第2話 7月28日 その2

 陽菜が高辻牧場に続く小道から国道に出たところで、白いミニバンが路肩に止まっていた。

 陽菜が車に近づくと、叔父の菊池雅治が降りてきて右手を挙げた。

「ごめんなさい。遅くなりました」

「なんもさ。こっちも事故渋滞で少し遅れて今さっき着いたついたところだ」

 雅治がミニバンの後部座席のスライドドアを開けながら話した。

 雅治の家からここまで路線バスで20分程度の距離だが、今日は叔母夫婦と外食に行くため待ち合わせをしていた。

 陽菜は車いすを後部座席と平行に並べると、座面に両手をついて起用に腰を後部座席にスライドさせて乗り込んだ。

 雅治は車椅子をトランクに積み込み、ドアを閉めると運転席に座った。

 助手席には陽菜の叔母の真由美が座っていた。

「牧師さんからいいお話でも聞けたかい? やけに嬉しそうでないの」

 助手席から振り向いて言った。

 叔母の真由美は陽菜の母の妹にあたる人である。

 生まれ育ちは横浜だが、結婚を機に北海道に移住して20年が経ち、言葉のイントネーションもすっかり北海道に染まっている。

「え、なんで分かるの?」

「分かるさ。あんたのお母さんの次に長く、陽菜ちゃんのことを見てきたんだから」

 真由美は結婚してからも度々横浜に遊びに来ては幼い陽菜の面倒をみていた。子供のいない叔母は陽菜をわが子のように可愛がった。陽菜も真由美のことを第2の母のように慕っていた。

「あんた、こっちに来てからずっとアンニュイっていうか、どこか物憂げな感じだったじゃない? それが、憑き物が落ちたかの様な表情で出てきたんだもの。何もないなんてことはないでしょう」

「うん……素敵な人に出会ったの」

「え、まさか男かい?」

「おいおい、お義姉さんから預かってる大切な姪っ子なんだぞ。変な虫がついたらこっちの責任になっちまう」

 叔母夫婦がからかうように言ってくる。

「ちがう! 女の子! 私と同い年なの」

 陽菜は堰を切ったように、教会の帰り道に出会った友梨佳とのことを最初からすべて話した。

 真由美は嬉しそうに頷きながらずっと聞いていた。

 しばらく車を走らせると、国道わきに豪華客船を思わせる外観のリゾートホテルが忽然と現れた。

 ホテルの入り口には『Hidaka Artemis Resort』と刻まれた大きな石板が置かれていた。

「ここだけは別世界ね。観光客が増えて町としても嬉しいでしょ」

 真由美は窓の外を見ながら雅治に話しかけた。

 雅治は舞別町の観光課に勤めている。

「来てくれるのはいいんだけどね。牧場や二十間道路を見学して一泊したら、翌日には帯広や釧路に行くか札幌に戻っちまう。結局、この辺りには目玉になるような観光施設がないのさ。サラブレッドが有名と言っても、生産牧場で馬に乗れるわけじゃないからね。だから地元にお金を落としていかないのさ」

「何か作る計画はないの?」

「アルテミスリゾートがグランピング施設を作る話があるらしいけど、どうだかね。グランピング施設なんてわざわざ舞別に来なくても、道内にいくらでもあるからね」

「ふーん。上手くいかないのね」

 陽菜はリアガラスを振り返った。

 茜色が広がりつつある西の空のしたに、リゾートホテルの窓明かりだけがいくつも輝いていた。


「それでね、スノーベルの顎がすごく柔らかくてプニプニしてるの。私、馬の顎があんなに柔らかいなんて知らなかった」

 町内に一軒だけある回転すし店に着いても陽菜の話は止まらなかった。

「スノーベルは白毛って言って真っ白なの。突然変異らしいんだけど、スノーベルの一族はみんな白毛なんだって。白いと言ったら、友梨佳さんも真っ白で……」

「髪の毛は金髪で瞳は青。お花のようないい匂いがするんでしょ。もう何回も聞いたわよ」

 真由美はレーンに流れてきたマグロの握り寿司を取りながら笑って言った。

「それにスタイルも良いの」

「それは叔父さんも会ってみたいな」

 カン! と、真由美が雅治の目の前にマグロの皿を力任せに置いた。ネタがシャリから落ちていた。

「さて、何を頼もうかな……」

 雅治は真由美の顔を見ないようにしてタッチパネルを操作した。

「その友梨佳さんは日本人なんでしょ? 髪の毛にブリーチかけて、カラコンでも入れてるのかい? それとも外国人の子を養子に迎えたとか?」

「私、ひょっとしたら友梨佳さんはアルビノなんじゃないかと思うの」

「アルビノ?」

「生まれつきメラニンが欠乏している疾患で、肌も髪の毛も色素が薄いの。メラニンがほとんどないから紫外線に弱いし、それに視覚障害もあるんだって。生まれつき弱視だって言ってたから、もしかしたら……」

「なるほど、さすが看護師志望……ウッ!」

 真由美が雅治の脛を蹴った。

 雅治は脛の痛みと自らの迂闊さに顔を歪めた。

「ま、まぁ……医学的な知識はどの分野でも役立つからな。きっと将来役に立つ。うん」

 雅治は取り繕うように話した。

 陽菜の夢は看護師になることだった。中学を卒業したら5年一貫の看護学校に通う予定でいたが、受験の帰りに交通事故にあった。

 後日、合格通知が届いたが、事情を話すと合格は取り消された。

 事故以来、陽菜が感情を表に出すことはなくなった。

 退院してからも部屋に引きこもり、食事もほとんど摂らず、起きているか寝ているも分からない生活を送っていた。

 両親の言葉も、クラスメイトの言葉も陽菜には届かなかった。

 この頃の陽菜は口癖のように「死にたい」ともらし、両親を心配させた。陽菜の両親は交代で定期的に安否確認をするくらい、陽菜に生気を感じられなかった。

 陽菜を救ったのは、偶然開いた聖書の言葉を紹介するWEBサイトにあった言葉だった。

 曰く、「神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」

 曰く、「エリヤは自分の命が絶えるのを願って言った。『主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。私は先祖にまさってなどいないのですから』すると御使いが彼に触れて言った。『起きて食べなさい』、『起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから』」

 Webサイトを見たその日、陽菜は生まれたばかりの赤ん坊のように大声で泣きに泣いた。涙が枯れ、声がかすれると今度は泥のように眠った。夢も見ず、夜中に起きることもなかった。実に数か月ぶりの熟睡だった。

 翌日以降、朝にはリビングに出てきて、食事を徐々に食べるようになった。

 そして、外に出られるくらいの体力が戻ると、近所のプロテスタント教会の礼拝に通うのが陽菜の新たな習慣となった。

 教会の牧師も暖かく陽菜を迎え入れてくれた。

 事故以来、初めて陽菜の居場所ができた。

 無宗教だった両親は当初心配したが、怪しげな新興宗教に入信されるよりはよほどマシだし、何より陽菜に生気が戻って来たのが嬉しく、教会に通うのを認めた。

 看護師の道を絶たれたことについては、陽菜のなかで諦めがついている。

 下肢の障害だけでは看護師免許を取得するうえでの欠格事由にはあたらない。しかし、患者のケアが満足にできないのであれば、自分と患者の双方にとって不幸な話だからだ。

 神は間違いを犯さない。神は、私たち一人一人に、計画をもって臨んでくださっている。

 聖書の教えを胸に公立高校に入学したが、聖書の言うところの『脱出の道』は見えてこなかった。

 なんとなく時間だけが経過し、出口の見えない暗いトンネルに一人取り残されたような感覚が陽菜の気持ちを支配していた。

「大丈夫よ。道はひとつじゃないんだから。大学にでも進んでやりたいことを見つければいいっしょ」

 真由美が努めて明るく話す。

「うん、そうだね」

 陽菜は微笑んでみせた。

 誰も心配させてはいけない。聖書は人の心を引き上げる嘘まで禁じていないと知ってから、作り笑いが上手くなった。

「さ、食べよう。食べよう。適当に頼むぞ」

 雅治はタッチパネルを操作した。

「友梨佳さんがアルビノだとして、弱視でも一人で馬に乗ってるんでしょ。凄いわね。弱視でも乗馬できるのね」

 真由美が感心するように言った。

 確かに、と陽菜は思った。

 仰け反るほど顔を近づけないと視えないのに、少し離れた所から私がいることに気づいた。

 どうやってあの広い放牧地で馬を自由に操り、他の馬の様子を確認してたのだろうか。

 牧場の仕事はどうしているの、休みは何をしているの、好きな食べ物は?

 友梨佳について知らないことだらけだ、とりあえず次会ったら好きなお寿司のネタを聞こう。

 陽菜はタコの握りを食べながら考えた。

 タコと言えば。

「あ、そういえば」

 陽菜は雅治にたずねた。

「叔父さんに聞きたいことがあるの」

「おう、なんでも聞け」

 さっきの罪滅ぼしか、嬉しそうに身を乗り出して答えた。

「トシリベツ教会の高柳牧師って、なんて呼ばれてるか知ってる?」

 さすがにタコウナギの名を口にするのははばかられて、遠回しに聞いた。

「ああ、タコウナギ先生だべ。みんなそう呼んでるさ」

「ええ、なにそのあだ名」

「ソックリなんだ。ハゲの赤ら顔で身体がひょろ長いんだわ。なあ?」

 雅治は陽菜に同意を求めた。

「う、うん……」

 陽菜はうつむいて笑いを堪えた。

「それでも酷いわ。誰がつけたの? そんなあだ名」

「自分で言ってたんだよ。詳しい話はしらないけど、牧師になる前にお世話になってた人から呼ばれてたらしいよ」

「へえ、そうなの」

「25年くらい前かな。東京から来たって言ってたけど。まあ、色々あったんじゃないかい。ムショあがりだとか、背中にもんもんが入ってるとか噂があったけどね」

「えー、大丈夫なのその牧師さん」

 真由美が陽菜を見て言った。

「いやあ、人柄は良いって話だよ。今は歳とってやってねえけど、昔は教会でバザーとかやっててさ。遊びに行くとお菓子とかくれるから、地域の子供がなまら集まってたさ」

「うん。穏やかな牧師様よ」

 陽菜は礼拝の時に、穏やかにそれでいて厳かに聖書の教えを説いている高柳牧師の姿を思い浮かべた。

 陽菜はトシリベツ教会の礼拝に今日初めて参加したばかりで挨拶程度しかしていない。

 高柳牧師にどんな過去があったんだろう?

 友梨佳はこの話を知っているだろうか。

 陽菜は胸がソワソワするのを感じた。

 でも、まずは次の礼拝で笑わないようにしないと、と陽菜は思いながらタコの握りをもう一貫頬張った。

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