18.海の町へ

 「ボウイー、覚悟はいいか。あの大きな枯れ木があるだろう。あれの向こうがお前の母さんの故郷だ」




「アニオ叔父さん、やっと着いたね。もうロバもくたくたみたいだよ。僕は荷車から降りるよ、ロバをすこし楽にさせてやりたいからね」




「おい、そんな暢気なことを言っては駄目だぞ。人間が住まなくなった場所には魔物が住みつくって話だ。ここでは何があるか分からんからな。油断禁物だ」




「わかったよ。油断しない。ねえ、叔父さんの産まれた家はまだあるの。行ってみたいな」




 荷車は川沿いの土手を進んでいくとアニオには見慣れたあばら家があった。


「俺はお前の母さんと、もう一人の兄さん、そして飲んだくれの親父と口うるさい母親の五人でここで暮らしていた。懐かしい、あの時のまま時間が止まったままのようだ」




彼は玄関の開き戸を押して家に入った。




「懐かしい、こんなに小さな家だったんだな。昔はもっと大きな家だと思っていたよ」




アニオは玄関から入って左側にある土壁の扉に向かっていた。




「ここが俺たち子どもの部屋だった。こんなに小さな扉だったんだな」




アニオは扉を開けようとしたが何か違和感を感じた。


扉が開かない。向こうに何かが置いてあるようだ。




「こりゃ駄目だ。地震か何かあって何かが向こうに倒れちまったのかも知れんな」




アニオはその部屋に入るのを諦めて、両親がいつもいたリビングと言うには程遠い台所のある湿った部屋を目指した。




「ここに飲んだくれの親父がいつも座っていたんだよ。母さんはその親父に目もくれずに俺たちを養ってくれてたっけな。お前の御祖母さんだ。会ったことも無いから分からないだろうな。あの時死んじまった。飲んだくれと二人でな」




ボウイーは黙ってアニオに独り言を言わせようと思っていた。自分には彼の記憶に入り込む余地など何もなかったからだ。




「あれから何年が経ったのかさえもう忘れちまった。もういい。ここはもういい。さあ、絵描きを探そう」




そう言いアニオはロバをそこいらの柱に括り付けて、積んできていた適当な量の水と草を置いてやった。




「海はあっちだ。ついて来い」




しばらく歩くと遠くに海が見えてきた。




「叔父さん、海だ。初めて見たよ。こんなにも大きいんだ」




 真上に上った太陽がさざなみに影を作り、白と青と濃紺が入り混じった色彩が揺らめいていた。ボウイーはあの夢で見たポイントを探すために走った。遠くに岬が見える。その後ろには小高い山があって、山に向かう道が続いている。


ここだ。間違いない。


左側に見えるあの大きな岩の向こうに行けばあれを見つけられる筈だ。ギザギザに削られた岩の地面を彼は走った。




「ボウイー、走るな。滑って転んだら大怪我をするぞ!」




その声を聞いて速度を落とした彼は大きな岩に辿り着いた。そしてその裏側を見たのだった。


ぬそれは横たわった大きなヒトの形をした機械のようなもので、身体には一本の足が生えていて、両手がついていた。




「叔父さん!見つけた!これだ。これだよ」




 まだ遠くにいるアニオが何かを返事したが波の音で聞き取れない。ボウイーは夢で見た少年の真似をしてそれに手を掛けて登ろうとした。斜めに倒れている金属製のそれは、満潮の時に波に洗われているようでとても滑りやすい。


ボウイーの履いている靴では登れそうもなかった。靴をそこらに投げ捨てて子供のように裸足になった彼は慎重にそれに登っていった。そうだ、少年はこの辺りに立って海の向こうに両手を広げていた。




そして叫んでいた。




 彼はそれを真似しようとしたが、両手を広げて上手く立つことができなかった。足が滑る。大人の身体になったボウイーにはそれは無理だった。


蹌踉めいて思わず手をついた場所に何かを発見した。




「なんだこれは?」




 小さな扉があった。突起のようなものがありそれを触ってみた。それを力任せに押して見ると取手のようなものが飛び出てきた。


興味が俄然湧いた彼はそれを回してみたくなった。


しかし固くてどちらにも回せない。


諦めた彼は下に降りた。


やっと追いついたアニオが言う。




「小さい頃よく言われたんだ。これには近づくなってな。でもドミニク兄さんはこれによくよじ登っていた。ある時、ここで何かを見つけたって言って三つの棒のようなものを見せてくれたことがあった」




「ふうん、もうひとりの叔父さんはどこに住んでるの?」




「あの時、何かに連れ去られて帰ってくることはなかった。もう生きてはいない気がする」




「そうなんだ。じゃあその話は母さんにはしちゃいけないね」




「そうだ。母さんを苦しめることになるからな」




「それはそうとさ、この町には誰も住んでないって言ってたろ?さっきあれに登ったら見えたんだ。山の中腹あたりから煙がさ」




「なんだって?本当か。まさか兄さんが帰って?」


アニオは山の方を見た。確かに煙が上がっている。




「行ってみよう」




 アニオは思った。住んでいるのは探している絵描きの可能性が高いだろう。でもドミニクが帰って来てる可能性もある。二人はなだらかな真っ直ぐな道を登っていった。やがてそこに見た記憶のある小屋が現れた。


確かに煙突から煙が出ている。




「ここは丘の上のはげじじいの家だ。まさかはげじじいがまだ住んでいる筈はないな」




アニオは小屋の扉をノックした。




「すみません、どなたかいらっしゃいますか。前にここらに住んでいたものです」




「どなたですか」




 中から年重はアニオとそんなに変わらないと思われる男性が出てきた。


明らかにあの絵描きでなはい。




「すみません、突然に。昔この辺りに住んでましてね。何十年か振りに帰ってきたんです。まさか町に人が住んでるとは思っていなかったんですが、煙が上がっているのを見つけて知り合いが居るかもとやって来た次第なんです」




「そうですか。まあむさ苦しいところですが入ってください。今日は客人がよく来る」




その事を不思議に思った二人だったが、誘われて家の中に入ってみることにした。




「まあ、そこにお掛けなさい。今お茶を淹れます」




茶をふたつ持ってきた男は一番古めかしい椅子に座って二人にカップを差し出した。




「どうぞ、冷めないうちに」




「あの、ここは確かアレキサンドルと言うお爺さんが住んでいらした家ですよね」




「そうです。わたしはアレキサンドルの孫にあたります」




「ここにずっと住んでいらしたのですか」




「そうですね。いつも祖父と一緒でしたから」




アニオはこの男性に兄の事を訊いてみようと考えた。何か居場所を知るきっかけになるかも知れない。




「あの、つかぬ事をお訊きしますが、ドミニクという名前にご記憶はありませんか」




「ドミニク、ドミニク・・・ああ、祖父がよく言ってたあの子供の事かな。赤毛の小さな子供でとても賢い子供だったと。生きていれば私と同じ歳くらいの」




「生きていれば?」




「いえ、失礼しました。祖父からはあの出来事で亡くなったと聞かされていました。違うのですか?」




「分からないのです。死んだかさえ」




「そうですか。早く見つかるように祈っています」




アニオはそれに例を言い、もうひとつ質問をしてみた。




「先程、客人がどうとか言ってらしたと思いますが、何方が来られたのですか」




「ええ、遠くの町から画家の方がこの町に来ていたのですが、今朝ほど海で倒れていましてね。ここにお運びしたんです。今はあちらの部屋でお休みになっています」




「倒れていた?まさか町の井戸の水を飲んだ?」




「おそらくそう思います。酷く嘔吐症状が出ていました。ここは後ろの山からの湧き水が有りますので、ここの水をたくさん飲ませて休ませています」




アニオは訊く。




「画家は大丈夫なんですか」




「なんとも言えません。なにせ何日もあの水を飲み続けていたようです。最悪の状況も考え得ると」




ボウイーは絵描きにどうしても訊ねたい事があったが、それができるか否かは天の采配に委ねるしかなかった。







 リセルシュは高熱の中、夢か現実かを判断が出来ないでいた。


今どこにいるのかさえ分からない。視界がくるくると回り続けている。自分の声がこもって聞こえない。海にいたはずなのに今家の中にいる様な気がしている。自分はもしかして死んだのか。母親のアニィベルの顔と幼馴染のサーラの顔が浮かぶ。家を離れて随分と長く過ごした気もするし、数日だけのような気もしていた。


家に居るのが嫌で飛び出したのか、それとも違うのかさえも思い出せない。


回る景色と永遠に続く耳鳴りが彼を痛めつけ続ける。




『水を・・・のみ』




遠くから誰かの声が聴こえる。


身体を抱きかかえられているような気もするが上手く動かせない。







「なんとか助ける方法は無いのですか」




「医療道具もありませんし薬もありません。頼みの綱は彼の自己治癒能力しかありません。水を飲ませて悪いものを排出させる事しか方法はありません。幸いこの裏山から湧く清水はミネラルも豊富です。あとは祈るしか無いです」




「貴方は医術の心得があるのですか」




男はその質問に少し戸惑っていた。




「いえ、昔、祖父の友人という方がお医者さんでしたので。単なる聞きかじりですよ」




アニオはそれを真に受けて納得していたが、ボウイーは男の態度に少し不審なものを感じ取っていた。




男は言う。




「良かったら使っていない部屋があります。今晩は泊まっていってください。水もここの物が安全ですしね」




アニオは礼を言い、実家に繋いできたロバを迎えに行くと言って出ていった。残されたボウイーはこの男の事と二人きりになるのが嫌だったが、何か話をして紛らせようとした。




「ねえおじさん。貴方はここでずっと一人なんだろ。退屈じゃないの」




「そうだね。退屈といえば退屈なんだろうね。でももう長い時間を経験しすぎて、何が退屈なのか何がそうじゃ無いのかさえも忘れてしまったんだよ」




「難しい事を言うんだね、おじさんは」




「そうかな。君も長く生きれば分かるようになるよ」




その時後ろの部屋で何かが落ちる音がした。男が部屋の戸を開けて中に入っていった。戸の奥に見えたのは、木のベンチに寝かされていた人間がサイドテーブルを倒してしまった姿だった。




「大丈夫ですか?気が付かれましたね。さあこの水を少しだけでも飲みなさい」




リセルシュは朦朧とした頭をゆっくりと振りながら答えた。




「あなたは何方なのです?なぜ私はここにいる」




「貴方は海で倒れていたんです。もう少し見つけるのが遅ければ満潮の海に溺れて死ぬところでした。心配しないでいいです。貴方の絵や画材はここに運んできましたから」




「そうですか。貴方が助けてくれたんですか。申し訳ありませんでした。これは何かの病気なんですか」




「貴方はあの町にある井戸の水を飲んだでしょう。あれには毒が放り込まれています。随分昔の事なので、役人がつけた注意書きも風で飛んでしまっていたのでしょう」




「毒が?僕は死ぬんですか」




「いや、意識が戻ったということは快方に向かっているんだと思います。おそらくあの毒が本当に致死量に達っしていたら、貴方の意識は戻ることなかったと思います。井戸の毒も長年の雨や地下水の流れで薄まっていたのかもしれませんね。貴方は運がいい」




「貴方はお医者さんかなにかなのですか?」




男はその質問には答えなかった。ボウイーは弱っている病人に話しかけることを躊躇していたが、その配慮よりも自分の好奇心と目的のほうが勝ってしまっている。




「絵描きのおじさん、ちょっといいかな」




「ん?君はここの息子さんかな?」




「いや、違うんだけどね。貴方に聞きたいことがあるんだ。疲れてるの悪いんだけど」




「いいよ、僕は死にかけていたらしいんだ。君も僕を助けてくれたんだろ。ありがとう」




「僕はおじさんを助けてもいないし、ここの家の子供でもない。さっき、たまたまここに来ただけなんだ」




家主の男は水を用意してくると言って部屋を出ていった。




「おじさん、ここの景色を夢で見たんだろ」




「なぜ君がそれを知ってるんだい?」




ボウイーは前の町の市場で聞いた話や自分の叔父が買った絵のことを話した。




「そう。僕はここの景色、あの機械がいる海の景色を夢で見た。なぜだか分からないけど、あれは夢ではなくて現実だと思ったんだ。だからここを探して旅をしていた」




「実はね、僕もここの夢を見たんだ。あの機械によじ登る少年の夢や、金髪の絵描きがあれに登って絵を描く夢をね」




「金髪の絵描き・・・それは僕のこと?そしてその少年って、君と同じ赤毛の少年だったりするのかな」




「赤毛かどうかはわからない。でも金髪の絵描きは貴方じゃない気がする」




「僕達二人が同じような夢を見たってこと?」




二人はその不思議な出会いにしばらく言葉を失っていた。




「僕はボウイー、おじさんはなんて名前なの」




「僕はリセルシュ。花屋のリセルシュだ」




家主の男が裏山の清水をポットに入れて持ってきたようだ。




「さあ、絵描きさん。これを少しずつ飲んで何度もトイレに行く事を繰り返しなさい。君は何も食べていなかったんだろう?そんな胃に薄まっているとはいえ毒を入れたら、身体にが支障をきたすに決まっている。少し間をおいたら食事を用意してあげるよ」




 リセルシュは家人に礼を言い、また横になることにした。


半時ほど経った時、アニオがロバを連れて戻り、手綱を杭に繋いで、彼の食事と水を桶に入れてやった。




「アレキサンドルのお孫さん、戻ってきました。今日は厄介になります。そう。貴方のことはどうお呼びしたら?」




「アンジーです。アンジーと呼んでください」




ボウイーが言った。




「アンジー?女の子のような名前だ」




「こら、ボウイーやめないか。失礼だろうが」




「いえ、いいんですよ。僕もこの名前でよくからかわれました。でもこの名前はアレク爺さんが、昔お世話になった医者の名前なんですよ」







 小屋の周りが闇に包まれゆく頃、リセルシュはようやく起き上がることができたようで、三人のいる粗末な食堂にやって来た。




「あまり無理をしない方がいい。でも折角だから座って食事でもとるかい?」




「ええ、少し頂けるのなら」




座ると音がする古めかしい椅子に座った彼は疑問に思っていることを率直に聞いてみることにした。




「アンジーさん、聞かせてもらえませんか。僕は井戸の毒にやられたと言いましたよね。この町で昔何があったんですか」




アンジーは目を瞑ったまま答えることをしない。暫くの沈黙があった。


アニオがそれを察して話し始めた。




「俺が13くらいの時、兄が行方不明になったんだ。ある時突然にな。誰かに連れ去られたとか、変わった子だから自分で居なくなったとか、噂は絶えなかったよ」




ボウイーは聞いてはいけない事を聞く様に感じたので席を立とうとした。アニオはそれを制し続きを話す。




「家族みんなで探し回ったさ。何日も何日もな。ただ飲んだくれの親父は食堂に座ったまま動かなかった。母親はそんな奴を見て毎日夫婦喧嘩だ。うちの家はばらばらになっちまった。ある時、妹と家に帰ると、夫婦喧嘩の跡のように家のそこら中が滅茶苦茶だ。両親を探してみたけど、家の中には何処にも居なかった。急いで家の裏に行ったんだ。そこで俺たちはとんでもない物を見てしまった。親たちが二人して死んでいたんだ。口から泡を吹いてな。町の占い婆さんがすぐに来てこれは魔物にやられたと言うんだ。その後、俺たちは親戚の家に引き取られ町を出た。あとから聞いた話だと、あれから町の人間が何人も何人も死んでいったんだそうだ。町のものは占い婆さんの言う事を信じ、魔物を封じ込めるためにこの町に続く道という道に火をかけた。でもそんな事で死人が出なくなるなんてことは無かった」




アニオはテーブルに両肘をつきながら少し震えている。




「ついにはその占い婆さんも死に、森を焼いた人達も死んでいった。生き残った誰かが別の町に走り助けを求めた。そして調べると井戸に毒が放り込まれていることが分かったらしい。一番最初に死んだ俺達の両親が夫婦喧嘩の挙げ句、自分たちが毒を飲んで、残りを井戸に投げたのではないかと聞いた。でも親たちは馬鹿だったが、そんな大馬鹿な事を仕出かすような人間じゃない。あれは裏の家の女の仕業だと思ったんだ。いつも夫婦喧嘩の声がうるさいと文句を言いに来ていた。多分あいつが俺の両親を殺して罪を被せた。俺はその話しを大人たちにしたんだが、誰も信じてくれなかった。だからあの町では俺たちの親が犯罪者って事になってる。しかし絶対にそうじゃない。んん、いや、原因は夫婦喧嘩だ。そしてその原因を作ったのは兄の失踪だ。更にその失踪の原因を作ったのは俺なんだ。すまないリセルシュ。俺なんだよ、原因は」

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