第3話 失恋はワンパン、ワンスプーン
真波は晴れて付き合うことになり、百花と過ごす時間が減った。
授業では隣にいるが、ランチタイムは彼氏の横にシマエナガのようにちょこんと座り、下校時間には遠慮がちに腕を組む。
これで良かったんだと内心呟き、幸せそうな友人を微笑ましく思いながらも、選ばれなかった寂しさがつのる。
失恋は腐ったミカンみたいに、ぐちゃぐちゃで汚い。
整理できない気持ちに潰されそうなときはカフェで癒されるに限る。今日もコーヒーは他人事みたいに美味しい。
会計を済ませると、店長がこちらをしげしげと観察するような視線を感じた。
「今更ですが、深山さんが持っている長方形は小型の通話機器なんですよね」
「スマホですか? これは電話もネットもできるし、お金の支払いや写真を撮れる便利グッズなんですよ」
「素晴らしい! いろいろな機能が備わっているんですね。こちらの世界にはないので興味深いです」
モンスターやら勇者やらが活躍する異世界にスマホは似合わないから、店長にとっては珍しい代物なのだろう。
「触ってみますか?」
「おお、ぜひお願いします……!」
「カメラ機能にしましょうか。ええと、これがカメラモードで、ここをタップすると動画も撮れます」
「動画ですか! はああ、ますます興味深いですね……」
スマホが興味深そうに左へ泳ぎ、撮影したいものが決まらないのか右へゆらゆらと移動する。
なにを撮るのか気になり画面を覗けば、窓の外に見知った顔を見つけた。先輩だ。
あれっ、今日は真波とデートのはずだけど……。
カフェを出て黒い背中に声をかけると、これでもかと口角を上げた男性が振り返った。
先輩の皮をかぶった別の人物が近づいてくるような違和感がある。
「百花ちゃんこんにちは。大学の帰り?」
「あ、はい。そんなところですが、先輩はどうしたんですか? 真波と駅前で待ち合わせですよね」
「よく知ってるね。これから会うんだけど、真波ちゃんの都合が悪くなってさ。百花ちゃん、よければ一緒に遊ばない?」
「は? えっ、遊ぶ?」
急展開に情報の処理が追い付かない百花の右手を、先輩はさらりと握る。
「埋め合わせみたいで嫌な思いをさせてごめん。でも、実は僕が本当に好きなのは百花ちゃんなんだ。真波ちゃんが今にも泣きそうな顔で告白をしてくるから断れなくて、本心を隠して付き合っているんだよ」
「ど、どういうことですか?」
「そのままの意味だよ。僕は百花ちゃんが好きだから、真波ちゃんと別れたいんだ。相談に乗ってくれないかな」
「別れたいって、トラブルですか? 付き合ってまだ三週間ですよね」
「トラブルなんてない! 真波ちゃんは素敵な女性だ。だからこそ彼女の美しい心を傷つけず、断る方法を探しているんだよ」
憧れの先輩から秘めたる思いを打ち明けられ、素直についていけば、幸せになれたのかもしれない。
百花の頭はそこまでお花畑ではないし、都合よく脳内変換しない。
先輩は好きでもない相手と毎日手を繋ぎ、手作りの弁当を食べ、彼氏の自宅で意味深な一夜を過ごしているの? それっておかしくないか。
「断るなら真波と直接話してください」
「そう言わずに。百花ちゃんのうち、この近くなんでしょ? そこで話そうよ」
「どうして先輩が自宅の場所を知っているんですか?」
点と点がつながり線になる。帰宅途中に忍び寄る、ねっとりとした気配が肉体を得て現実味を帯びる。
「私の後をつけ回していたのは、先輩ですね!」
半月をひっくり返したような先輩の目が釣り上がり、百花の前にぬりかべのごとく立ちふさがる。
「だからなんだよ。九官鳥みたいにうるさい女だな。毎日でかいオッパイ揺らして人を誘惑しておいて、今更やらせる気がないっていうのかよ」
「なに言ってるんですか、私は泣く子も黙るAカップです。犯罪に巻き込まれないように防弾ベストを着ているから、ふくよかに見えるだけですよ」
「はああああ? なに言ってるんだ、お前!」
先輩は乙女の胸を鷲掴み、人間とは思えない人工物の感触、マシュマロは死んだ、だましやがって、などと独り言を連発すると、百花の両肩を乱暴に掴む。
「てめぇ、許さねぇぞ!」
「痛たたたっ、痛いです、止めてください! 触るなら許可を取ってください! アイドルの握手会だって制限時間付きでみんなルールを守って推しているのに、一般人相手ならなにをしても良いなんて滅茶苦茶な道理じゃないですか!」
「……あの、なにしてるの?」
振り返れば真波がいた。人だかりを覗き見たら有名人ではなく知人の修羅場だった、みたいな顔をしている。
「待ち合わせ時間になっても学人が来ないし、連絡もつかないから、うろうろしていたんだけど……」
先輩は髪の毛を焼きそばをかき混ぜる勢いで撫でまわすと、三文役者のごとく両手を広げた。
「百花ちゃんがさあ、俺が好きだから真波ちゃんと別れてくれってしつこくてさ。どーしても退かないから、揉めていたんだ」
「百花が、学人を好き…?」
「そうなんだよ。真波ちゃんがいるから無理だって断っても迫られて、もう大変だよ」
あまりの手のひら返しに、百花の怒りは地獄の釜をぶちまけたかのごとく、燃え上がった。
「えええええ!? どの口がなにをのたまうのかと思いきや、本当は百花が好きだよ、キュンキュンとか言っておいて、彼女が来たらまあ変わり身の早いことで! 先輩はカクレクマノミかなんかですか!」
「はっ、カクレクマノミは成長すると性転換をする魚であって、変わり身の早さの例えにはならないぞ!」
「そんなやけに詳しいツッコミいらないですよ! 真波、こんな人とはすぐに別れたほうが良いよ!」
カラスの縄張り争いのような騒ぎの中、真波の瞳は凛とした静けさを保つ。
「百花が学人を好きだなんて知らなかった。なのに、私、百花にたくさんデートの話ばかりして……」
「そんなの気にしないよ。早く先輩から離れよう」
「別れたら、百花が学人と付き合うの?」
「いや、そうじゃなくて…」
恋に恋する友人には話が通じない。この場を見逃して付き合い続ければ、先輩は他の女性に手を出し、真波はさらに傷つくだろう。
そんなの許さない。なんとしてもここで別れさせてやる。
「お困りですか?」
春風のようなささやきが鼓膜を揺らす。
楽しげに空中遊泳をするスマホが爆音で再生するのは、百花がカフェを飛び出した直後からの先輩とのやり取りだ。
「見た目通りのどうしようもないコウモリ男ですね。都合よく立ち回り、二人の女性の間を往来する。それは誠実と言えるのでしょうか」
真波はあっけに取られていたが、やがて下唇を噛み
「なにこれ!」
「ま、真波ちゃん、それどころじゃないよ。ス、スマ、スマホがう、ううう、浮いてる。なにこれ、どうなってんの!」
「学人こそどうなってるの! バカ野郎クソ野郎浮気野郎!!」
真波の拳は先輩の顎を正確に捉え、黒くひょろ長い体が蛙の標本みたいに仰向けにひっくり返った。脳震盪を起こした先輩は数秒間気絶し、真波は大股で去っていく。
真波は趣味で柔道、ムエタイ、サンボを習う格闘女子だ。怒らせると文字通り恐ろしい目に遭う。
目を醒ました先輩の前から、猫から逃げるネズミのように素早くカフェへ退避する。
失神から目が覚めれば浮いたスマホはうやむやになり、女癖の悪さだけが残る。先輩は針の
「店長さん、スマホで動画を撮るとはナイスフォローです」
「偶然です。止め方が分からなかったのですが、深山さんを助けられてほっとしています」
受け取ったスマホの背面は、縁側で日向ぼっこをしたような温かさがあり、姿は見えなくても優しさが伝わる。
安堵しながら、さきほどのトラブルを思い返し、百花は小さく吹き出した。
先輩、すごくカッコ悪い! 真っ黒な服装もよく見ればセンスがなくて残念だし、胸の大きさでしか女性の魅力を測れないなんて最低だ。
……でも、あんな人にも良いところはあり、さりげない言葉に救われて、感謝した日もあったんだよね。
酷い目に遭ったのに、先輩がまだ好きだなんて思い出を美化しすぎだし、未練タラタラだ。
「店長さん、私の恋心を食べてくれませんか?」
「おや、ですが……」
「もう良いんです」
恋は終わった。前を向くために、心に残るしこりを取り除きたい。
店長はためらっていたが最終的には「目をつぶってください」と受け入れてくれた。
真っ暗な視界の中で、店長が迷子のヒヨコみたいに歩き回る気配や、化学の実験道具を手配しているかのような慌ただしさが感じられた。
「深山さんの恋を抽出しました。どうぞ目を開けてください」
目を開けると、紅色の球体があった。
バレーボールくらいの大きさで、水のような揺らぎとタイヤのゴムに似た弾力を保ち、冬の夕焼けを閉じ込めたような鮮やかさがある。
少しがっかりした。もっと大きいと思っていたが、失恋したから縮んだのかもしれない。
店長は興奮気味にスプーンとアイスクリームカップを用意する。
「非常に質の良い恋心です。深山さん、どうぞ食べてください。あなたのものですから、味見をする権利があります」
勧められるがままスプーンですくい、ワインゼリーに似たものを口に含む。
甘酸っぱくて、ほろ苦くて、舌をトゲのように刺すのに、喉奥をさらりと通る優しい味。
相手の態度にガッカリしても、実はさっきの出来事は夢で、先輩は頼れる部長のままなのかもしれないと勘違いしそうだ。
恋はアルコールに似ている。相手が今なにをしているのか、考えているのか、一挙一投足が気になり、都合の良い解釈をしては苦しくなる。思考回路は定まらず、足元はおぼつかない。
でも、好きになったらどうしようもないんだ。
「先輩のバーカ! 真波を傷つけたうえに、私が先輩が好きだから別れて欲しいなんて、もう少し捻りをきかせたバズるようなとんでもない言い訳を用意しなさいよ! そうしたら、こんなにモヤモヤしなくてすむのに……」
入部したばかりで居場所のない百花がみんなの輪に入れたのは、先輩のおかげだ。
最低な結果になったけれど、感謝はしてる。
好きだった。ありがとう。
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