青春下暗し

小林一咲

雨天の痕跡

 その日、学校はいつもと変わらぬ空気に満ちていた。梅雨入りしたばかりの六月。降り続く雨が、校舎の窓ガラスに鈍い音を刻みつけている。教師として慣れ親しんだこの季節も、湿った空気と沈んだ生徒の顔にはうんざりさせられる。だが、柏木瑛人は違っていた。


「彼の存在は雨そのものだ」


 そう言ったのは、何かの比喩でもなく、私の実感だった。2年C組の彼は常に淡々としていて、友人らしい友人もおらず、会話の中に入ることもない。黙々と机に座り、ひたすら授業が終わるのを待つ。


 だが、彼は単なる無気力な生徒ではない。彼の視線――あの冷ややかな目だけはいつも鋭く、周囲の人間の隅々まで見透かしているように思えた。


「先生、誰か傘、盗まれたって騒いでます」


 昼休み、職員室でコーヒーをすすっていると、校内放送が流れた。生徒が傘を盗まれたらしい。「くだらん」と思いながらも、私は傘立てのある下駄箱へと足を運んだ。こういう些細な事件に巻き込まれるのも教師の仕事だ。


 下駄箱の周辺には、数人の生徒と教師たちが集まっていた。クラスのリーダー格である男子生徒・山崎が憤慨しながら言う。


「俺の傘、ここに置いといたんです。黒地に赤のラインが入ったやつ。どう考えても盗まれたんですよ!」


「あーあ、誰だろうね、そんなことするの」


 軽口を叩きながら後ろで腕を組んでいる生徒が一人――柏木瑛人だった。彼の顔には皮肉げな笑みが浮かんでいる。私は目を細めた。


「柏木、お前は何か知っているのか?」


 彼は私の問いかけに目を伏せ、静かに答えた。


「知りませんよ。だけど、先生、犯人を見つけたいなら傘立ての水たまりを見ればいいと思いますよ」


「水たまり?」


「傘を持っていった人間がいれば、そこには必ず水滴が残るでしょう?」


 その言葉に、私は少し驚かされた。目の前の下駄箱に並んだ傘立てを見ると、確かにいくつかの場所には水の痕跡が残っている。しかし、山崎の傘があったという場所――そこだけは不自然なほど乾いていた。


「柏木、お前……」


「言いましたよね。僕は何も知りません。ただ、こういうのって少し面白いじゃないですか。誰かが犯人で、誰かが被害者。お互い様、みたいなものです」


 その後、調査の末、山崎の傘は意外な場所から発見された。体育館の裏手にある物置だ。犯人は、隣のクラスの内気な男子生徒で、傘を間違えて持ち去ったことを怖くなり、隠してしまったらしい。


 山崎は自身の置き間違いからこの騒ぎに発展したこともあり、大した問題にはならなかった。そうして事態はひっそりと幕を閉じた。


 だが、私の頭には柏木瑛人の言葉と、その異様な「観察力」が引っかかっていた。彼はただ「傘を盗んだ人間」を見つけたかったのではない。人間の行動や矛盾を冷ややかに見つめ、その中に潜む「真実」を面白がっている。


 下校時刻、私はふと校門の傍で雨の中を歩く柏木を見つけた。彼は傘を持っていなかった。制服はすでに濡れている。


「おい、柏木! 傘はどうした?」


「僕には必要ないですから」


 そう言って、彼は振り返りもせずに歩き続ける。


 その背中を見つめながら、私はふと考えた。彼は人間の滑稽さを見つめ続ける「観察者」であり、同時にその群れに加わることのできない孤独な少年なのだ。


 雨はやまない。だが、柏木にとって、その雨こそが彼の青春なのかもしれない――

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