第2話 婚約破棄騒動
――2年後。15歳までの7年を暗闇で過ごしたルセーネは、17歳に成長した。生贄時代は全身小汚かったが、今は清潔感があり、愛らしい本来の姿を取り戻している。
そんなルセーネは、ある夜会の会場にいた。人々が談笑する声で賑わっていた夜会は、男のひと言で静まり返る。
「お前とはこの場で婚約破棄させてもらう!」
「ええそれで結構。あなたなんてこちらから願い下げよ! 好きにすればいいわ」
頭上高くに煌めくシャンデリア。
塵ひとつ落ちておらず、磨き抜かれた大理石の床。
同じく一点の曇りもなく磨かれた窓は、困惑した人々の表情を反射していた。
今日は、名のある伯爵が主催した夜会だというのに、場をわきまえず婚約破棄騒動を起こした男女がいた。
立食用のテーブルに張り付いて、所狭しと並ぶご馳走を食べていたルセーネも、何事かと騒ぎに耳を傾ける。
人々の噂話を盗み聞きしたところ、あのふたりは婚約者同士らしく、仲が悪いことで有名だったらしい。
(なんだかよく分かんないけど、こんな大勢の前ですることなのかな? 婚約破棄って……。まぁなんでもいいけど)
夜会の楽しげな雰囲気をぶち壊して、周りの人に迷惑をかけている自覚が、果たして本人たちにあるのだろうか。
騒ぎに意識を向けつつも、ローストビーフを口に運ぶ手を止めない。口に詰めすぎて頬袋はぱんぱんで、何度かむせながらも喉の奥へ流し込んでいく。
(このお肉、美味しい……!)
ルセーネはきらきらと目を輝かせて、零れ落ちそうな頬を片手で抑える。
すると、男の方が、本命と思われる別の女をそっと抱き寄せて、元婚約者を睨めつける。
「お前が俺の運命の人を虐めていたことは、聞いているぞ。愛らしく皆から好かれている彼女に嫉妬し、暴言を吐いたり物を隠したりしていたらしいな!」
「はっ、運命? そんなものがあると信じているなら笑っちゃうわね。その女が他人の婚約者に手を出したくせに、自分は悪くないみたいな生意気なことを言っていたから教育していただけよ」
「開き直るな。それがいじめだと言っているんだ!」
「咎められる筋合いはないから。だいたい、最初に浮気したのはそっちで――」
婚約者がいるのに他の相手に浮気していた男も、浮気相手に嫌がらせをしていた女も、どっちもどっちだという意見があちこちで聞こえた。
どんどんヒートアップしていく喧嘩。女がグラスを思い切り振りかざして中の赤いワインを婚約者の想い人にぶっかけた。
しかし誰も止めに入らず、むしろ面白いものでも見るかのように傍観に徹していて。ルセーネは食べ物に夢中になりつつ、遠巻きに騒動を眺めていた。
「この性悪女!」
「浮気男!」
するとそのとき、広間のバルコニーの奥から、嫌な気配を感じる。
(この気配……)
はっとして振り向いた直後、パリン……っとガラスが割れる大きな音が響き渡る。ガラス片が白い床に飛び散り、窓の奥から黒々とした影が侵入する。
鹿の形をしているが、赤い目が炯々と光り、牙を剥き出しにするさまは明らかに鹿と違う凶暴さがある。赤い目は魔物の証しだ。
「ひっ……! 魔物だわ……!」
「この中に聖騎士はいないの!? 誰か、聖騎士を呼んで!」
聖騎士は、国家が認める最も優秀な退魔師。魔物と戦うスペシャリストだ。
婚約破棄騒動を傍観していた参集者たちは顔色を変えて騒ぎ出し、広間の外へと逃げようとする。人が集まったせいで入り口は詰まっていた。
魔物は跳躍を繰り返し、テーブルに並ぶワイングラスの上に乗って倒したり、壁にかかった額縁を蹴り飛ばしたりしている。
男女の揉める声がよく響いていた広間は、大勢の悲鳴が入り交じり阿鼻叫喚となった。
しかしルセーネは平然とした様子で、人集りを掻き分け、魔物の元へと向かう。
人集りを掻き分けた先で、婚約破棄を突きつけていたはずの男が、浮気相手ではなく、元婚約者の女の方を抱き庇っていた。
「あなた、どうして私を庇ったりして……」
「俺が聞きたい! ただ……身体が勝手に動いたんだ。いいから大人しくしてろ! 怪我するだろ!」
そこに、鹿型の魔物が跳躍して飛びかかろうとする。ルセーネは3人の前に立って首を傾げる。
「あれ? 仲直りできたんですか? よかったですねぇ」
あっけらかんと微笑むルセーネ。
男女の仲というのはよく分からないと思いつつ、魔物の鼻先に手をかざす。
すると、鼻から全身へと緑色の炎が伝わり、ぎゃっと悲鳴を上げて後ろに飛び退く魔物。
ルセーネが放った火を見て、3人は驚き口をぽかんと開ける。
ルセーネは床に転がり悶え苦しむ魔物の近くへとつかつかと歩み寄り、魔物を見下ろす。かざしていた手をぎゅっと握ると、ひときわ強い炎が魔物を黒い塵に変えた。
一瞬で魔物を消滅させたルセーネを見て、人々は「一体何が起きたんだ……?」とざわめく。
婚約破棄騒動の男が、こちらを見上げながら尋ねる。
「あなたは一体、何者だ……? 退魔師?」
窓から吹き込んだ風が、ルセーネの長い紫色の髪をふわりとなびかせる。
「ふ。私は名乗るほどの者ではありませんよ」
「は、はぁ……」
かつての恩人が、ルセーネを檻から解き放ったときのように、キメ顔で言うが、あまり格好つかずにかえって呆れられてしまう。
退魔師は本来、神力をまとわせた武器で魔物を倒す。ルセーネのように手から炎を出して魔物を倒すという話は、この場にいる誰も聞いたことがなかった。
ルセーネはグラスが倒れた長テーブルに置かれた置時計に視線を移す。もうすぐ午後9時になるところだった。
(あ、そろそろ行かなくちゃ)
ルセーネは広間の人たちの視線を集めていることは意に返さず、騒動を起こした男女と浮気相手に愛想よく微笑みかける。
「では、ごきげんよう。もう喧嘩はだめですよ?」
広間の扉の方へルセーネが歩くと、人々はさっと道を開ける。自分が畏怖の念を抱かれていることに全く気がつかないルセーネだが、扉に手をかけた瞬間、細い腕を掴まれる。
「わっ……!?」
「君! 魔炎の力がなぜ使える!? 一体いつ発現したんだ!?」
急に腕を捕まれ、怒鳴られたルセーネは、びくっと肩を跳ねさせる。振り向くと、そこにはこれまでに見たことがないくらい端正な顔待ちをした男が立っていた。
背が高く、程よく筋肉がついた体躯。
長いまつ毛が縁取る青い瞳も、後ろで束ねた夜空を吸い込んだような黒髪も、何もかもが洗練されていて、女性的な美しさがある。
(ああもう、急いでるのになんなの……この人)
だが、彼に見蕩れるより先に、腕の痛みに顔をしかめるルセーネ。
「い、痛い痛い……っ、掴まないでください! 離して!」
「いいから早く答えろ」
「だから、まずはその手を離せって……言ってるでしょーがっ!」
男を睨みつけ、渾身の力で急所を蹴り上げた。彼は顔を真っ青にし、くぐもった呻き声を漏らしたあとに気絶した。白目を剥き、綺麗な顔が台無しの様子で。
「もしかしてあれって、公爵様では……」
「公爵様に蹴りって、不敬罪なのでは」
ひそひそ噂話を聞いて、自分が気絶させたのは偉い相手なのかもしれないぞと、焦り出すルセーネ。
渾身の蹴りを見ていた男たちはひっと喉を鳴らしていた。
「は、はは……これが新手のナンパでしょうか。可愛いのも困りものですね!」
頭に片方の拳を当てて、てへっと笑い小首を傾げる。
そして、全速力で広間から逃亡するのだった。
広間で昏睡状態の男は、この国の王国騎士団第一師団の師団長を務めるジョシュア・ダニエルソン公爵。
そしてこの彼が、ルセーネの運命を変えていく。
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