二 午英王女

 森を抜けると零ゆ森を管理する官人たちが詰める官衙がいくつか建ち並び、そのさらに奥に斎媛のための正殿が構えていた。花宮に比べると行き交う人の数は極端に少なく、夕暮れ時ということもあるのかどことなく物寂しい感じがする。

 先ほどまで雷は白布をつけていなかったが、今や顔を覆って品行方正な斎験使そのもののように振る舞っていた。


八峯丞やつおのじょうさま、お待ちしておりました」


 二名の女官は雷が名乗っても白布を取ってもいないのに、ぽっと頬を朱く染めて出迎えてくれた。


(察するに、前々から雷は王女さまとつながりがあったってことね)


 昨日、突如として午英に文水を指名するよう頼んだことから始まった関係ではないと見て間違いないだろう。

 ところで、教えてくれなかったので知らなかったが、雷は判官じょうの官職に任じられているらしい。位階はおそらく七位とかそこらだろうか。五年も前から出仕していることを考えると、同じ蟲子でもいきなり従五位下の刑部省次官に任じられた晴央とはやはり、だいぶ差があるようだ。


「斎媛にお目通り願いたいのですが。ああこれは京師土産です。春の精のようなおふたりにいかがかと」


 歯の浮くような台詞にも、女官がきゃあ、と黄色い声を上げる。

 雷は、ちゃっかり女官への献上の品まで用意していたようだ。文水は開いた口が塞がらなかった。


(この人、裏表の差が激しすぎて、自分で自分を見失うことはないのかしら)


 文水の心配と反感をよそに、雷は女官たちと和やかな談笑をしながら、建物の奥へと進んでいく。やがて花のにおいの漂う主屋おもやに辿りついた。

 雷は名残惜しそうにする女官に人払いを頼むと、白布を取り去り、主屋に足を踏み入れた。

 御帳台の前には、秋の花を使った楚々とした一対の立花が飾られている。立花は花器に花を生ける芸術で、古くは花を立てて六つ蝶を招こうとした神事に由来する。ひょっとすると、午英が立てた立花かもしれない。ささやかで控えめだが、不思議と落ちつく立て方だった。

 文水は雷に続いて板敷の間を進み、雷に倣って立花の前で膝をつき両手を揃える。


「斎媛。蝶位候補をお連れしました」


 雷の声になにか答えが返る前に、御帳台のなかから誰かがまろび出てくる。


「し、心配しました。……雷」


 玻璃がくだけるようにふるりとふるえる声がして、少女がぱっと雷に駆け寄る。

 双髻そうけいに結い上げた灰桜色の髪に、短めの下がり眉の下には、珠のように光を放つ涙をためた桜花の眸。小づくりな唇をきゅっと引き結んでいてなお、その可憐さが損なわれることはない。異母兄である華弥王とちがうのは、彼女が白雪のような肌をしていることだ。小柄な身体を斎媛の真白の装束に包んでいることもあって、瞬きのあいだに消えてしまいそうな果敢なさを感じさせる。

 午英王女。年の頃は、文水のひとつ下くらいだろうか。王のことは調べつくしたが、王女のことはさっぱりだ。王候補の兄弟でもいれば系図が頭に浮かんだだろうが、兄や弟の名にも心当たりがない。


「ど、道中、危ない目には遭いませんでしたか」


 心配のあまりか雷に伸ばしかけた手を、きゅっと中空で握りしめて午英が尋ねる。

 雷は白魚のようなその手に手を重ねると、口元をほころばせた。さながら、朧夜に椿の花から蜜が滴るような甘く淫靡な笑みがにおいたつ。


「ええ。王女が私を守ってくださいましたので」


 本性を知った後では妙に気色悪い言葉とともに雷が懐から取りだしたのは、桜の花守はなまもりだ。

 透きとおった珠のなかに、瑞々しい桜が閉じ込められている。地に根っこをつけて咲いていたときの姿のまま、珠のなかで花が凍てたかのようだ。

 花守は斎つ花を細工してつくる御守で、誰もがひとつは身につけている。百花の子女なら大抵、生家の奉る斎つ花を使った花守のつくり方を覚えさせられる。雷の口ぶりからすると、おそらく午英が手ずからつくった花守だろう。

 雷は花守をいとおしむように指先でなぞると、長い睫を伏せてそっと唇を寄せた。

 間近でそれを見ていた午英の頬が見る見るうちに林檎のように色づく。恥じらうように口元に手をやって、午英は俯いた。


(――この男‼)


 女官の時点で少々――いや、だいぶ嫌な予感はしていたが、どう考えてもおそれおおくも一国の王女を毒牙にかけている。しかも、零ゆ森に奉仕する斎媛を、だ。

 思わず烏火を振り返れば、彼も「う、うわあ……うわあぁあ」という顔で目を逸らしていた。

 文水は、お世辞にも男女の心の機微に敏いほうとは言えない。だが、この男にかぎって午英に本気で懸想をしているということは考えにくい。十中八九、王位争いに利用するために午英を弄んでいるとしか思えなかった。


「王女、どうかあなたの蝶にもお言葉を掛けてはいただけませんか。あなたを花と見初めた御方です」


 雷が午英を促す声に、文水はいったん彼を心の中で罵るのをやめて、慌ててその場に額づく。


「……お顔を、上げてくれますか?」


 か細く消え入りそうな声に導かれて、文水は午英を見上げた。

 文水と目が合うと、午英はびくりと肩をふるわせる。


「あの、わたしは蟲子の――」


 午英は文水が名乗るよりも前に、雷の後ろに隠れてしまう。

 なんだかものすごく怯えられている気がする。


(やっぱりわたしが苳の民だから……?)


 嫌な考えが頭をよぎる。名乗ることもできずにいると、おっかなびっくり午英の頭が覗いた。


「わ、わたくしは、雷の言うとおりにいたします。ですから、今後のことはおふたりで決めて、ください」


「え?」


 文水は驚いて午英を見つめる。


「そんな。待ってください。龍華は誰の指図も受けるような御方ではありません。それでは、高御座たかみくらを雷に明け渡すようなものではありませんか」


 文水の指摘にも、雷は涼しい顔をしている。

 おそらくそれが雷の狙いなのだろう。これほど彼を頼りにしている王女ならば、もし彼女を龍華に押し上げた暁には、思いのままに操れる。

 そうであるなら、その蝶には実力者や強力な後ろ盾をもつ蟲子などより、文水のように後ろ盾も経験もないお飾りの蟲子を据えるのが都合がいい。だから処刑寸前の文水を助けだしたと考えればしっくりくる。


「王女、どうかお考えなおしください。龍華には、国中の人の命や人生を左右する力だってあるんです。それを――」

「……ですから、お任せするのが、いちばんよいのです」


 午英はけぶるような睫を伏せて、決意を秘めた声で囁く。雷になにかよからぬことを吹きこまれているとしか思えなかった。


「だったら、わたしは降ります。蕾蛹の験を」


 文水の言葉に、午英は目を見ひらく。

 おずおずと雷の後ろから顔を出すと、文水をじっと見つめた。

 さざ波だった桜花の眸は、文水への恐怖からか濡れている。


「ですが、そうしたらあなたは異母兄あにさまに殺されてしまうと、聞きました」


 文水はこくりと唾を呑みこんだ。もちろん文水にも死の恐怖はある。

 けれど。


「――わたしは、自分が生きのびるためだけにあなたの蝶になったわけではありません」


 そう言って、文水は裙の上から自分の左足に手をやった。そこには、しるべのように文水をこれまで導いてきた蝶の形の痣がある。


「この蝶印は誰にでも与えられるものじゃない。時には龍華にも匹敵するような力を、わたしももっています。わたしの選択が誰かを生かしも殺しもするかもしれない。だからこそ、その力を正しく使えるよう努める責任があるとわたしは思います。国に滅びを呼ぶかもしれない花に、わたしは添えません」


 文水は胸に手を置いて、まっすぐに午英を見つめて宣言する。

 午英は視線を彷徨わせてから、自分の手のひらを見下ろした。


「責任……」

「でも、もし王女に龍華として頑張ってみようという気持ちがあるのなら、わたしはあなたを支えます。心を尽くし、命を尽くし、なにがあってもあなたの傍にいるとお約束します」


 午英はびっくりした様子で固まっていたが、思い直したようにふいと背を向けた。


「と、とにかく雷とお話して。わたくしは今から零ゆ森の仕事がありますから、ひとりにしてください」


 午英はすすすと横歩きでなにやら御帳台まで移動すると、物凄く不自然な挙動で正殿を出て行った。どうも、なんとか文水の顔を見ないで済むように頑張ったらしい。


(今のが、午英王女……)


 華岏王のような信念をもった決断力のある名君だとはお世辞にも言えない。華弥王に対抗できる揺るぎのない強さと才覚を備えた王候補だとも思えない。

 だけど。

 午英がすべてを雷に明け渡してしまわないかぎりは。彼女が文水の、唯一の花だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る