プロローグ2 改変された記憶と運命ver1.4

<γ世界線-IF視点:2023年9月1日 上野公園>


瞼が重い。ゆっくりと目を開けると、木漏れ日が頬を撫でていた。暖かい午後の光。ベンチに座っている自分に気づく。腕時計を確認——2023年9月1日、14時32分。


「今日は……俺の命日」


声が掠れた。前世で、俺は今日死んだ。朝のラッシュアワー、人波に押されてホームから落ちそうになった少女を助けて。そして今、同じ日付に目覚めている。これは偶然じゃない。きっと何かの意味がある。


シャツの袖を見下ろす。綺麗な白。煤も血も、何もついてない。でも鼻の奥には、かすかに硝煙の匂いが残ってる気がする。2024年のクリミア上空での戦闘。あれは夢だったのか? いや、違う。あまりにもリアルすぎる。


***


「義之君?」


振り返ると、美樹さんが立っていた。一条院美樹。陽光が彼女の髪を金色に染めている。笑顔だが、眉が少し寄っている。心配してる顔。


この世界線では初等科からの知り合いで、16歳から婚約している俺の許嫁。でもβ世界線では高等部で初めて出会った。二つの記憶が頭の中で混在している。


「どうしたの? 顔色悪いよ」


彼女が近づいてくる。ジャスミンの香水の匂いがふわりと漂う。


「美樹さん……今日は何日だ?」


「9月1日だけど」


「9月1日……」


頭の中で何かが軋んだ。そして突然——


『助けて!』


あの戦場で聞いた声が響く。少女の叫び。脳髄に直接響いてくる。


「ねえ、本当に大丈夫?」


美樹さんの手が俺の肩に触れる。温かい体温が現実に引き戻してくれる。


「……ああ、大丈夫だ」


でも本当は違う。俺の中で二つの記憶が激しくせめぎ合っている。β世界線の2024年、クリミアで死んだ記憶。この世界線の2023年、生きている現実。そして前世の2023年9月1日、少女を助けて死んだ最初の死。


***


「軍の方から連絡よ」


美樹さんがスマホを取り出して画面を見せる。


『第6世代航空機「旭光」正式採用決定』


「旭光……」


画面に映る機体は流線型の美しいフォルム。データリンクのラインが青白く輝いている。まるで未来からのメッセージのようだ。


旭光——「大鷲」から進化した機体。UCAVとの共同戦闘を前提とした設計。β世界線では未完成だったUCAVが、この世界線では完成している。


「義之君が設計に関わった機体でしょ? すごいよね」


「本当に頑張ってたもの。徹夜何日続けたっけ?」


「……覚えてない」


「嘘。ちゃんと数えてたくせに」


彼女が微笑む。そうだ、この世界線では俺自身が完成させた。図面を引き、計算式を書き、シミュレーションを繰り返した記憶が蘇る。美樹さんが差し入れを持ってきてくれた夜のことも。


でも、まだ何かが足りない。2024年のクリミアで起こる悲劇を防ぐには——


***


「義之君、本当に変だよ」


美樹さんが俺の額に手を当てる。冷たい手が気持ちいい。


「熱はないみたいだけど」


「美樹さん、君は前に助けられた記憶があるか?」


突然の質問に、美樹さんの顔から血の気が引いた。


「どうして、それを……」


「駅のホームで、誰かに」


「夢だと思ってた。すごく怖い夢。線路に落ちそうになって——」


「それは夢じゃない」


俺は立ち上がる。少しふらついたが、なんとか立った。


「君を助けたのは、俺だ」


「義之君が?」


美樹さんが顔を上げる。瞳が大きく見開かれている。


「でも、それって——」


「前世で。そして俺は死んだ」


言葉が堰を切ったように溢れる。


「今日、9月1日。俺はまた戻る」


「戻るって、何?」


「前世に戻って、やり直すんだ」


美樹さんが俺の腕を掴む。強く。


「意味が分からない」


「このままじゃ、2024年に悲劇が起きる。クリミアで戦争が。仲間が死ぬ」


俺は理解している。この世界線も完璧じゃない。どこか歪んでいる。だから俺は、もう一度戻らなければならない。前世の2023年9月1日へ。


美樹さんを残していくのは辛い。でも、これが唯一の方法だ。


***


「前世に戻るなんて、できるわけない」


美樹さんの声が震えている。


「できる。いや、やらなければならない」


「なぜ?」


「君を守るためだ。もっと完璧な世界線を創るために」


彼女の頬に手を当てる。涙で濡れている。


「でも『旭光』があるんでしょ?」


「足りない。もっと早く、もっと完璧に準備しなければ」


「私を置いていかないで!」


美樹さんが叫ぶ。鳥が飛び立つ音がした。


「置いていくんじゃない。君を守るためだ」


彼女を抱きしめる。細い体が震えている。


「過去を変える。最初からやり直す」


「でも、それじゃ私たちの8年間は?」


「初等科で出会って、図書館で一緒に勉強して」


「文化祭でシンデレラをやって」


「君が主役で、俺が王子様」


「セリフ噛んでた」


「そんなことない」


二人で思い出を辿る。大切な記憶を。


「……全部、新しく作り直す」


「もっと幸せな形で」


美樹さんが黙る。彼女も感じているはずだ。この世界の違和感を。


***


公園のベンチに座り直す。美樹さんが隣に座る。ぴったりとくっついて。


「本当に、行くの?」


小さな声だった。


「行かなければならない」


風が吹く。桜の葉が舞い散る。もう秋なのに。遠くで子供たちの笑い声がする。平和な光景。でもこの平和は、薄氷の上に成り立っている。


「ねえ」


「何?」


「向こうの世界でも、私と会って」


美樹さんが俺の手を握る。温かい。


「必ず」


「約束?」


「約束する」


「指切りして」


小指を絡める。子供みたいだけど、大事な儀式。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」


二人で唱える。


「絶対よ」


「ああ、絶対だ」


美樹さんが抱きついてくる。強く。


「愛してる」


「俺も愛してる」


「どのくらい?」


「世界線を超えるくらい」


「もっと」


「時空を超えるくらい」


「それでいい」


***


目を閉じる。意識を集中させる。方法は分からない。でも、やるしかない。


前世の記憶を辿る。普通の会社員だった頃。そして——2023年9月1日、午前8時15分。山手線、新宿駅。朝のラッシュアワーで殺人的な混雑の中、女子中学生が人波に押されて線路に落ちそうになる、あの瞬間へ。


俺の精神を送る。念じる。強く。全身に力を込める。


美樹さんの手が、俺の手を握る。『行かないで』——でも、もう止まれない。


体の中で何かが動き始めた。熱い何かが湧き上がってくる。意識が薄れていく。美樹さんの顔が遠くなる。


最後に聞こえたのは、彼女の声。


「必ず、見つけて」


約束する。心の中で。必ず見つける。必ず会う。何度転生しても。


そして俺は——過去へ向かう。前世へ。あの運命の瞬間へ。


***


目を開ける。色が爆発する。音が炸裂する。人の声、電車のブレーキ音、アナウンス。


「まもなく3番線に、内回り、山手線が参ります」


ホーム。2023年9月1日、午前8時14分。あと1分。朝のラッシュアワーのピーク。通勤・通学客でホームは限界まで人が詰め込まれている。身動きが取れないほどの混雑。


10メートル先。制服姿の少女。紺色のセーラー服。これから後ろからの圧力で押し出されて、バランスを崩して——


30秒。


走る。ラッシュの人混みを押しのける。


「すみません! 通してください!」


ぎゅうぎゅう詰めの人の壁。時間がない。


20秒。


少女がホーム端に立っている。後ろから次々と人が押し寄せる。押される。体が前に出る。黄色い線を越える。


10秒。


電車が来る。ヘッドライトが光る。警笛が鳴る。


5秒。


少女が人波の圧力でバランスを崩す。押し出される——


3秒。


俺は飛ぶ。手を伸ばす。


2秒。


届け——!


1秒。


掴んだ! セーラー服の襟を掴んだ! 引く!


0。


今度こそ、完璧に助ける。そして、完璧な世界線を創る。君と共に生きる、本当の未来を。誰も死なない、幸せな世界を。


美樹さん、必ず君を守る。何度でも。永遠に。


運命の歯車が、新たに回り始める。希望と共に。君を救うまで、世界を救うまで、俺は諦めない。


それが俺の使命だから。そして、俺たちの約束だから。


【第1話:転生が紡ぐ新たな歴史】


<α世界線:現代日本>


 耳の奥で電車のブレーキ音が響く。山手線がホームに滑り込んでくる。朝のラッシュアワー、人混みが押し寄せる。誰かの肩が背中にぶつかる。ドミノみたいに人の波が連鎖していく。その先端で——女子中学生がよろめいた。

 紺色の制服がふらりと揺れる。彼女の体が前に傾く。黄色い線を越えて、線路に向かって——

 彼女の瞳が俺を捉えた。振り返った瞬間、目が合った。怯えた瞳。『助けて』——声にならない叫びが読み取れる。

 躊躇う暇はなかった。体が勝手に動いた。俺は飛んだ。

 手を伸ばす。少女の腕に指先が触れる。セーラー服の袖を掴む。細い腕だ。引っ張る。思い切り後ろへ。彼女の体が後方へ戻る。黄色い線の内側へ。

 でも、その反動で俺の体が前のめりになる。バランスを失う。ホームの端を越えて——

 電車の前面が体にぶつかった。激痛。視界が黒く染まっていく。音が遠くなる。

 2023年9月1日、午前8時15分。俺はただのAI技術者だった。28歳。独身。平和を創る夢を追っていた。それが——途切れた。


***


 闇の中で意識が漂う。体がない。重さがない。ただ存在している。思考している。

 空間が歪む。そこから何かが滲み出てくる。半透明の存在。人の形をしているけど、人じゃない。


「<管理者>……」


 なぜか、そう分かった。この存在が世界線を管理する者だと。


「君の決断が未来を揺らし、歴史を分岐させた」


 声が意識に直接響く。


「君の選択が未来を創るのだ」


「何を言ってる?」


「君の前世は終わりだが、終わりは新たな始まりだ」


 光の粒子が集まり始める。映像が浮かび上がる。

 AIドローンが飛んでいる。災害現場で瓦礫の下をスキャンし、生命反応を検知して救助隊に情報を送る。素早く、的確に。これは——俺のコードに似ているが、もっと進化している。美しいくらいに効率的だ。


「彼女は君の構想を受け継ぎ、AIを三世代進化させた」


「彼女?」


 あの中学生か。俺が助けた少女が? 胸が温かくなる。誇らしい気持ちが湧いてくる。


「だが、その歴史は未完だ。1度目は未完成なAIが墜ち、平和は遠のいた」


「失敗?」


「今度は間に合わせ、特異点として未来を創れ」


「もう一度?」


 また転生する? 恐怖と希望が混ざる。でも——


「もう一度、挑戦したい。今度は間に合わせる」


 管理者の瞳が輝いた。光が俺を包む。


「君の願いを受け入れよう。但し、β世界線での記憶は残らない」


「β世界線?」


「やり直すのは、γ世界線だ」


 意識が引き裂かれる。そして——


***


<γ世界線:2005年>


 光が消えて、何かにぶつかった。柔らかい。ベッドだ。

 目を開ける。天井が見える。白い天井に木目の梁。古いが手入れの行き届いた建物。電子音が規則的に鳴っている。

 体を起こそうとする。でも変だ。視点が低い。手を見る——小さい。子供の手だ。6歳? 7歳?

 窓の外を見る。ネオンの光。「アキバ」の文字。秋葉原だ。2005年の秋葉原。まだ萌え文化真っ盛りの頃。懐かしい——いや、俺にとっては初めて見る光景のはずなのに。

 前世の記憶が流れ込んでくる。28年間の記憶。プログラミング、AI研究。そして最後の瞬間。同時に、この身体の記憶も湧いてくる。6年間の記憶。上杉義之。華族の子息。子爵家。財閥の御曹司。

 二つの記憶が頭の中で混ざる。痛い。頭が割れそうだ。

 枕元の懐中時計に手を伸ばす。触れた瞬間、壁が光った。ホログラムが投影される。まるでSF映画みたいだ。この技術、2005年じゃありえない。


「すげぇ……」


 子供の声が出る。高い、幼い声。

 ドアを叩く音がする。


「坊ちゃま! 大丈夫ですか! また夢で叫んでましたよ!」


 女の子の声。ドアが開いて、メイド服の少女が飛び込んでくる。栗色の髪、青い瞳。15歳くらい?

 瞳には、幼いながらも強い意志の光があった。


「詩織……」


 名前が自然に出る。この身体の記憶。幼馴染のメイド。


「未来見てただけだよ」


 冗談めかして言う。でも6歳の舌足らずな声。

 詩織の顔色が変わる。


「大変です! 坊ちゃまの顔が真っ青です! すぐに先生を呼んできます!」


 駆け出していく。

 一人になる。また頭が痛む。設計図が脳裏に浮かぶ。AI、ニューラルネット(人間の脳神経回路を模した人工知能の基本構造)、深層学習。前世の知識が6歳の脳に流れ込む。


「うっ……」


 頭を抱える。思考が裂けそうだ。

 詩織が老医師を連れて戻ってくる。白髪、丸い眼鏡、優しそうな顔。


「坊ちゃま、ご気分はいかがですか?」


 額に手を当てられる。脈を取られる。


「脈拍は正常。発熱もなし。異常はありませんが、休息が必要ですな」


「お茶をお持ちします!」


 詩織が提案する。


「いい。一人にさせてくれ」


 二人が心配そうに出ていく。

 鏡の前に立つ。黒髪の少年。整った顔立ち。6歳とは思えない深い瞳。6歳の身体に28歳の精神。この違和感——でも、きっと慣れる。

 部屋には曽祖父の50代頃の肖像画が飾ってある。

 机の引き出しを開けると中にディスクがある。手に取った瞬間、パネルが自動で起動した。


「義之、私は転生者だ。秋葉原を電子と文化の聖地に変えた男、上杉義弘だ」


 曽祖父の声が響く。映像には回想録が流れる。昭和初期の日本、大慶油田の発掘、トランジスタ革命。彼の手が歴史を動かした記録。


「俺は前世で一流のシステムエンジニアだった。転生者として、この世界を変えた」


 俺と同じだ。胸が熱くなる。


「だが、AIだけは未開の領域として残した。義之、AIはお前に託す。俺が築いた基盤で、お前が未来を切り開け」


 映像が終わる。

 息を呑んだ。これは運命だ。

 上杉家の子爵家長男として生まれた俺は、彼の遺産を受け継ぐ者。前世の夢が、ここで再び命を得た。

 管理者の声が頭の中で響く——「特異点として未来を創れ」

 脳裏に一瞬何かがよぎった。公園のベンチ、温かな手、誰かの笑顔。でも顔はぼやけている。β世界線での記憶は残らない。それでいい。過去に囚われるより、未来を見るべきだ。

 あのホームで死んだ俺が、曽祖父の夢と共に新たな歴史を紡ぐ。俺は小さな拳を握る。この世界でやらなければいけないことがある。それが前世での選択を意味あるものにしてくれる。

 一瞬、顔のぼやけた何人かと会話する俺を幻視する。記憶にない人たちと再会するのではないか? 今度は間に合わせる。あの少女を救った選択が、俺をここに導いたのだから。

 窓の外、秋葉原の灯りが瞬いている。電子の聖地。ここが俺の新しい戦場だ。17年後、俺はあの公園で誰かと出会うのだろうか。

 そして頭の片隅に過ったのは、洗練された機体とUCAVだった。俺はこの機体に関わる。なぜか確信があった。未来への期待で胸が震える。

 新しい人生が、今始まる。希望と共に。


【第2話 秋葉原の奇跡を築いた曽祖父】


 学習院初等科の正門を通り抜ける。石畳の上を早足で歩く。なぜか急いでいる。胸の奥で何かがざわめく。家に何かがある——そんな予感がする。

 足が勝手に速度を上げる。小走りになり、駆け足になる。6歳の体には負担が大きい。でも止まらない。何かに急かされるように走り続ける。

 玄関のドアを開け、鞄を床に投げ捨てる。階段を駆け上がり、廊下を走る。部屋のドアを勢いよく開けて、ベッドに倒れ込んだ。


「はぁ、はぁ……」


 息が切れている。でもこれは疲れじゃない。胸の奥で何かが弾けそうになっている。期待? 興奮? それとも——運命を感じているのかもしれない。

 壁を見上げる。曽祖父の肖像画が目に入る。重厚な金の額縁の中から、鋭い瞳がこちらを見下ろしている。未来を見通すような、全てを知っているような眼差し。

 上杉義弘——「秋葉原の奇跡を築いた男」。その血が、俺の血管を流れている。


***


 体を起こし、ベッドサイドに視線を移す。ガラスケースが埃を被って鈍く光っている。

 蓋を持ち上げる。中には「Blu-ray」と刻印されたディスクが静かに眠っている。転生直後に見つけた遺物。今まで一度も再生していない。

 なぜだろう。手を伸ばそうとするたびに、何かが胸を締め付けて指が止まっていた。真実を知るのが怖かったのかもしれない。

 ディスクを手に取る。その瞬間——ビリッと何かが走った。まるで生きているように、トクン、トクンと脈打っている。

 部屋の壁が変化し始める。青白い光が滲み出て、パネルが浮かび上がる。今まで見えなかった30インチの液晶画面。

 ディスクを差込口に近づける。吸い込まれるように滑り込んだ。画面が明るくなる。そして——


「義之、私は転生者だ」


 低く威厳に満ちた声が部屋に響く。画面に若き日の曽祖父が現れる。30代くらいか。黒いスーツ、整えられた黒髪、そしてあの肖像画と同じ鋭い眼光。


「秋葉原を電子と文化の聖地に変えた男、上杉義弘だ」


「曽祖父様……まさか、本当に転生者だったなんて」


 体が前のめりになる。画面に顔を近づけて、息を呑む。


 画面が切り替わる。セピア色の映像。昭和の街並みが流れ始める。


「昭和元年、私は上杉伯爵家の末子として生まれた。前世ではシステムエンジニアだった」


「俺と同じだ……」


 心臓が跳ねる。同じ道を歩いた人がいた。


「電子技術の知識を、この時代に持ち込んだ」


 映像が切り替わる。1942年、満州。見渡す限りの荒野に井戸櫓が立っている。そして突然——黒い液体が天高く噴き上がった!


「うわっ!」


 思わず声が出る。まるで映画のワンシーンだ。でも、これは曽祖父が実際に成し遂げた偉業。


「大慶油田(満州の油田)……この油田の権益で得た資金を元に、電子革命を起こした」


***


 場面が変わる。イギリスの古い屋敷。暖炉の前で二人の男が向き合っている。


「アラン・チューリング!? あの、コンピュータの父が!」


 腰が跳ね上がる。驚きのあまり。

 画面の中で、曽祖父が回路図を広げている。ペンを手に取り、新たな線を描き加えていく。


「真空管の限界を超える。これがトランジスタだ(真空管に代わる半導体素子)」


 チューリングの体が前に傾く。


「信じられない……これは革命だ」


「その通りだ、アラン。これで計算機は手のひらサイズになる」


「手のひら!? そんな馬鹿な」


「いや、可能だ。必ず実現する」


 胸の奥で温かいものが広がる。これが歴史の転換点。教科書には載っていない、本当の真実。


***


 映像が日本に戻る。秋葉原。昭和の半ば頃。まだ「電気街」の看板が色褪せている時代。狭い路地に小さなラジオ店がひしめき合う。

 路地の奥から曽祖父が現れる。黒いコートを翻し、若い部下たちを引き連れて。


「ここを変える。電子の街から、文化の街へ」


「文化ですか?」


「そうだ。技術と娯楽の融合だ」


 映像が早送りになる。建物が変わり、ビルが立ち上がり、ネオンサインが一つずつ灯っていく。ラジオ館の看板が掲げられ、電気センターの文字が輝く。そして——


「まさか……メイド喫茶まで!?」


 フリフリのエプロンドレス。「お帰りなさいませ、ご主人様!」という看板。


「曽祖父様、オタクだったのか!」


 画面に顔を押し付ける。目を見開いて、瞬きも忘れて見つめる。

 次々と店が開いていく。アニメグッズ店、ゲームセンター、同人誌即売会のポスター。全部、曽祖父の手が入っている。


「これが、今の秋葉原の原型……」


 血が騒ぐ。これは血筋か? DNAに刻まれた何かか?

 心のどこかで、祖父に見られている気がした。

 秋葉原の夜景が映し出される。無数のネオンが瞬き、街全体が光の海と化している。瞬きができない。一瞬たりとも見逃したくない。


***


 映像が最後の場面に移る。曽祖父が再び画面に現れる。今度は晩年の姿だ。白髪が混じり、額に深い皺が刻まれている。でも瞳だけは変わらない。


「義之」


 名前を呼ばれて背筋が伸びる。


「お前がこれを見ているということは、転生者として覚醒したということだ」


「どうして分かるんですか?」


 画面に向かって問いかける。もちろん答えは返ってこない。でも——


「お前がAI技術者として生きることも知っている」


 呼吸が止まる。


「なぜ——」


「私はハードウェアと基盤を整えた。秋葉原という土壌を作った。量子コンピュータの基礎も築いた。だが、AIは手つかずだ」


 心臓が大きく跳ねる。


「それは、お前が切り拓くブルーオーシャンだ」


「俺が……」


「上杉家の歴史は、お前が書き加える。技術と文化の融合。その先にある未来。それを実現するのは、お前だ」


 プツン。映像が途切れる。静寂が部屋を包み込む。心臓がまだ暴れている。

 ペンを探す。6歳の手には太すぎるペンを、両手で包み込むように持つ。


「秋葉原をここまでの街にして……さらに未来への道まで用意するなんて」


 すごい。すごすぎる。でも——

 引き出しから紙を取り出す。机の上に置く。


「遺産を背負うなら、そこに甘えるわけにはいかない」


 ペン先を紙に押し当てる。ニューラルネットワークの図を描き始める。手が震えて真っ直ぐにならない。


「くそ、手が思うように動かない。でも、やるしかない」


 きっと練習すれば上手くなる。時間はかかるかもしれないけど。


***


 立ち上がって窓に向かう。カーテンを勢いよく引く。

 秋葉原の夜景が目に飛び込んでくる。無数の光が瞬いている。ネオンサインが明滅し、看板が輝き、街路灯が道を照らす。あの光の一つ一つが、曽祖父の遺産。


「俺も動かなきゃ」


 窓ガラスに手をつく。冷たさが手のひらに伝わる。


「今夜からAIの勉強を始める。まずは基礎から。ニューラルネットワークの理論。それから深層学習。強化学習も必要だ」


 頭の中で計画が形になっていく。前世の知識はある。でも、この世界線の技術レベルに合わせなければならない。2005年の技術で、どこまで実現できるか。

 管理者の声が頭の中で響く。『特異点として未来を創れ』。その言葉が重い。でも、それ以上に——胸の奥でワクワクする。これから始まる冒険に。未知の領域に踏み込む興奮に。

 もう一度ペンを握る。今度は、しっかりと。曽祖父が見据えた未来を、現実にするのは俺だ。


「今度こそ——」


 前世の記憶が蘇る。泣きながらも笑顔を見せた少女の横顔。彼女はAIを3世代もブレイクスルーさせた。


「今度こそ、間に合わせる」


 呟きは小さい。6歳の声。でも、決意は鋼のように固い。

 窓の向こう、ネオンの海の中に、あの日の笑顔が重なって見える。いつか必ず会える。


「絶対に。誰も死なせない。みんなが笑って生きられる未来を作る」


 それが、俺の使命だ。上杉家の血を引く者として。転生者として。そして何より、あの日あの時、誰かを救った者として。

 新しい挑戦が、今始まる。希望と共に。


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