第9話 239円の昼休み

 物価高が叫ばれる近年においては、ワンコインで牛丼並盛も食べられない。


「ぐうううっ……財布がすっからかんなこと、忘れてたぜ……」


 昼餉ひるげ時を迎えた学園では、キンコンカンコンと大きな腹の虫を報せる音色が鳴り響いている。このチャイムは男子生徒における『好きなだけ食え』の合図でもあり、いま購買にはむつくけき男子生徒たちで溢れ返っている。


 王道の焼きそばパンにカツサンド、小腹を満たすアンパンにメロンパン、得てして女子たちの野望を叶える豆乳のパックジュースや口内炎撃退のオレンジジュースまで完備されている。


 ともあれ斯波は、全財産239円で購えるだけの栄養源を確保していく。

 欲を言えば食堂でお昼を取りたかったのだが、たった239円では学食のおばちゃんに『おとついきやがれ』と門前払いを受けてしまう。


 パン耳ラスクと、たまごサンド。

 悲しくも若き教員の昼飯は、質朴を超えて貧相なラインナップに留まった。


「あっ、斯波お兄さ……火結先生!」


 ラスクを齧りながら学園内を彷徨していると、斯波は見知った後輩に呼び止められる。


「おーっ、七五三掛しめかけか。お前とも、久しぶりだな」

 真っ白な頭髪を持った占羅うららと共に、二人の少女も斯波の前へと並び立った。


「占羅氏よ。先生との会見は、事前に予めお取り計らいをするべし、との心得がよろしいかと存じる」

「ふわぁ~……眠たいよう、占羅……」


 いずれの少女も初対面だが、クラス名簿と顔写真を叩き込まれた斯波には、二人の素性もしかと掴めている。


 先に口を開いた少女が、武蔵坊越嘉むさしぼうえつか。夜空を思わせる色艶のある黒髪ボブに、揺るがぬ闘志を窺わせる赤き瞳、高校一年生にして177cmの高背を誇る彼女は、あの【武蔵坊弁慶むさしぼうべんけい】の子孫である。右腰には絵巻を携え、左腰には刀を佩いている。16歳にして堂に入った佇まいは、一目置くべきところがある。


 そして眦を擦っている少女は、小馬藍夢こまのあいむ紫紺しこんの長髪は足首まで伸びて、ヴァイオレットの双眸はウトウトと閉じかけている。顔が小さく、背丈も低い。結友香と同じくらいしかない彼女も、その顔容からは窺えぬ名家の一派で、血脈は、日本中の誰もが知るあの《清少納言》に繋がりがある。――清家せいけ直接の血筋、小馬家こまのけだ。


 奇妙にも彼女の絵巻は長髪にクルクルと巻き付けられており、あたかも装飾品の一つのようになっている。


「武蔵坊と小馬、お前たちも【全景納絵団ぜんけいのうえだん】なのか?」

「あれ? 火結先生には、説明してませんでしたっけ?」

「どっちも、全くの初対面だな」

「あわわっ、すみません……つい紹介が、遅れてしまい……」

「気にすんなって。占羅の友達なら、俺の友達みてえなもんだ」


 通常、天妙学園の生徒は、入学時に販促される《天妙学園学生服Aセット》か、《天妙学園学生服Bセット》を着用する。


 Aセットが、結友香や占羅が着ているシャツにブレザー、スカートといったオーソドックスな学生服だ。男女別に購入完了で、学園の徽章や絵巻留め具などの小物も付いてくる。


 Bセットは、越嘉の着用している和風モダンな学生服だ。ブレザーはウエストを絞ったタイトなデザインで、下衣はフレアスカート。襟元や袖口、スカートの裾には絵巻模様が配され、和と洋の華やかさが演出されている。リボンや帯にも絵巻のモチーフが施され、統一感を持たせている。和装に慣れていない生徒でも着やすい一品に仕上げられている。


 服装は違う彼女たちだが、三人には共通した特徴がある。

 それが、胸元につけた学園の徽章だ。

 天妙学園の生徒は、その身元を示すために徽章の着用が義務付けられている。

 そして学園の徽章は、上から垂れるように描かれた《下がり葵》だ。

 だが、占羅たちの徽章は一般生徒とは異なる《下がり三つ葉葵》。

 東と西からも葵の葉が顔を覗かせており、その三つ葉葵はかつての《徳川紋》を彷彿とさせる。栄華の中にある天妙学園の守護を意味する【全景納絵団】には、相応しい紋様だ。


「御対面に預かり候、火結神無氏。一年三組、武蔵坊越嘉と申す。取るに足らぬ武蔵坊家の者にて候が、納絵団に所属いたしておる次第。今後ともよろしくお願い申し上げ候」

「……???」


 由緒正しき武士としての言葉遣いなのだが、斯波は異国の言語の様に聞き取った。

 イントネーションには跳ねた訛りもあって、現代日本語に馴染みのある斯波には、何と言っていたのか、名詞以外は吹き飛んでしまった。


「越嘉、どうか口調を崩してくれないか。俺、学生の頃も古文は赤点だったんだよ」

「では、このように。如何なる場合も、その通りに致しまする」

 斯波は顔を引き攣らせながらも、差し出された越嘉の手を取った。


「んんっ……んにゅぅ……」

 そして彼女の隣では、立ったまま洟提灯はなちょうちんを作って寝ている器用な少女が。


「こら、藍夢ちゃん。先生の前だよ」

 占羅に身体を揺さぶられて、藍夢はようやくの眠りから覚めた。

「ふああ……おあよう、占羅。お昼は、終わった?」

「まだだよ、藍夢ちゃん。ほら、先生に挨拶しないと」

「えっと……だれ?」

「ああ、俺は2組の担任をしている、火結神無――」

「ううん、ちがう。たしか、わたしの名前って……」

「小馬藍夢でしょ! ……すみません、先生。藍夢は寝ぼけてる時が、特にひどくって」


 紫色の寝ぼけまなこを擦っている藍夢は、またすぐにうつらうつらしている。

 この度が過ぎたお寝坊気質は、決して彼女が怠惰ということではなく――いや、怠惰である可能性も捨てきれないが、【小馬家】の特性と見るのが妥当だろう。


 かつて清少納言が絵巻に書き記した【夢見ゆめみ】によるところ、人は《睡眠欲》ではなく、《夢への欲求》が本能的に刻まれているのだという。その【夢見】を受け継ぐ【小馬家】の長女は、いつ如何なる場合でも眠ってしまいたくなるのだ。


「【全景納絵団】とは、要するに都市の《風紀委員》だな。幻都最高峰の学園だからこそ、都市の守護も仰せつかっている。所属は、三番隊……ちょうどこの中央区につとめているのか。高校一年生だと、そろそろ《見習い》も卒業だな」


 占羅は「はいっ!」と、自信を誇示するかのように《団員手帳》を持ち構えてみせて、


「中等部の頃は資料整理とか、捕縛用具や、警備用具の整備ばかりでしたから! 雑用係を乗り越えて、ようやく、幻都の守護者らしい・・・・・・ことが果たせます!」


 ピクッと眉根で反応し、好ましからざる一瞥を向けたのは越嘉。


「らしいとは言わぬ、守護者としての責務を果たすべし。夷狄いてきが、いつどこに現れんとも知れぬ。万事、気を緩めず、我ら守護の直中ただなかかん」

「わ、分かってるよ! でもほら、いままではずっと、雑用係だったし……」

「然るに、是れ我ら団員の差配なり。門番に給仕、畑仕事、物見や馬丁の務めに従いて、草鞋を温めんこともあろう。如何なる命であれ、我らは身命を賭して臨まねばならぬぞ」


 越嘉に見咎められて、占羅は「たはは」と毒気を抜かれた笑いをこぼす。

 おっとりとした気風の占羅とは正反対に、越嘉は廉直な性分だ。たとえ相手が親友でも、教師でも、阿諛追従あゆついしょうに走ることなく真摯に向き合う彼女は、なるほど武蔵坊の長女たるだ。


「あっ、藍夢ちゃんは、どう思う!? ほら、現場に出られて、嬉しいとか!」

「んにゅっ……んううゆ……」


 耐え兼ねて藍夢に逃げた占羅だったが、悲しくも藍夢の意識は夢の彼方だ。


「占羅氏よ、承知の通りか? この場、この時に賊が襲来すれば、我らは死を賭して臨まねばならん。苛烈なる戦の中においても、たゆまぬ心を持ち、刀を取ることこそが武士の役目ぞ。我らは誉れに心酔するのではなく、義勇のために刃を交え――」


 更なる武士の追い打ちが続き、「ひいいいいぃっ!」と阿鼻叫喚する占羅。

 藍夢の背中に隠れてみせるも、越嘉は斟酌なく武士としての説示を重ね浴びせる。

 そのカオスの中にあっても、どちらの側に付くこともなく、我関せずと眠りこける藍夢。

 一見するとちぐはぐなトリオではあるが、斯波には彼女たちの絆が如実に見て取れた。


「さあて、俺もそろそろ行くとするか……」

「あっ、火結先生!? ど、どちらに行かれるのですか!?」


 占羅も斯波についていこうとしたが、「占羅氏。公務は如何に御座候ぞ」、越嘉に襟元を掴まれて断念した。


「いんや、もうじき《雷》が降ってきそうでな」

「雷? 空模様は、真っ青ですが……」

「ああ、俺の顔色も真っ青だよ。そんじゃあ、また後でな」


 斯波が視線を上げた先、そこには校舎の屋上から、刺すような視線を浴びせてきている結友香の姿が。恨めし気にアンパンを口に加えているが、その頬に浮かんだピキピキまでは隠しきれていない。


 自分以外の女の子と話していることへの嫉妬だ……どうやら、斯波のあずかり知らないところで、新たな雷神さまが誕生していたらしい。


「姫、どうして怒っているんでしょうか……」

 斯波が屋上に送った独り言にも、結友香はただ睨むだけだった。

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