海辺の約束~白馬が導く友情と希望、少女たちの牧場物語~
@tama_kawasaki
第1話 7月28日 その1
7月の日高に吹く草木の香りを含んだ風は、涼やかに新冠川の河川敷に咲く黄色いキンシバイの花を優しく揺らしている。新冠川に沿って走る国道を逸れて森の中に向かう1本の細い道があった。その道のアスファルトはでこぼこで、所々に小さな穴が開いていた。
うっそうと生い茂るミズナラの木のトンネルを抜けると急に視界が開け、青々とした牧草の絨毯が敷き詰められた放牧地が一面に拡がっていた。
白い木製の柵で囲われた放牧地には3組のサラブレッドの親子がのんびりと草を食んでいる。
その遠くの方に放牧地の柵沿いを、白毛のサラブレッドに跨りゆっくりと馬を歩かせている少女の姿があった。
彼女の髪の毛は白に近い金髪のロングヘア―で、放牧地を吹き抜ける風に髪をなびかせていた。
目にはエッジの利いたスポーツ用サングラスをかけ、ベージュ色したタイトなキュロットを履き、紺色の長袖のシャツを着ていた。
彼女は乗っている白馬の首筋や耳を触りながら放牧地の方を眺めていた。
ふと、馬が歩みを止め、耳を左右に動かしたかと思うと、首を柵の外に向けた。
「スノー、どうした?」
少女はそう言うと馬の視線の先に目を向けた。
馬が止まった少し先の柵の外に、電動車いすに乗ったショートヘアの少女の姿があった。少女は放牧地のサラブレッドの親子をじっと眺め、胸に手を当てながらつぶやいていた。
「そして、わたしは天が開かれているのを見た。 すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる……」
馬上の少女は馬を促し、車いすの少女の方に歩を進ませた。
「こんにちは」
馬上から声をかけると、車椅子の少女はハッとして振り向いた。
振り向いた先には、日の光を背に白馬に跨る雪のように白い肌をした少女の姿があった。
車椅子の少女は、あっけに取られたかのように無言で馬上の少女を見つめた。
「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」
車椅子の少女は我に返ると慌てた様子で、早口でまくしたてた。
「あ、こ、こんにちは。ごめんなさい、つい見惚れてしまって。とても綺麗ですね……あ、いえ馬がですけど……」
「なんだ、私のことじゃないの?」
いたずらっぽい口調で馬上の少女が話す。
「あ、ごめんなさい。もちろんあなたもです」
「あはは、ごめん、冗談。スノーベルって言うの。誉あるスノー一族の末裔よ。誉と末裔の意味が良く分からないけど、おじいちゃんがそう言ってた」
「私は主取(ヌシトリ)陽菜です。スノーベルさん日本語お上手なんですね」
馬上の少女は一瞬ぽかんとして、陽菜が言った意味が分かるとケラケラと笑いだした。
今度は陽菜がぽかんとする番だった。
「違う違う。スノーベルはこの子の名前。あたしは高辻友梨佳。純日本製よ」
「あ、ご、ごめんなさい」
陽菜は口元を両手で覆った。
「いいって。ごめんなさい。最初から『この子は』って言えば良かったね。おじいちゃんからも『お前の話しには主語が足りねえ』って良く言われるんだよね」
友梨佳は馬から降りると、手綱を引いて陽菜の目の前まで歩いた。
陽菜は感嘆の声をあげてスノーベルを見上げた。
「陽菜さんは馬が好きなの?」
「はい。でもこんなに間近で見たのは初めて」
「触ってみる?」
「え、良いんですか? でも……」
車椅子からは手を伸ばしてもスノーベルの顔には届きそうもない。
「ちょっと手を出して」
言われるままに陽菜は右手を前にだした。
友梨佳はウエストポーチから角砂糖を4粒ほど取り出すと、陽菜の手のひらに乗せた。
「手は開いたままにして」
そう言って友梨佳が手を離した瞬間、スノーベルが陽菜の手まで頭を下げ角砂糖を食べ出した。
「ひゃっ! くすぐったい」
「ほら、今なら触れるよ」
陽菜は左手で恐る恐るスノーベルの顔を触った。
しっとりした毛並の奥から優しい温もりが伝わってくる。
「すごい。あったかい」
「顎の下を触ってみなよ。ぷにぷにして気持ちいいから」
「ほんとだ。ふふ、気持ちいい」
陽菜はスノーベルの下あごを触りながら微笑んだ。
スノーベルは一頻り触らせると、角砂糖4個分の義理は果たしただろうと言わんばかりに鼻をならして首をあげた。
「ねえ。そっちに行ってもいい?」
言うが早いか、友梨佳は柵をくぐると陽菜のとなりにしゃがんだ。
スノーベルは手綱から手を離されても、柵の内側で大人しくその場に立っていた。
陽菜はスノーベルがどこかに行ってしまわないか心配になったが、考えてみればどこまで行っても放牧地の中だから大丈夫なのだろうと思いなおした。
「ねえ、陽菜さんって私とタメ?」
「え、えっと……どうでしょう……」
いきなり同い年か聞かれても、相手の年齢がわからなければ答えようがない。初対面の人に年齢を尋ねるのも失礼なような気がして、陽菜はとりあえず学年を答えることにした。
「高辻さんと同い年かどうかわかりませんが、高校3年です」
「じゃあ18歳? やっぱりタメだ。なんとなくそんな雰囲気がしたんだよね」
そう話すと、友梨佳はサングラスを外して顔を陽菜に近づけてきた。
友梨佳の瞳は透き通った湖の湖面のように青く、頬の色は雪原のように白い。友梨佳のシルクのような髪の毛が風になびいて陽菜の頬にかすかにあたる。視線を下にすると骨まで透けてみえそうな白い手が車椅子の肘掛けを握り、陽菜の手に今にも触れそうになっている。そして、かすかな花のような香りが陽菜の鼻をくすぐった。
陽菜は自分の鼓動が早まり、頬が熱くなるのを感じて思わずのけぞった。
「あ、あの、高辻さん……近い……です」
思わず声が上ずってしまう。
友梨佳はハッとして陽菜から顔を離し、手をパタパタ振りながら、
「あ、ごめんごめん。あたし生まれつき視力が弱くてさ。良く見ようとすると顔を近づける癖があるんだよね」
ここでも友梨佳はケラケラと笑っている。
本当によく笑う人だと陽菜は思った。しかも笑い方に屈託がないから、見ているこちらも気持ちが明るくなる。
「ねえ、陽菜さんって東京のひと?」
「東京と言うか……横浜です」
「やっぱり! 服とか髪型もおしゃれだもんね」
ダークブラウンのショートヘアはスタイリストにほぼお任せで、着ているシンプルなグレーのニットも店員に勧められるまま選んだものなので、そこに陽菜のセンスはほぼ介在しないがおしゃれと言われて悪い気はしない。
横浜が東京と一緒にされているのが少し気にはなったが、北海道の人にしてみれば東京も横浜も同じなのかもしれない。
「ありがとうございます。高辻さんもすごく素敵です。イエス様が白馬に乗って現れたのかと思いました」
「あはは! よく外国人に間違われるんだ。大丈夫、慣れてるから」
友梨佳は笑いながら陽菜の背中をポンポンと叩いた。
イエス・キリストのことを外国人呼ばわりする人に陽菜は初めて会った。冗談なのか本当に知らないのか測りかねて戸惑ったが、友梨佳の無邪気な笑顔に陽菜の顔もほころび、ふたりは向き合って微笑んだ。
「日高には観光で? それとも帰省?」
「いえ。夏休みの間、リハビリ外来に通っているんです。舞別の神経内科に良い先生がいると紹介されて。今は叔父夫婦の家に居候させてもらっています」
「へえ、そうなんだ。でもこの辺に病院なんてあったっけ?」
「病院は町の方です。今日はこの先にあるトシリベツ教会の礼拝の帰りです」
放牧地に沿った小道をさらに進んだ先に、プロテスタント教会のトシリベツ教会が森の中にひっそりとたたずんでいる。
「ああ、タコウナギの教会ね!」
「タコウナギって……もしかして高柳牧師のことを言ってます?」
「そう。だって似てない? 赤ら顔で頭は禿てて、背は高いのにひょろっとしてるんだよ。あたしが小さい時から大人もみんなそう言ってたよ」
友梨佳は笑いながら話した。
「それで最初に必ずこういうんだよ。『皆さまは知ってるか知らんか知らんが……』」
敬虔な信徒が聞いたらそれこそ顔を赤くして怒り出しそうなものだが、それだけ地域の住民から親しまれているのであろう。本当に嫌われていたらあだ名どころか、高柳という名前すら口にされることはないし、そもそもこんな小さい町で長く教会の牧師を務めることはできない。
陽菜は高柳牧師の姿を思い浮かべて、思わず噴き出した。
「ちょっと、やめてください。来週の礼拝で会うんですよ。笑ったらどうするんですか」
「大丈夫じゃない。神様は寛大なんでしょ。許してくれるよ」
「神は許しても、タコウナギ牧師が許してくれません」
「あ、タコウナギって言った」
「もう! うつったじゃないですか!」
二人は晴れ渡る空の下、静かに牧草を食んでいるスノーベルの側で大笑いした。
一頻り笑い終えると、友梨佳は草の上に仰向けに寝転んだ。陽菜も車椅子の背もたれにもたれかかった。
こんなに笑ったのはいつ以来だろうと陽菜は考えた。少なくとも交通事故で車椅子生活を余儀なくされた中学3年から今まではなかった気がする。
「高辻さんは地元の高校に通ってるんですか」
「えーと……今は通ってない。ちょっと訳ありで。今はこの高辻牧場でおじいちゃんの手伝いをしてる」
友梨佳は寝ころんだまま答えた。
「あ、ごめんなさい」
「なんもさ。あたしこの生活が気に入っているから」
友梨佳は上半身を起こし、
「ねえ、陽菜さんは何で馬が好きなの?」
と、陽菜に尋ねた。
「聖書に、馬がたくさん出てくんです。力強くて美しい動物だって。いつか本物の馬に会いたいってずっと思っていたんです」
そう話す陽菜の瞳は、まるで星の光のように輝いていた。本当に馬が好きなことが伝わったのだろう、友梨佳は陽菜を見ながら微笑んだ。
「あたしはね、馬に乗ると、どこまでも行けるような気がするんだ。自由で、開放的で」
「いいなあ。私はこんなんだから、遠くから見てるだけしか……」
友梨佳はちょっと考えると、
「ねえ、リハビリって毎日あるの?」
と、尋ねた。
「ううん。月、金の週2日だけ」
「じゃあさ、今度の土曜日にでもまたおいでよ」
「え、いいんですか?」
陽菜はぱっと表情を明るくした。
「でも、お仕事の邪魔じゃ……」
「平気、平気。うち放牧場だけは広いけど肌馬3頭しかいない零細牧場だから、朝と夕方以外は案外時間があるんだ。今も空いた時間で放牧中の馬の様子を確認しに来てたんだよ。うちの牧場でよければ案内してあげるし、なんなら馬に乗ってみる?」
「本当ですか? ……じゃあ、ご迷惑でなければ。馬に乗っていいかどうかは両親と主治医の先生に聞いてみます」
「オッケー、決まりね! 乗馬がダメでも、好きなだけスノーに触らせてあげるよ」
「ありがとうございます。ああ、なんと言う神のお導き」
「あたしを導いたのはスノーだけどね」
友梨佳は相変わらず牧草を食んでいるスノーベルをちらっと見る。
スノーベルは首を上げて2人を見ると、めんどくさそうに鼻を鳴らして再び牧草を食べ始めた。
陽菜と友梨佳は目を合わせてクスクスと笑いあった。
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