梨佳を呼んでる。

 友梨佳は不満そうだったが、陽菜らしいねと強要はしなかった。

「えぇ、電話くれたらいいっしょ! 今から行く! この前いたところ?」

「うん、この前より教会寄り。来たら分かると思う」

 友梨佳と通話中に、また1頭の仔馬が近づいてきて、今度は陽菜のいる柵まで寄って来た。

 陽菜は右手でスマホを耳にあてたまま、左手を仔馬の鼻先に伸ばした。

 仔馬は陽菜の左手に匂いを嗅ぐように鼻面を近づけた。

 やがて陽菜が何も持っていない事を確認すると、仔馬は仲間のもとに駆け戻って行った。

 絶対に人参か角砂糖を持ってこようと陽菜は心に決めた。

「分かった。ちょっと待ってて!」

 友梨佳はそう言って電話をきった。 

 電話をきってから陽菜は手土産も何も持ってきていない事に気がついた。

 この付近にスーパーマーケットどころかコンビニもない。

 やっちゃった。と、陽菜は思ったが仕方がない。

 多分、友梨佳は気にしないだろうが、次来る時があったらその時に持ってこようと思った。

 陽菜は、ふうっと息を吐くと車いすの背もたれに背中を預けて目を閉じた。

 放牧地の牧草を揺らしながら風が通り抜けてゆく。風が揺らす木の葉のざわめき以外に音がない。

 同じ静寂でも部屋に閉じこもっていた時のものとは全く違う。静寂がこんなにも心地よいものとは知らなかった。

 しばらく静寂を味わっていると、友梨佳の声が聞こえてきた。

「陽菜?」

 陽菜が声の方を振り向くと、青の作業服につば広の麦わら帽子、目には薄いブラウンのトンボ型のサングラスという恰好の友梨佳が柵沿いに歩いてきていた。

 疑問形なのは陽菜の姿がはっきりとは分からないからだろう。

「友梨佳さん」

 陽菜は友梨佳にはっきりわかるように大きく手を振った。

 それにしても、と陽菜は思った。

 作業服と麦わら帽子にサングラスのコーデなんて普通はありえない。それでも友梨佳が着ると不思議と様になる。美人は得だ。

「ごめんなさい。トシリベツ教会に寄ろうかと思って早く来ちゃった」

「なんだ。それならそうと言ってくれたらいいのに。今から行く? タコウナギのとこ」

「ううん。また今度の日曜日に来るから大丈夫。はやく友梨佳さんの牧場に行きたい」

「オッケー! じゃあ行こうか。おじいちゃんも陽菜に会いたがってるよ」

 友梨佳は車いすに回り込み、手押しハンドルに手をかけた。

「あ、友梨佳さん。待って、大丈夫……」

 言い終わる前に友梨佳が車いすを動かそうと力を入れるが、想像以上に前に進まない。

「おっもい! え? 陽菜、あなた意外と……」

 友梨佳は驚きと慈愛が混じった目で陽菜を見る。

「違う! この車いす、見た目は普通だけど電動式でモーターとバッテリーが付いてるの。それにここは草のうえで車輪がとられるから前に進みにくいだけ。私の体重のせいじゃないから!」

「あはは! わかった、わかった。じゃあ行こうか」

 友梨佳は柵沿いに元来た道を歩き始めた。

「ねえ友梨佳さん! ほんとだからね!」

「はいはい。分かってるから」

 友梨佳は後ろ手でパタパタ手を振りながら歩いた。

「もう! ちょっと待って」

 陽菜は友梨佳の後を追いかけるのだった。


 柵沿いに緩やかに上がっている斜面を登っていく。柵のそばには等間隔に白樺の木が立っている。

 途中、1台の黒い乗用車とすれ違った。フロントグリルにLのマークがついた高級車だった。それ以外とは一台ともすれ違わない静かな道だった。

「よかったね。乗馬の許可がもらえて」

 陽菜の右側に並びながら歩く友梨佳が言った。

「本当。聞くときちょっと緊張しちゃった。どうしても乗ってみたかったから」

 昨日、リハビリの時に主治医に乗馬の件を聞くと、

「うん、いいと思うよ。外国では体幹や下肢筋力のリハビリに乗馬を取り入れているくらいだからね」

 と、あっさり二つ返事で許可がもらえた。

 両親は落馬を気にして少し渋っていた。が、主治医の許可はもらったことやリハビリになることを説明すると、プロテクターを着用し、牧場スタッフが常に側についてサポートすることを条件に認めてくれた。

 ただし、落馬には充分注意するようにくぎを刺された。

「あたしが引綱を持ってるし、ゆっくり歩くだけだから心配ないよ」

 気持ちが伝わったのか友梨佳は優しく微笑んだ。

 坂を登り切ると、白い2階建ての家が見えた。

 屋根の色は赤く、ヘの字の形をしていた。

 屋根に降り積もった雪が一方向に滑り落ちやすくする知恵だと雅治から聞いていた。

 もっとも、最近は屋根の中央に雪を集め、太陽光で溶かしてダクトから流す方式が主流らしい。

 家の奥には大きな木造の厩舎が建っていて、その入口の脇に藁が山のように積まれていた。

 壁は白塗りで、馬が首を出せるように中央がへこんだ正方形の鉄柵が並んでいる。

 鉄柵の横に木製の扉が付いているので、夜は扉を閉めるのだろう。

 友梨佳が先導して玄関に向かう。

 友梨佳は玄関に付属しているガラス製の風除室をくぐり、玄関の扉をあける。

 陽菜は少し緊張しながら風除室の前で待った。

「おじいちゃん! 陽菜が来たよ!」

 返事は返ってこない。

「おかしいな。お客さんはもう帰ったはずなのに。ごめん、ちょっと待ってて」

 そう言うと友梨佳は家のなかに入って行った。

 陽菜がふと下を見ると、風除室の段差に真新しい木製のスロープが付けられていた。

 よく見ると、風除室の隅にもふた周りは大きい木製スロープが立てかけられていた。

「おじいちゃんいないや。厩舎にいるのかも」

 陽菜がスロープを見ていると、友梨佳が玄関の奥から出てきた。

「それ、おじいちゃんが昨日作ったんだよ。陽菜が来るって言ったら張り切っちゃってさ。あたしが友達連れて来るのって中学以来だから」

 友梨佳はサラッと言った中学以来という言葉が陽菜の胸に引っかかった。

 陽菜も事故以来、友達づきあいとは疎遠となり、高校には通っているが親友と呼べる人はいない。

 高校入学時に、両親が陽菜の事情を担任に話したため、担任はクラスメイトに差別したりからかったりしないように入学初日のホームルームでクラスメイトに釘を差した。

 両親としては、陽菜に再び辛い想いをさせないようにとの配慮だった。

 そのおかげで陽菜は学校で差別やいじめを受けることがなかったばかりか、車いすで学校生活を送るうえで様々な配慮をしてもらえた。

 しかし、その副産物として、クラスメイトがよそよそしいか過剰に親切な態度を陽菜にとるようになった。

 誰しも自分の内申点に傷をつけたくはない。

 自然と陽菜の周りには人が集まらなくなった。

 陽菜の高校はクラス替えがないため、友達と呼べる存在がないまま高三になったのだった。

「厩舎に行ってみよ。こっちだよ」

 友梨佳は陽菜を促し、厩舎へ歩き出した。

 私なら友梨佳のことを少しは分かってあげられるかな?

 そう思いながら陽菜は友梨佳のあとについて行った。

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