第3話 高峰葵の話

 高峰葵はスマホの画面に表示された名前を見て、一度深呼吸をする。

 お気に入りのソファの表面を撫でる。好きな触り心地に、少しだけ気持ちが落ち着いた。

 覚悟を決めて画面をタップし、耳に当てる。


『葵さんに決まりましたよ。とても良いアイデアでした。実際の展示でも、ワクワクできるようなものを期待しています』

「本当ですか?! ありがとうございます」


 聞こえてきた声は、この間、ジャダーイで打合せをした女性のものだ。

 待っていた答えに葵は思わず立ち上がった。

 スマホを耳に当てたまま、何度も頭を下げる。

 通話が終わっても信じられない思いで、画面を見つめていた。


「……やった! 久しぶりの大口っ」


 力が抜けたようにソファに腰掛ける。それから、スマホをソファに放り投げるようになりながら、ふわふわの背もたれに体を投げだした。

 足も伸ばして子供の様にバタバタさせる。

 ジャダーイの店頭ディスプレイの仕事は久しぶりの大きいものだった。

 これがダメだったら、しばらくはデザイナー以外の仕事もをたくさん熟さなければならない。

 だからこそ、取れたことが嬉しかった。

 喜びを爆発させた後、あの日、一番お世話になった花の顔が頭をよぎる。


「お礼、してないし……連絡しても、良いかしら?」


 机の上には、あの日からずっと花山花と書かれた名刺が置いてある。

 時折、祈るように眺めたりもした。

 会社名、所属、すべて普通のOLのものだった。

 だけれど、あの時の彼女は葵にとって神様みたいなものだった。

 名刺にそっと触れる。

 なんとなく柔らかい笑顔が浮かんできた。


「お礼しないのは、失礼だし……せっかく仕事も決まったし」


 不自然ではないはず。

 自分に言い聞かせるように頷いてから、葵はスマホを再び手に取った。

 名刺に載っている電話番号を押す。

 無機質なコール音が響く。

 時計を確認すれば、お昼休みの時間帯だ。今なら花も電話に出ることができるはず。

 1、2とコール音を数えながら、自分の心臓が早くなっている音を聞く。


『はい、もしもし』


 聞こえてきた声は、あの日からちっとも変っていなかった。

 柔らかい声も、優しさが伝わるような話し方も、そのまんま。


「あ、葵です。この間、神保町に送っていただいた……」

『あー、葵さん! あの時は大変でしたね。大丈夫でした?』

「はい、遅刻もしませんでしたし、仕事も決まりました。全部、花さんのおかげです」

『いや、大袈裟ですよ。私は遅れないように送り届けただけですから』


 きっと、電話口の向こうで、花は笑っているのだろう。

 大したことないと、あの時も言っていたくらいだから。

 だけど、このまま何もしないのでは、葵の気が済まないのだ。


「そんなことないです! あたしにとって、すごく、すっごく大きなことですから。ぜひ、お礼をさせてもらいたくて、電話しました」

『そんな、気にしないでください』

「いえ、ぜひ、きちんとお礼をさせてくださいっ」


 少しの沈黙。

 勢いで言いきってしまったが、会う時間を貰うのは、相手の都合が大きい。

 困ったような花のため息がかすかに聞こえてきて、葵はやっとはっとしたようにトーンを下げた。


「……すみません、ご迷惑でしたか?」


 どっくん、どっくんと心臓の音が大きく聞こえた。

 柄でもない。今まで電話でこんなことになったことはなかったのに。

 どうしたらいいのか分からず、固まっていた葵の耳に、小さな笑い声が聞こえてきた。


『いえ、いえ。じゃ、家に来てもらっていいですか? 外だと葵さんすごく準備してくれそうだから』

「わかりました」

『じゃ、住所教えますね』


 そのまま花の口にした住所を書き写す。

 電話を切って住所を眺めてから、家に行くという事実に愕然とした。

 しばらくじっと紙を見つめたが、当然ながら何も変化は起きなかった。



 *


 冷たい風が吹き始めたころ、葵は手土産を片手に、花から聞いた住所の場所に来ていた。

 事前に何度か調べたり、確認の電話をしたりした。場所は間違いないはず。

 二階建てのどこにでもありそうな住宅だった。

 だが今の葵にとっては、外国の大使館より緊張する場所だ。


「来ちゃった」


 いつまでも眺めているわけにもいかない。

 葵はインターホンの前に立つと、深呼吸してからボタンを押した。

 聞こえてきたのは花以外の声だった。


『はーい』

「今日、約束していた高峰葵です」

『あー……お姉ちゃんが言ってた。今、開けますね』


 花をお姉ちゃんと呼ぶということは、妹か。

 インターホンが切られて、数秒で玄関の扉が開く。

 するりと中から出てきたのは、花とは全く違う可愛らしい女の子だった。


「どうぞ。妹の華恋です。姉はまだ帰ってないんですが、中で待ってて欲しいとのことです」

「ありがとうございます」


 慣れているのか手短に挨拶をされ中に招かれた。

 靴をきちんと並べて玄関を上がり、華恋の後ろをついて歩く。

 とても普通の家だった。

 その中でも前を歩く華恋のスタイルは際立っていた。普通の家がテレビ撮影のように見えるありさまだ。

 リビングに通され、ソファに座る。

 準備しておいてくれていたのか、華恋がお茶を出してくれた。


「高峰さんは、姉となんで知り合ったんですか?」

「えっと、困っているところを助けてもらって」

「あー……また、そのパターンか」


 対面のソファにスライドして座った華恋が小さく呟く。

 可愛らしい少女だ。だけれど、可愛い少女が可愛いだけだとは限らないと、葵はよく知っている。

 今、目の前で葵を見つめる華恋の瞳は、遠慮なく葵を探ってきていた。

 にっこりと極上の笑顔を作った華恋が、顎の下に手を置き肘をつきながら言い放つ。


「お姉ちゃんって、女の人が困ってると誰でも助けちゃうんですよ」

「そうなんですね。確かに知り合いも多そうでしたし」

「ほんと、妹としては困るんですよね」


 少しだけ眉を下げた華恋が、指折り数えながら、今まで花が助けた人たちを告げていく。


「セレブ女社長に、怖い組長さんの美人な娘さん……駆け出しのモデルに、会社でも頼られているみたいだし」


 確かにこの間、迎えに来た黒塗りの車も外国産の高級車だった。今の葵では絶対に買えない。

 だけど、不思議と引く気にはなれない。

 小さく息を吸い、まっすぐ華恋を見返す。


「そう、なんですか。凄いですね」

「でも、お姉ちゃんは誰も好きにならない。だから、お姉ちゃんを狙うのは止めた方がいいですよ?」


 視線がぶつかった。

 どうやら華恋は相当なシスコンのようだ。

 花は誰にも好きにならない。そんなの、やってみないと分からないだろう。

 葵の中で、反発心のようなものが、むくむくと育ち始める。

 詳しく華恋に問いかけようとしたとき、玄関から花の声が響いてきた。


「ただいまー」

「あ、お姉ちゃん、帰ってきましたね。……これ、妹からのアドバイスですよ。ほんと、ひっかけてくる割に、恋人には誰もなれてないですから」


 ころりと態度を変えた華恋が席を立つ。

 その横顔には先ほどまではない柔らかさがあった。

 迎えに行った華恋と、花のじゃれあいを聞きながら、葵は自分の手のひらを見つめる。


「……そんなことで、諦められたら、苦労しないわ」


 好きはコントロールできない。

 葵は華恋から言われたことを含めて、花に何と言って次の約束を取り付けるか考え始めていた。

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百合世界の中心花山さん 藤之恵 @teiritu

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