03 神々の怠惰

 私は空になったティーポットを軽く洗い、紅茶を作り始めた。


「紅茶ができるまでに少しだけ続きを話すわね」

「うん、お願いね」


 私はソファに腰掛ける。


---


 夢の世界の朝は、いつも大河のほとりにある建物から始まる。

 今日も私は新たな魂たちを迎え入れ、この世界のシステムについて説明を終えたところだった。


「ソラ様、お茶の時間です」


 アキラが差し出した紅茶には、夢の星で採れた珍しいベリーのジャムパンが添えられていた。


「ありがとう。でも今日は急いでいるの」


 私は紅茶を一気に飲み干し、ジャムパンを頬張った。

 クロードとの出会いから1月。彼の放つ邪気の濃度は、私の予想をはるかに超えていた。このままでは夢の世界の均衡が崩れかねない。


「他の神々に相談するおつもりですか?」


 アキラの問いに、私は小さくうなずいた。


「ええ。まずは風神のところへ行くわ」


 夢の世界の中心部には、巨大なビル群が立ち並んでいる。それぞれのビルの最上階には一柱の霊神が住んでおり、その階下には神候補者たちが暮らしている。

 私たちは風を司る神の住むビルへと向かった。


 エレベーターに乗り込むと、最上階のボタンを押す。ガラス張りのエレベーターからは、夢の世界の街並みが一望できた。

 通りを行き交う人々の中には、まだ現の世界への未練を持つ者も多い。その未練が邪気となって空気を重くしているのが、私には手に取るようにわかった。


「風神様、ソラ様がお見えになっています」


 アキラが声をかけると、豪華な応接室の奥から返事が返ってきた。


「ソラか。珍しいな」


 風神は優雅なソファに横たわったまま、私たちを見上げた。その姿は典型的な怠惰な神そのものだった。


「風神、重要な相談があるの」


 私はクロードのことを説明した。異常な邪気の濃度、人の世を終わらせようとする彼の決意、そして予想される危機について。


「ほう……確かに気になる話ではある」


 風神はゆっくりと身を起こした。


「だが、それが何だというのだ? 現の世界で起きることは、現の世界の者たちが解決すべきことだろう」

「でも、このままでは……」

「ソラ、お前は働きすぎだ。我々神々は、ただ存在していればいい。それが理なのだ」


 風神の言葉に、私は深いため息をついた。

 私とアキラは風神のビルを後にした。


「どうしてこうも怠惰なのかしら!!」

「ソラ様落ち着いてください。これを食べて落ち着いたら次行きましょう」


 アキラはクッキーの入った小袋を渡してきた。

 私はそれを受け取り、1枚頬張る。


「そうね。じゃあ、次はあっちよ!」


 次に訪れたのは、水を司る神のビルだった。豪華な噴水が立ち並ぶ庭園を通り抜けると、水神は池のほとりで優雅に茶を楽しんでいた。


「まあ、ソラ。お茶でもいかが?」


 結果は同じだった。水神も、現の世界の問題には関わりたくないと言う。


「人の世は、常に変化するもの。それを止めようとするのは、水の流れをき止めようとするようなもの。無駄なことよ」


 その後も私は、


「現の世界の話か! 面倒だ! 帰った帰った!」


 火神を訪れ、


「地震の活動が活発でな。これが面白くて、観察するために徹夜続きで疲れてるんだわ。また今度にしてくれ」


 地神を訪れ、


「……世の理だ。我は見守りに徹する」


 雷神まで訪ねた。

 しかし、どの神も同じような反応だった。神々に訪れるがたびに、私の心は重くなっていく。誰もが、人間界の問題に関わることを拒否する。面倒だから、疲れているから、理だから……。様々な言い訳を並べ立て、彼らは自分の殻に閉じこもっている。


 最後の望みとして私が訪れたのは、物を司る神・ツクモのビルだった。

 他の霊神たちとは違い、街はずれの古びたビル。他の神々の華やかな建物とは違い、質素な佇まいだ。

 ツクモはその中の実験室のような場所で過ごしていた。壁には様々な物体が整然と並べられ、中には私も見たことのないような不思議な形をしたものもある。


「ソラ、久しぶりだね。まあ、座りなよ」


 ツクモは実験台から顔を上げ、優しく微笑んだ。

 立ち上がると、彼女の全貌ぜんぼうが見えた。

 赤く長い髪が馬の尻尾のような形で束ねられており、黒地に赤い炎の模様が描かれた着物を着ている大柄で、色々と大きい女神だ。

 彼女は私にお茶を出した後、テーブルを挟んで向かいに座った。そして彼女は珍しく、私の話に真剣に耳を傾けてくれた。


「クロードの件は、既に聞いているよ」


 ツクモは静かに言った。


「他の神々のところも、回ったんだろう?」


 私は黙って頷く。


「みんな、取り合ってくれなかったわ。現の世界の人々が……いくら苦しんでいても」

「そうだろうね」


 そう言い、ツクモは深いため息をつく。


「オレたち神々は、長い間この世界に存在し過ぎた。存在し過ぎると、物事が見えなくなってくる」

「でも、あなたは違うでしょう?」


 私は必死の思いで訴えた。


「お願い、ツクモ。人や動物を傷つけられる道具を、この世界から消してほしいの。武器も、拷問道具も、全部……」


 ツクモは黙って私を見つめた。その目には、深い思索の色が浮かんでいる。


「できるさ」


 突然、ツクモが言った。


「えっ?」

「できる」


 ツクモは繰り返した。


「人を傷つける道具を、この世界から消し去ることはできる」


 私の心が躍る。


「本当? 本当にできるの?」

「ただし」


 ツクモ重々しく続けた。


「代償がある」

「代償?」

「そう。全ての凶器を消し去れば、オレ自身も消えることになる」


 私は息を呑んだ。


「なぜ?」

「全ての物には存在の理があり、それを変えることは、すなわち理の書き換えを意味する。そして、その代償として……オレ自身も消えることになるだろう」

「そんな……」

「だが、それ以外の方法もある」


 ツクモは立ち上がり、窓の外を見つめた。


「お前は創造神だ。上位の存在として、他の神々に審判を下す力を持っている」

「天罰……」

「そう。彼らを魂の状態にすることができる。そうすれば、その力を別の形で使うことも可能だろう」


 私は複雑な思いで彼の言葉を聞いていた。確かにその方法なら可能かもしれない。しかし、それは神々の秩序を根本から覆すことを意味する。


「考えておくわ」


 そう言って私が立ち上がろうとした時、ツクモが最後の言葉を残した。


「ソラ、時には大きな変革が必要なときもある。それが世界の理というものだ」


 その日の夕暮れ、私は再び大河のほとりにある建物の中にいた。夕陽に照らされた川面が、血のように赤く染まっている。


「ソラ様、夕食の準備ができました」


 アキラの声に振り返ると、今度は夕食のトレイを持っていた。しかし、私の胃は重かった。


「ねえ、アキラ」

「はい?」

「私たちの世界は、このままでいいのかしら」


 アキラは黙って私の横に立った。夕陽が沈み、夜空には夢の星々が輝き始めている。その光は、どこか物悲しく見えた。

 突然、遠くで大きな音が響いた。振り向くと、街の方向から黒い煙が立ち昇っているのが見えた。


「あれは……」


 アキラの声が震えている。私は即座に立ち上がった。


「行きましょう」


 私たちが街に向かって走り出した時、背後では相変わらず小舟が静かに川を渡っていた。新たな魂たちを乗せて。しかし、その光景が日常であり続けられる保証は、もはやどこにもなかった。

 世界は、大きな転換点を迎えようとしていた。


---


「神様ってそんなにたくさんいたんだね……」

「今はそんなにいないわよ。現人神を除いて、4柱ってところかしら……あれ? もっといたかしら?」


 夢羽は首を傾げ、思い出そうとしている。

 私はソファから立ち、出来上がった紅茶をティーカップに注ぐ。そして、それを夢羽の前に出した。


「ありがとう」


 夢羽はそれを受け取り、一口飲む。


「さて、次はクロード側の話ね」


 夢羽はティーカップをテーブルに置いた。

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