音楽室の足跡

 六月の雨が止んだかと思えば、今度は重く湿った空気が校舎を包んでいた。音楽室の窓が少しだけ開き、風に乗って誰もいないはずの部屋からピアノの音が聞こえてきた。


「……また幽霊かよ」


 昼休み、クラスメイトの間でそんな噂が流れ始めた。どうやら数日前から、誰もいないはずの放課後や早朝に、音楽室からピアノの音が聞こえるらしい。


「幽霊なんて馬鹿らしい」と笑う者もいれば、真剣に怯える者もいる。しかし、柏木瑛人にとっては、幽霊の存在よりも生徒たちの騒ぎのほうが余程鬱陶しかった。


「幽霊じゃなくて誰かが弾いてるんだろ」

「でも鍵は音楽の先生しか持ってないって!」


 そういう話が飛び交う中、柏木は一人、窓際でぼんやりと外を見ていた。


 その日の放課後、柏木は帰り道にふと音楽室の前を通った。中は静まり返っている。鍵もきちんと掛かっているようだった。


「……くだらない」


 幽霊話なんてありふれた噂だ。柏木は素通りしようとしたが、ふと足元の廊下の床に目が止まった。


「……足跡?」


 靴の裏についた泥が、音楽室のドアの前から続いている。今日の天気では、校庭に出なければ靴が汚れることはないはずだ。


「誰か……入ったのか?」


 柏木は眉をひそめ、その足跡を追った。音楽室の前で足跡は途切れている。まるでそこから消えたかのように。


 次の日の昼休み、クラスではまだ幽霊話が続いていた。


「音楽室に入った形跡なんてないんだぞ。先生も確認したって言ってたし!」

「でもピアノの音は聞こえたんだ!」


 そんな会話を聞きながら、柏木は小さく溜息をつく。


「お前ら、足跡は見なかったのか?」


「足跡?」


 唐突な柏木の言葉にクラスが静まり返る。瑛人はポケットに手を入れたまま、飄々と続ける。


「音楽室の前に泥のついた足跡があった。それが何を意味するかわかるか?」


「何だよ、それ……」


「簡単だ。幽霊なんていない。誰かが校庭から泥をつけたまま入ろうとして、鍵が開かないから引き返したってことだ」


「じゃあ、ピアノの音は?」


 柏木は小さく肩をすくめ、冷めた表情で答えた。


「風だろ。窓が少し開いてた。風がカーテンを揺らして、ピアノの鍵盤に触れただけだ」


 クラスは一瞬沈黙し、その後、誰かが吹き出すように笑い始めた。


「なんだよそれ! 風で音が鳴ったって?」

「でも、それっぽいな」


 教室はまた笑いに包まれ、幽霊騒ぎはあっさりと終息した。




 放課後、柏木は誰もいない音楽室の前をもう一度通った。ドアの前にあったはずの足跡は、掃除されたのか消えていた。


「くだらないことに時間を使ったな……」


 小さく呟き、柏木は音楽室の窓の隙間を確認する。微かに風が吹き込み、カーテンがふわりと揺れた。


 ――誰も見ない場所、誰も気づかない違和感。


 柏木瑛人は、ただそれに気づき、淡々とそれを見つめるだけだ。それでも、人は彼のことを「探偵みたいだ」と軽く笑うのだから、皮肉なものだ。


 誰もいない音楽室に、今日も風がピアノの鍵盤を揺らす。

 鍵盤がわずかに鳴らす音は、まるで「誰かがここにいた」と囁いているかのように、静かに校舎に溶け込んでいくのだった。


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