ある月

水科若葉

ある月

「帰りましたよー」

 廊下越しに、おそらく先生が居るであろうリビングへと声を掛けて、私は玄関扉を閉じる。返事の代わりに生気の無いうめき声を聞き届け、私はため息を吐いた。

 靴を脱ぎ、一度置いたビニール袋を持ち上げる。廊下を抜けてリビングへ入ると、そこにはやっぱり、ソファーに転がる先生の姿があった。

「…………」

 もう一度ため息を吐きそうになり、見慣れたものだと心を諫める。血縁関係に無いとは言え、自身の父親にあたる存在が常日頃からこうも情けない姿を晒しているのは、私としては結構しんどいものがあった。

 手を洗い、ビニール袋から食材を取り出す。一部を冷蔵庫にしまってから、私は深呼吸の後、ソファーへと声を張った。

「先生、起きてくださーい! 夜ご飯作りますから、お手伝いしてくださーい!」

「んー……?」

 のっそりと上半身が起き上がる。先生は焦点の合わない視線をこちらに向け、「俺も手伝わないと駄目かー……?」と、舐めたことを抜かした。

「俺が食うわけじゃないだろー……?」

「馬鹿言わねーでくださいよ。私と先生、当然二人分です。学校及びスーパー帰りの女子高生に手前の食まで用意させる気っすか?」

「要らないよ、俺の分は……どーせ不老不死だし……」

「不老で不死でも不変では無いでしょう。この間なんて、何日も食べてなさ過ぎて枝みたいになってたじゃないですか」

「枝でもいいよ……時代は細マッチョだぜ……」

 うだうだとぼやきながらも立ち上がり、先生は頭を掻きながら、私の隣に立った。

「……で、俺は何をしたらいいんだ?」

 空気の抜けた寝起き特有の声で、先生に支持を仰がれる。

「先ずは手洗いを」流し場を指さす。「今日は私も初めて作る料理ですので、レシピ通りに、丁寧にいきましょう」

「へいへーい」

 欠伸をひとつ。相変わらずやる気の感じられない緩慢な動作ながらも、素直に手を洗い始める。

 二十代半ばといった端正な風貌と、それに似合わない妙な貫禄。

 本名を文武軽とするこの男性は、間もなく1342歳の誕生日を迎えようとしているのだった。


いまは昔、竹取の翁といふものありけり――

 そんなあまりにも有名な一節から始まるお話である、竹取物語。

 いつだったか、古文の授業で習ったきりの私だけれど、それでもおおよそのあらすじくらいなら言える。

 えっと……竹取の翁が切った竹からお姫様が出てきて、なよ竹のかぐや姫と名付けられたそのお姫様は、たけのこの如く、すくすくと成長していく。で、麗しの若造になったお姫様が五人の下種及び帝をフって、月へと帰っていく……みたいな。

 月へ帰る際、求愛を断っておきながらキープしていた帝に(正確には、その臣下に)不老不死の薬を渡すも、帝は日本で一番高い山のてっぺんでその薬を燃やしてしまう。そんな逸話から、不死の山、転じて富士山という名前の山が生まれたのだ――!

 ……うん。我ながら先生に聞かれたら怒られそうなまとめ方だ。

 で、先生曰く、前述の帝が、聞き伝えられている物語とは違って不老不死の薬を飲み、現代まで生き続けた姿こそが、この俺本人である、とのこと。

 竹取物語における帝、つまり文武天皇は本来24歳という若さで亡くなってしまった人である筈で、本来なら信じるに値しない妄言そのものなのだけれど……

「なあ、弱火で三十分ってことは、つまり強火だと何分だ?」

「…………」

 頭を押さえる。

「先生、千年以上何を学んで生きてきたんすか?」

「仕方ねーだろー。俺、偉いんだもん」

「これだから元皇帝は……!」

 ……とまあ、このように私個人としては、先生が不老不死且つ帝である、という話については、概ね信じている……というより、『そういうもの』として受け入れている。

 三歳の頃に出会って以来刷り込まれ続けてきた、という事情もあるけれど……実際、十年以上に渡って容姿に一切の変化が見られないことや、寝ているだけで口座に放り込まれている謎のお金等々、信用を補強する要素もあったりする。

 本当だった方が面白いしね。

「いただきまーす」

「ああ、いただきます」

 そんなこんなで、紆余曲折ありながらも完成した料理(ストラコットのパスタ添え。ビーフシチュ―とはまた違った味わいで、なかなかに美味しい)を二人で食べる。

「ところで舞」

「なんすか先生」

「今日の学校はどうだった?」

 当たり障りのない雑談を振られる。私はパスタをスープに絡ませながら、乱雑に言葉を出力していく。

「どうもこうも、ですね。入試前ですし」

「そっか。ま、もう勉強以外の行事も無いもんな」

「っすねー」

 夏休みの使用方法に関わらず、誰しも受験への焦りを隠さなくなるこの時期。教室には寒気と共に特有のピリつきが漂い、どっぷりと勉強に浸かっているだけで、気付けば帰路についている日々だ。

「入試前って割には割と落ち着いてるよな、お前」

「ん……まあ、食事時くらいは平穏に、です」

 実際のところ、こうしている間にも脳内では暗記した単語やら公式やらが飛び交っている。全身に蔓延る緊張感が、煩わしくもあり、少しだけ心地よくもあり。

「ふうん。意外と図太いってわけだ」

「ええ、先生に育てられましたから」

 軽口に皮肉を返すと、先生は少し嫌な表情をした。

 ……先生は、自分が親のように扱われることを嫌う。

 都合十五年も一緒に過ごしているのにも関わらず、だ。それがどのような心理に基づくものであるのかは……あまり、考えないようにしている。

「ごちそうさまでした」

 ほぼ同時に食べ終わる。先生はどっかりと、背もたれに全身を預けて伸びをした。

「美味かったぜ。皿洗い、よろしくな」

「……あの。私、この後勉強しなきゃなんすけど」

「いいのか? 俺に任せると、本当に綺麗になったのか疑問の残る結果になるぞ」

「……ダメ男」

 肩を落とし、自分と先生の皿を回収する。「頑張ってなー」という先生の腹立たしい声援に失望を通り越して苦笑いをこぼしつつ、私は流し場に向かう。

 そんな毎日。

 少し風変わりなところもあるけれど、総合的にはありふれた、平凡な家庭。先生への不満は勿論あるけれど、授業参観に欠かさず来てくれたり付き合いが良かったりと良いところもあって。

 私はこの生活が嫌いじゃなかった――だから。

 ぼとん、と。

 先生の左腕がえぐり落ち、紅い液体が泥みたいに流れ出る様を目の当たりにして、私は言葉を失った。


「まさか身体がもげるとは……人生、色々だな」

 包帯でぐるぐる巻きにされた自身の左腕を眺めながら、先生はしみじみと言う。

「痛み、とかは……?」

 つい心配を滲ませてしまう私の声に、先生は「これが全然」と、左腕を見せつけた。

「くっつけた瞬間に出血も止まったし、動かす上で違和感もナシ。これまで通り、完璧な俺のままだよ」

 平気そうに笑う先生。けれど、その表情には無理が見えて。

「……不老不死、じゃなかったんすか?」

「……はは」疲れたように笑う。「いつかこうなる気はしてたよ」

「…………」

 かぐや姫から渡されたという不老不死の薬。先生はそれを『いつか月へ迎えに来て欲しい』というメッセージだと受け取ったらしい。だから俺はいつか月に行くんだー、なんて、よく口にしていたものだったけれど……

「江戸時代の最初の頃だったか、日本に望遠鏡が渡ってきてな。それまで遠くから、あの人が居ると信じて眺めてた月をようやくはっきり見ることが出来るってことで、俺は舞い上がったものさ」

 淡々とした語り口。

「けど、当然月には誰もいなかったし、月の都も無かった。こっちからは見えないだけで、裏側にあの人は住んでる筈だっていう希望も、後になって打ち砕かれるけど……望遠鏡を覗いたその時点で、俺には確信めいたものがあったよ」

 ああ――俺は間に合わなかったんだ、って。

 寂しそうに、独り言みたいに、そう言葉を零す。

「あの人にとって千年以上は永遠に等しくて、俺はその時間を浪費した。だったら、ガタが来るのも当然なんだ」

「……そう、ですか」

 あまり心の内を明かさない先生の、弱弱しい独白。

 ……やめてよ、馬鹿みたいじゃん。

 先生の飄々とした態度を頭から信じてた私が、本当に――

「……っ、取り敢えず、です」心にナイフを突き刺す。「明日は病院へ行きましょう。別状は無さそうですけれど……何かあったら、まずいですから」

「えー……俺、病院嫌いなんだけど」

「子供ですか」

「おう、1300歳児だ」

「40年以上は端数扱いは流石にどうかと……!」

 意図を汲まれたことが嬉しいのか、「へへ」と笑う先生。

 ……いつも通りの会話だ。

「本当に何の問題も無ければ、痛いことはありません。私も行ってあげますから、ね?」

 あやすように言う。先生の渋々とした了解を受けて、私は立ち上がった。

「では……私は自室で勉強をしてきますので。先生は安静に」

「ん。勉強、頑張ってなー」

 すっかり普段通りの笑顔と、相変わらず気の抜けた声援。

 私は逃げるように、部屋へと向かった。


「…………う」

 時計を見て絶望する。

 深夜二時。また嫌なタイミングで目が覚めてしまったものだ。

「……うわ。意識、凄いはっきりしちゃってる」

 舌の上で愚痴を転がす。経験上、一度でもこうなってしまうと、その夜はもう眠れない。

「あー……仕方ない……」

 枕に頭を擦り付けた後、渋々布団から這い出る。

 水でも飲もう。

 そう思って、扉を開けてリビングへ降りる。

 ……結局、医師の判断は『一切問題無し』だった。千年以上生き続けている先生が戸籍の上でどのような扱いになっているのか、私はよく知らないけれど……少なくとも、その医師は先生を普通の男性とした上で検査していたように見えた。

 つまり、常識的に考えれば先生は健康そのもの、ということ。先日のアレが完全なイレギュラーだっただけで、今後何千年も……何万年も生き続ける可能性だってある。

 けれど、どちらにしたって、きっと永遠じゃない。

 全てに終わりはあるのだと、私はあの日学び、実際にそれまでの日常は幕を閉じた。

 そんな『それから』を示す最も分かりやすい一例が――

「……やっぱりいた」

 テラス戸の先。小さな庭に沿う縁側に座って月を眺める先生を見つける。左手には日本酒が握られていて、どうやら一人で静かに、月見酒と洒落込んでいるようだった。

 仕舞ってあるコップを二つ取り出す。一つに水を入れ、もう一つは空のまま、私は両手にコップを持って先生の元へと向かった。


 隣に座っても、先生は静かなままだった。

「…………」

 少し雲の見える空。そこに浮かぶ月はガラス玉が嵌まってしまいそうなくらいまん丸で、私は息を長く吐く。白い水蒸気が昇っていって、それでようやく寒さを自覚したけれど……風邪が凪いでいるおかげだろうか、不思議と過ごしやすい気温だった。

 穏やかで、緩やかで、それでいて何処か、寂しい時間。

「――随分とセンチなことをするものですね」

 どれくらい静寂を享受していたか分からないけれど……気が付けば、私は口を開いていた。

「……なんだよー」拗ねたように言う。「こんなに月が綺麗な夜なんだ。寧ろ飲んでやらなきゃ失礼ってもんだろー」

 ……失礼、ね。

 果てさて、それは誰に対しての口惜しさなんだか。

「……何しに来たんだよー」

 僅かに視線を落とし、横目で私を見る先生に、私は無言で二つのコップを見せつける。一拍の後、先生は「ああ」と手を叩いた。

「スマブラの誘いね。いいけど、手加減できないぞ俺」

「は? 私のロイ君が負けるわけ無いんすけど?」

 ……じゃなくて。

「随分と情けない背中が見えたものですから、こうして慰めてやろうと馳せ参じたわけですよ」

「ははーん。そう言って俺のお酒に便乗しようって魂胆だ」

「馬鹿。まだ違法っすよ」言いながら、水の入った方のコップを先生の反対隣に置く。「ほら、その一升瓶を寄こして下さい。私が注いであげますから」

 少しだけこみ上げた恥ずかしさを誤魔化すように笑いながら、私は腕を先生へ突き出す。先生は困惑と喜色をない交ぜにしたような表情を浮かべ、「ありがとな」と一升瓶を差し出した。

 右手で受け取り、左手にあるコップ(白いマグカップ。多少雰囲気に合わないのはご愛嬌)を渡す。

 両手で握られたコップへ、慎重にお酒を注いでいく。初めての試みだったこともあって、先生の目には危なっかしい、というか滑稽に映ったかもしれないけれど、先生は何も言わず、ブレないようにコップを支えていてくれた。

 ……瓶からコップへ注ぐのも、お酌と言うのだろうか。

「とと、と……」なんとか注ぎ切る。「ど、どうすか。私もなかなかのもんでしょう」

「うん。ありがと」

「これがモテる女ってやつです」

「へえ、モテるのかお前」

「いえ全然モテないすけど」

「モテないのか……」

 はは、と小さく笑って、先生はコップを煽る。

「本当、何でモテないんすかね……私、こんなにツラがいいのに」

「自分で言っちゃう辺りじゃないかな」

 うるさいやい。

「そもそも、異性から一方的に好かれるなんて大概ロクな目に合わないもんだぞ。結局、いっとう好きな子に振り向いて貰えなけりゃ、意味なんて無いのさ」

「うわ出た出た! 流石皇帝様は言うことが違いますね! その王子様気取りで一体何人の女性を跨いで来たんですか妬ましい!」

「急に卑屈になられても困るぞ」

 呆れたような突っ込みを受ける。

 慰めに来たはずなのに結局馬鹿な話を展開してしまった不甲斐なさやら、会話の節々から浮き名を流してきたことが伺える先生への嫉妬やらを、私は水で一気に流し込む。先生はその様子を軽く笑い、一緒になってコップを傾ける。

「思えば何年ぶりかな……他人とこうしてお酒飲むのって」

 しみじみと語る先生。私は水ですけど、という野暮な突っ込みを抑えて、「あまり他人とは飲まないんすか?」と聞いてみる。

「そりゃ飲んでたさ……昔はな。けど……」また煽り、あっという間に空になる。白い底面を見つめながら、先生は話す。「俺、結構長い間引きこもりだったからな……」

「結構って……どれくらい?」

 何の気なしの質問。そこに「ん……1200年くらい?」と、あっさりと言われて、私は息を呑んだ。

「理屈的に、人は150歳あたりが寿命の臨界点らしいな。丁度俺が人生に飽きたのもその辺りだった……魂が腐って、俺はただ、人類が月へと到達するのを待つ傀儡になった」

 傀儡。

 先生は不老不死。例えどれほど瘦せ細ろうとも、飲まず食わずで生き続けることが出来る。目的があり、そのために時間が必要なら……先生は、ただ眠っているだけでいいんだ。

 死人のように、人形のように。

「俺は人生が『生きる』と『死ぬ』の二つだけじゃないと身をもって知ったよ。ま、本質的には、どっちも前に進む行為だしね」

 生きて、死ぬ。生物として当然の理だ。死を命の終着駅とするならば、確かにゲームセットとゲームオーバーは同義だろう。

 ……けど、それは。

「俺の人生は止まっていた。生きても死んでもいない、命の奴隷だったんだよ……うん、やっぱあれだな。『死にたくない』だけじゃ、生きる理由には足りないものだな」

「……それって、つまり」

「おう」あっさりと認める。「俺はただ、死にたくない一心で不老不死の薬を飲んだんだよ」

「……っすか」

 ずっと疑問に思っていた、物語と実際の乖離の、その真実。

 飲まれた薬と飲まれなかった薬の差はその程度のもので、それ故に、彼にとって何より切実だった。

「富士山で煙焚いたのは本当だけどな――月まで届けばいいと思ってさ。ま、アレ書いたの俺じゃないし、一緒にいた誰かが誤って伝えたんだろうな」

「……まあ、先生の性格的に、薬を燃やすことなんて出来ないとは思っていましたけれど」

「ケチだからな」笑って誤魔化される。「いつかは話したいと思ってたんだ。今日、話せてよかった」

 穏やかな表情。それに何を返せばいいのか分からず、私は「お酒、つぎますよ」と濁す。「ありがとな」という言葉を受け、日本酒をコップに注ぎながら、絡まった思考を必死で回す。

 先生は、何を思って、こんなことを私に伝えたのか。

 いつか話したいと思っていた。きっとそれは、嘘じゃない。でも、多分それだけじゃなくて……

 落ちた左腕を思い出す。あれ以来、先生は健康そのもの、といった体を崩さない。

 ……そっか。

「次は、どこが落ちたんすか?」

 もうすぐ、終わるんだ。

 ――泡沫の、夢が。

「……右目が、ぽとっとな。嵌め直したらすぐ直ったけど」

 いたずらがばれた子供のように、目を逸らして笑う。ひどく幼い表情に、けれど私は終活という言葉を連想した。

「……まだ、あなたの時計は止まっていますか」

「どうかな。ずっと止まったままのような気もするし、気が付けば動き出していたような気もする」

「…………」

 三歳のときに私は拾われた。

 当時のことは殆ど覚えていないけれど……家族旅行の帰り、交通事故で両親は亡くなった。奇跡的なのか何らかの要因あってか、事故から生き延びた私は親族……つまり、先生の養子となった。

 先生が親先として選ばれた理由は、単純に他に身寄りが無かったからだと思うけれど……先生は、別に断ることだってできたはずだ。その場合、私は里親の元へ行くことになるか、孤児院生活になるか……良し悪しは置いておいて、今とは違う生活になっていたことは間違いない。

 私という面倒事。

 それを抱えようと思ったのは、無意識に。

「きっと先生は、飽きることにも飽きたんですね」

「……はは、平易な言い回しだな。それ故に的を射てるけど、さ」

 先生が自身を父親と呼ばせようとしない理由。

 それは多分、『大切』を作りたくなかったからだと思う。

 初めから何も持っていなければ何も失わない。明るい彼にそんな諦念を持たせるほどに、長い長い時間。

 想い人のためだけに時間を食い潰した千年。そして、望遠鏡の先に虚無を見てからの三百年。目的の有無こそあれど、どちらも先生が先生として生きていなかった点で共通する。

 私を抱えようとして一歩。死を目前にして、もう一歩。

 ……1300歳児、か。

 全く、罪な女もいたものだ。

「……なあ、舞」

 名前を呼ばれる。

「今度、どこか遊びに行かないか」


 あれはいつのことだったか。

 家全体の大掃除を敢行したときだから、年末には違いないのだけれど……私は、押入れから一つの箱を見つけた。

 最初はお菓子でも入っていたのだろうか、ブリキ製の可愛らしいその箱は、多少埃を被り、色褪せてこそいたものの、押入れの奥の奥にあった割にはかなり綺麗な状態だった。

「……なんだろ、これ」

 軽く六面を拭き取ってから開けてみると、そこには紙の束が丁寧に保管されていた。紙には歴史の教科書でしか見たことのないような、達筆な古文が記されている。

 ――それは、先生とお姫様の手紙だった。

 古文への造詣が深いとは決して言えない私だから、漢字が使われている方が先生の書いたもので、もう一方がお姫様のもの、と、何となくの予測を立てることしかできなかったけれど……それが二人の交流の、その記録であったことは間違いない。

 本人が認めたし。

 何となく申し訳ない気持ちになって、先生に事情を伝えた際には「あの人がいた証だから、大切に扱ってくれよ」と、手をひらひら振ってそれきりだったから、詳しくは知らないけれど……

 燻されているのだろうか、千年以上前のものにも拘らず、文字は殆ど掠れていなかった。乱暴にさえ扱わなければ千切れてしまうことも無さそうだったから、何とか古文辞典片手に解読を試みるも、結果は失敗。

 だから内容は知らない。それでも、二人の手紙が――お姫様の分は未だしも、送ったはずの先生の分まで、大切に保管されていたという事実が、あの日以来胸に刺さって離れない。

 かぐや姫は月へ帰る際、全てを地球へ置き去りにした。

 過去も、思い出も、感傷も。

 あの手紙は、そうして捨てられた一つで。

 ……まあ、つまり何が言いたいかというと。

「ヒュー! おい舞、おいおいおい舞! このろーらーすけーととかいう遊戯やべえな超楽しいんですけど!」

 こうして子供みたいにはしゃいでいる先生を見ると、とても安心する、という話。

 年齢を弁えて欲しいという気持ちも無くは無いけども。

「すげーなこんな楽しいことが世の中に眠っていたなんて……! 舞! スポッチャは良い文明だな!」

「えー……そうですかー……?」

 にこにこと囲い越しに話しかけてくる先生。対する私はへとへとでベンチに座り苦笑いだ。

 共通テスト本番まで既に秒読み段階。本来ならこうして遊ぶ余裕なんて一切無い……の、だけど、流石にこればっかりは付き合わなければなるまい。

 ……これで落ちたら悲惨だなあ。

 月間の勉強スケジュール自体はずらしていないので、大丈夫だと信じたいところだ。

「…………」

 楽しそうに周回する先生をぼう、と眺める。

 月見酒をしたあの晩以来、何かが吹っ切れたのか、先生はよく笑うようになった。人生をとことんまで楽しみ尽くしてやろう、という心積もりのようで、あらゆることへの挑戦を始めたのだ。

 洗い物や洗濯も割としてくれるようになった(助かる!)。

 しかし……こうして見ていると、本当に幼い。肉体年齢だけならば十分に若者といえるから、別におかしくは無いのだけれど。

 ――死は怖い。それは誰だって同じで、だからそれを恐れるあまり不老不死の薬を飲んだ先生を責める道理はない。けれど先生はそれを恥ずべきことと捉えていて、それはきっと先生が、思い出の品を道理に背いた用途に使ってしまったと思っているからだろう。

 いつか月へ迎えに来て欲しい。そんな想いが込められていたのだと、かつて先生は語った。

 ……本当にそうかな?

 案外、ただ自分の中で一番価値があると思うものをプレゼントしただけだったりして。

 或いは……歴史的には、先生こと文武天皇がかなり短命だったことを踏まえ、病弱な先生への特効薬として渡してくれていた可能性もある。その場合、死にたくないからと薬を飲んだ先生の行動は、お姫様にとって願い通りということになる。

 まあ、全ては妄想だ。突き詰めてしまえば人間関係なんてそんなもので、他人の心情を推し量ることと、自分の中に居る都合の良い誰かと会話することに違いなんて一つもない。世界とは視界であり、心の中ってやつは他人の言動に関わらず自分がどう思うかでのみ形成される。

 答え合わせの出来ない妄想。

 人と人は、分かり合えない。

 ……それでいい。

 どんな理由だったにせよ、あの薬がお姫様なりの善意であったことだけは、きっと本当なんだから。

「さて」

 ゆっくり立ち上がり、汗だくの先生を迎える。

「お疲れ様です。満足されましたか?」

「おう! つっても、まだ滑り足りないくらいだけどな」

「あはは……ま、続きは次の機会に」

 受験後にでも、ね。

「夕食までには……」壁の時計を見る。「まだ時間がありますね。何処か寄りたいところは?」

 何も無ければ帰ろうと思いつつ、先生に聞いてみる。

「えっとな、俺、本屋行きたいんだよね」

「本屋っすか」

「うん。ボケ防止の本が欲しくてさ」

「ああ、先週も買ってたやつですね」

「…………」

 帰宅が決定した。


 二月の末。

 ようやく受験を終えた私達は、観覧車に乗っていた。

「自己採点は大丈夫だった……大丈夫だったから……後はボーダーが例年通りなら……例年通りなら大丈夫なはず……大丈夫……」

「お前、今日だけで何回『大丈夫』って言ってんだよー」

 呆れた表情を向けられ、思わず「し、仕方ないでしょう……!」と食って掛かる。

「思ったよりギリギリだったんですからね!」

「目標点は叩いたんだろー? だったら後はどーんと構えようぜ。じゃないと、ほら。折角の遊園地が勿体ないだろー」

「む、むむ……」

 これ以上ない正論に口を噤む。

 どれほど杞憂に捕らわれたところで結果は変わらない。今日の行事は前々から受験後のご褒美として楽しみにしていたもので、だったら頭を空っぽにした方がいい、というか空っぽにするべきだ。

「ふう……」

 外の景色を眺める。観覧車が頂点へ到達するにはもう少し時間がかかる段階だが、それでも遊園地全体を一望するには十分な高さだ。そこには好きなものを詰め込んだ箱庭のような贅沢さがあり、何より視界に映る、豆粒のような人々に笑顔が浮かんでいることをありありと想像できることが、意味もなく嬉しかった。

 楽しいという空気感。

 それを堪能できることが、遊園地の最もいいところだと思う。

「よーやく遊園地らしい表情になったなー」

 知らぬ間に頬が緩んでいたのか、笑っていたことを指摘されて少し恥ずかしくなる。ぶんぶんと頭を振り、私は椅子に座り直した。

 飛んで回って跳ねて、他のたいへんアクティブなアクティビティに比べ、観覧車という乗り物はかなり落ち着いていることが特徴だ。室内には毒にも薬にもならない音楽が流れていて、耳鳴り止めくらいの役割しか果たしていない。

 最初に乗るものじゃなかったかな、と少し後悔する。

 遊園地に慣れていない二人だから、とりあえずメジャーなものから、ということで乗ったのだけれど。

「ときに娘よ」

「なんすか父さん」

「観覧車はやっぱ最高だな!」

「……っすね」

 うん。余計な杞憂だった。

 この人はそういう性格だ。

 やがて最高点に到達する。景色への感動を先んじて済ませてしまった私は、ここから落ちたら流石に怪我じゃ済まないよなあ、なんて下らないことを代わりに考える。よほど幸運でもない限り、死は免れまい。

「…………」

 死。

 こんなにも近くに潜んでいる。日常と、思考と、細胞に。

「結局、俺もお前も同じなんだよな」

 いつかに父が言っていた台詞が、脳内にこだまする。

「人はいつか死ぬ。それが数十年後の寿命によるものなのか、或いは明日、頭に隕石が落ちてぽっくりなのか……末路は色々だけど、『死』っつー結末自体は同じで、不老不死の俺ですら、それは避けられなかった」

 私はどちらかというと、集団での勉強の方が効率良く進められるタイプで、多少の雑音はむしろあった方がいいと考えている。だから自室よりもリビングで勉強する機会が多く、その日も父の雑談を自然音代わりにしながら、数学の問題に集中していた。

「どうせ死ぬなら生きる意味なんて無いんじゃないか、って考えたこと無いか? 自分のために生きようと、誰かを幸せにしようと、迎えるエンディングは不変。その癖人生はヤなことばっかりだし、その割には、死は怖い。堂々巡りで雁字搦め。どうすれば正しい生き方ってやつが出来るんだー、なんてな」

「……正しい生き方なんて……正しさなんて、この世界に存在しませんよ。あるとして、それは宗教と呼ばれるものです」

 訂正。

 私はあまり数学に集中していなかった。

 あとは演算するだけなのに、そこが面倒でさ……

「はは、違いない」私の呟きにからからと笑う。「うん。正しい生き方も、正しい死に方も無い……だから、自分の中で定義しなくちゃいけないんだよな……より良い生き方と、より良い死に方を」

 人生に意味は無いという結論は、多くの拗らせた中高生が思いつくほどありふれている割に、今でも打ち破られていない。様々な定説が現れては消え、現在では『全ての生き方が正しい』という、酷く便利かつ誤魔化しの効かせられた理論が主流となっている。

 いわゆる多様性ってやつ。

「俺はな、舞。大切な人を幸せにすることが、『より良い生き方』だと思うことに決めたんだ。大切な人――つまり、俺とお前だ。お前を幸せにするには、俺は良い父親にならなくちゃいけない。それが、大切な俺を幸せにする方法だ」

「へえ、ナルシストなんですね」

「おう、最近好きになったんだ」

「っすか……それで、『より良い死に方』は?」

「笑って死ぬこと」きっぱりと言う。「後悔を残そうと残すまいと、それだけは絶対だ。そのためなら、俺は何でもする」

「ふーん……」

 ……ああ、この積分、瞬間公式の典型まんまじゃん。

 悩んで損しちゃったな。

「……と、悪いな、勉強の邪魔しちゃってさ」

 そそくさと立ち上がる先生。

「……心配せずとも、あなたは割といい父親ですよ」

 自然とこぼれた言葉。けれどその一言に、先生は笑って……

 そんな回想。

 気が付けば、観覧車ももうすぐ終わりだった。

「次は何乗るー? あ、言っとくけどジェットコースターはNGだからな。怖いから」

「なるほど」にっこり手を叩く。「では次はジェットコースターで決まりですね」

「……話聞いてた?」

「聞いてましたが」

「……もしかして、絶叫する俺を嘲笑ってやろうとか、そんなことは考えてないよな?」

「もちろんそんなこと考えてないテラよー」

「語尾の単位がデカいじゃん!」

 楽しさいっぱいという表情から一転、情けない表情になる父。

「嫌だよ……俺乗りたくないよ……」

「は、ナマ言ってんじゃねーですよ。今日は私の日なんですから、とことん付き合ってもらいます」

「うう……酔い止め飲んどこう……」

 完全に体感の話でしか無いけれど、どうも観覧車という乗り物は上りよりも下りの方が早い気がする。気が付けば近付いていた地面に私は席を立ち、項垂れる父の手を取る。

 父……先生……文武軽。

 ずっと、どうして先生に拾われたのか疑問だった。

 先生が拾ってくれたこと自体ではなく……私の親としてあてがわれることとなった、その縁について。

 私の家族は、ひどく一般的な家庭だった。だから千年以上を一人で過ごしてきたはずの父とは何の縁も無いはずで、その矛盾を解消する理論が、あるとすれば。

「さ、行きましょう! 今日はまだまだ長いですよー!」

「全く……お前は笑顔が似合うなあ……」

 かくして悲恋はこのように。

 私はなよ竹舞。

 月の遺物にして、文武軽の娘だった。

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ある月 水科若葉 @mizushina

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