第6話 遭遇
メールしますと言ったきり、ハルからの連絡はなかなか来なかった。
毎日、メールボックスを何度もリロードしている。その度にがっかりするのだけれど、リリはやめられなかった。あと二回だけやろうと思った。一回、来ない。二回、来ない。もう一回だけ、と思ったそのとき、着信のチャイムが鳴って、リリは飛び上がりそうになるほど驚いた。
文面はとてもシンプルだった。先日は楽しかったです、みたいなことが書いてあり、最後に、都合のよい日時を教えてください、となっていた。
バイト以外はほとんど予定がなかった。空いている日を全部書くと、なんだか寂しい人みたいになりそうだったので、あえて半分ぐらいにしておいた。返信。
リロードを繰り返して待つのは我慢した。その間に風呂に入った。アパートの住人が共同で使うものだ。鍵をかけて服を脱ぎ、鏡の前に立った。ガラス面はカビで黒くくすみ、ひび割れている。そこには、実年齢からは信じられないぐらいに若い肌が映っていた。
背中を向ける。肩甲骨のところに、左右ともに赤い筋が見えた。誰かに見られても、おそらく傷痕かなにかにしか見えないだろう。でも一応、警戒はしていた。銭湯や温泉の類は避けている。この印の意味を知る者がいないとは限らないからだ。
これがあるがゆえに、恋に終わりがやってくる。添い遂げることができない。忌々しい思いでしばらく見つめたあと、シャワーを浴びた。
風呂から上がると、リストフォンにメールが着信したことを知らせるランプが光っていた。誰からだろう、などとあえて考えてみる。期待してがっかりするのは嫌だった。
待ちあわせの日時と場所が記されているだけのメールを、リリは何度も読み返した。
ハルです。
静かな声でそう言ってお辞儀をした少女は、人形のようになめらかな肌をしていた。肩にかかった艶やかに長い黒髪が、絹のようにさらりと流れた。
ふくよかな顔だちをしている。しっとりと潤って揺れる大きな瞳が印象的だ。小さいけれど筋のとおった鼻の下で、濡れた唇が憂いを秘めて僅かに開いている。やや小柄な細身の体は、見事なまでの黒いゴスロリに包まれていた。
……リリです。正直に言って予想外すぎたハルの姿にあっけにとられ、リリは、挨拶を返すのが少し遅れた。ゲーム上では自由に声を変えられることをもちろん知っていたが、まさかこんなに可愛らしい女の子だとは想像もしなかった。
「ほらね、ナイトじゃなかったでしょ」
ハルがひっそりと笑った。春のように温かくてやさしいけれど、どこか影を感じさせる笑顔だった。
リリは、ハルが男ではなかったことに、どこかほっとしていた。けれども、いずれにしても同じことなのだ。彼女もきっと、リリを待ちきれない。たとえ親しくなったとしても、先に死んでしまう。
どこへ行こうか、とリリが問うと、山へ登りましょう、とハルが提案してきた。ちょうど紅葉が見ごろだ。
駅前から出ているバスに乗った。街の北側に横たわる山脈の七合目あたりまで直通で行ける。市街地を抜けて登り坂をしばらく走ると、観光道路にでた。頂上の見えない崖と底知れぬ谷にはさまれた狭いワインディングロードは、路線バスには少々、厳しそうに思えたが、運転手は慣れているのか、滞りなく進んでいった。
ケーブルカーの山上駅に近いバス停で降りた。すぐ横に展望台がある。血のような匂いのする錆びた鉄柵の向こうで雉が飛んでいた。胴体が金属製のパイプでコンクリートに繋がれている。銅像だ。
「せっかく翼があっても、この子はここから動くことができないの。いつも地面に拘束されている」
ハルは目を伏せた。山脈を渡る風が黒髪を揺らしている。リリは黙って頷いた。
ふたりは展望台に併設の喫茶室に入った。窓際のカウンター席に座る。足もとに広がる山肌はモザイクのように色づいて、秋の気分に満ちていた。視線を上げていくと、街が見えた。海と山に挟まれた左右に細長い平野に、灰色のビルがひしめいている。
港には大型客船や観光クルーズ船、コンテナ船などが入っていた。黒い島影が、自らの存在を主張するように浮かんでいる。水平線は少し霞んでいてよく見えない。人工島に、光が二列にまっすぐ並んでいる。空港の滑走路だ。リリは、そこからこの街にきた。
「あ」注文を取りにきたウェイターが間抜けな声を漏らした。「リリちゃんだよね?」
リリは内心の動揺を抑えて、言葉を返した。
「店長じゃないですか。今はこの店で?」
「もとは親戚がやってたんだけどね。頼まれたんだ、引退するから、って」
「ずいぶん遠い所へ転職したんですね」
「そうなんだ。だから、嫁さんと子供も一緒に引っ越してきた。下の街で暮らしながら僕はここに通ってる」
「思い切った決断をしましたね。あっちのみんな、びっくりしたでしょ」
「リリちゃんこそ、突然いなくなったから、みんな心配したんだよ?」
「……すみません、急な事情があって」
「元気でいてくれたのならいいさ。あ、そうだ。ねえ、厨房にバイトで入ってくれないかな。君が料理を作ってくれたら、客が三倍に増える」
「考えておきます」
もちろん社交辞令だった。
彼とは一度だけ寝た。そのとき、背中の印について訊かれた。次の日、リリはその地を去った。十分に距離を取ったつもりだったのに、偶然とは恐ろしい。気をつけなければ。この国ももう、潮時か。
「それにしても、あれから五年も経ったのに、ぜんぜん歳をとらないね。あのとき二十六歳だったから、今は三十一か。そうは見えないけど」
「誉め言葉、ですよね」
「もちろんだよ。おっと、お客様、ご注文は?」
ハルの大きな瞳が、まるでカメラのレンズのように冷たい光を浮かべながら、リリたちのやりとりを見つめている。
「リリ、料理が得意だって言ってたけど、プロが認める程なのね」
静かな声でハルが言うと、リリは胸を張った。
「ええ、まあね」
「食べてみたいなあ」
「じゃあ今度、うちに来てよ。作ってあげる」
夕方ごろまでとりとめのない話をしながら、ふたりは手料理パーティの計画を練った。
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