第二幕 花葬宮の蕾の王女
一 朽津野へ
厚く垂れこめた灰色の空から、雪の花が舞い落ちている。
文水の育った蛍谷では、雪なんて一年に一度降ればいいほうだ。
それでいつも、ああ夢を見ているのだと気づく。覚めたときにはどんなだったかも忘れてしまう、沫雪のように儚い夢。
どうせ忘れてしまうのならせめて鮮明な夢ならいいのに、そこには音もなく、ただ雪と靄がかった影が蠢いているだけだ。
文水はたぶん濡れ縁に座って、誰かの影を見上げている。影は文水になにかを語りかけている。
何度も何度も同じ夢を繰り返している気がするのに、その声が聴こえたことはない。ただの、一度も。
*
「――さん、お媛さん」
呼び声に、うつらうつらしていた意識が覚醒する。
見知った自分の部屋の天井ではなく、濃い緑のにおいがして一息に目が覚める。
文水は馬上の人となっていた。同乗して、後ろから支えてくれているのは烏火だ。
京師から馬に乗りしばらく北上していたところまでは覚えているのだが、いつの間にか寝入っていたらしい。
「ごめんなさい、ここは?」
「もう
朽津野は、京師の北にある葬送の地だ。辺りを見回すと、鬱蒼とした森が一帯に広がっている。京師を中心とするその周辺地域は、
歴代の龍華はもちろん花内の貴人は、命尽きるとこの朽津野にある霊地、
その中心にあるのが、
「知らなかったわ。午英王女って、当代の斎媛だったのね」
烏火が駆る馬から降ろしてもらいながら、文水は呟く。
文水の花となる午英王女は、どうやらこの森の奥にいるらしい。
烏火は微かに浮いた汗を拭って馬の首の辺りを撫でると、文水を振り向いた。
「お媛さん、歩けます? なんなら負ぶいますよ。抱っこでもいいですけど」
「おい、あまり甘やかすな。そいつはもう后になるような高貴な女じゃない。補佐なら、男並みの働きができなければお話にならない」
舌打ちとともに答えたのは雷だ。
「いちいちうっさいわね。言われなくても歩くわよ、歩けます。烏火、わたしのことはもう、お媛さま扱いしなくていいから」
文水は苛々と雷に嚙みついてから、烏火に苦笑を向ける。
ここまで来る間に、もう雷とはだいぶ打ち解けている――と言うと語弊があるが、耐性ができてきている。
ほとんど休みも取らずに強行軍で来たため疲れ果てていたが、今頃梟首になっていたかもしれないと思えば、なんだってできる気がする。
ふと空を騒がせる鳴き声がして、烏火が手甲に覆われた腕を掲げる。
見上げると、木々のそびえた狭い空に
雁の
もっとも鳥は六つ蝶の敵であるので、雁を使役するのは苳の民に限られ、信心深い人々は雁を使うことはほとんどない、らしい。らしい、というのは貴人のなかには雁の玉章を使うためだけに、こっそりと苳の民を買う人間もいるからだ。
ちなみに烏火が雁を使えると知って、雁の玉章を出させたのは雷だ。躊躇いなく雁を使うあたり、やはり合理的な男である。
烏火から玉章を受けとって目を通すと、雷はにやっと口の端を上げた。
「発願の儀が終わった。無事、
神宮に奉納されたというのは、今朝までに蟲子と王候補が斎験使に提出することになっていた
願文には蟲子なら選んだ王候補の名を、王候補なら蝶位候補の名を記して斎験使に渡す。文水は京師を出てくる前に、これに午英王女の名を書いて雷に託していた。
雷は要領よく事前に午英王女から文水の名を記した願文をもらっていたらしく、刻限になっていた辰の刻ぎりぎりに合わせて上司に提出してきたらしい。
斎験使が受領した願文は、神宮に奉納される。六つ蝶の御前で願文は開示され、蟲子と王候補で指名者が一致したいわゆる番いは、六つ蝶の許しを得て蕾蛹の験に名乗りを上げたことになるのだ。この一連の儀式を、発願の儀という。
発願の儀が滞りなく執り行われたからには、たとえ蜂宰であろうと華弥王であろうと簡単に覆しはできない。みずから降りると宣言しないかぎりは、蕾蛹の験が終わるまで六つ蝶の庇護下に置かれることになる。ひとまず首の皮一枚つながった。
「はああああ。よ、よかったぁ」
文水はへなへなとその場に頽れ、お尻をつけないように膝を抱える。
本来は、神宮での発願の儀にも蟲子と王候補が参加する必要がある。妨害工作や最悪暗殺されることも考慮して、文水も午英王女も神事は欠席することにしたのだが、それが功を奏したらしい。
おかげで香散見家父子や華弥王が儀に出席している間に、おめおめと京師を脱出することができた。
「これで晴れてお前も、午英王女づきの
蝶宰候補として名乗りを上げた蟲子が無位無官であった場合、その者には官位が授けられる。下っ端ではあるが、これで文水も正真正銘花宮の官人というわけだ。もっとも、今のところ逃亡生活のようなありさまなので、正直実感はなかった。
「わたしと烏火が釈放された件も、結局お咎めはないのよね?」
「ああ、俺を崇め奉れよ」
雷の態度がとんでもなくでかいのも、無理はない。
文水と烏火の
蕾蛹の験の前後は、京師の治安維持のために次から次へと獄舎に罪人が放りこまれる。おかげで獄舎を管轄する刑部省はこの時期目の回る忙しさらしいのだが、そのなかには明らかな冤罪もあり、官人の嘆願書があれば裁判を待たずに解放される場合も多かった。
というのも、罪人の数に対して獄舎の空きが足りておらず、ついでに官人の数も足りておらず、いちいち裁判をするにも膨大な時間がかかる。ゆえに、裁判をせずに獄舎に空きをつくることができるのなら、刑部省としても都合がいいというわけだ。
雷は朝一番にその嘆願書の山のなかに文水と烏火の分を滑りこませ、何食わぬ顔で決裁の判をもぎ取り、そのうえで獄吏に正式な手続きを経たうえで釈放させていた。
さらに言えば、昨晩雷が獄舎で文水に接触を図った際も、事前に獄吏に話を通していたようだった。斎験使はその職務遂行のために、どのような状況であろうと蟲子や王候補との自由な面会が認められる特権をもっている。
おかげで、文水と烏火に後ろめたいところはない。
「番いが成立したのは、お前たちと華弥王・香散見晴央の二組だけだ。あのおぼっちゃんは今頃泡を食っているだろうな」
そう言う雷は、悪い顔をしている。
晴央は刑部省の次官なので、大して中身を読みもしないで文水を解放するための判を押したのだろう。おそらく朧と華弥王からの責めは免れない。
(ぎりぎり予備試験はわたしが勝ったけど、あれで晴央も優秀だから、いまいち釈然としない気もするけど……)
神事の準備と官衙での仕事で忙殺されるなかでのことと考えれば、納得できないこともない。
一応、幼い頃は文台を並べた仲だ。青ざめた晴央の顔を思い浮かべると、溜飲が下がるような、それでいて少々気の毒なような気もする。
「だけど、あなただって恨みを買うんじゃない?」
「嘆願は手駒にやらせたからな。そう簡単に口は割らないよう、
手駒というのは、単なる部下とはちがうのだろう。おそらく弱みでも握って脅しているにちがいなかった。
「俺はあくまで斎験使としての職務を忠実に遂行しているだけ、という寸法だ」
蕾蛹の験に名乗りを上げた王候補と蟲子には、斎験使が随行することになる。
どうやら文水と午英王女に随行する斎験使は、雷に決まったらしい。
「昨日の今日で、随分と手回しがいいのね」
「無能な誰かさんとはちがうからな」
あからさまな嫌味を言われても、ぐっとこらえるしかない。
癪だが、抜かりのない男だと認めざるをえなかった。
(……だけど、雷のやり方は明らかな職権濫用だわ)
龍華をさだめるという立場上、斎験使は公平でいなければならない。というか公平でいるのが仕事と言っても過言ではない。斎験使はあくまでも六つ蝶の代理人として龍華選定を行うのが本来業務であって、どこかの陣営に肩入れしてその陣営の支援を行うというのは、言語道断。神事を冒涜する所業だった。法には触れていないが、斎験使としての資質には疑いをもたざるを得ない。
もし午英王女を龍華にすることで、なんらかの重要な立場を約束されているのだとすれば、大問題だ。
味方としては頼もしいし、彼がいなければ今頃梟首になっていた身だ。文句など言えるはずもないが、文水の心情的にはどうにも受け入れがたいものもある。
「なにか言いたそうだな?」
愉しそうに眸を覗きこんでくる雷から、文水はふいと顔をそむける。
「ありがたいご高説でも垂れてくれるつもりか? 俺のやり方が気に食わないなら、自分のことくらい自分で救ってみろよ。お前の納得のいく、それはそれはおきれいな方法でな」
文水の胸中はそっくり読まれていたようで、ちくりと刺される。
(悔しいけど、雷の采配より優れた案も思いつかない……)
彼の言うとおり、今はそれに縋るしかないのが現実だった。
雷はいつの間にか午英王女へ間もなく到着する旨を記した玉章を綴っていたようで、烏火がそれを結んで雁を空に放つ。
「こっちはお前と王女宛だ」
雷がぞんざいに寄越してきたのは、先ほどまで雷が見ていたのとは別の玉章のようだ。
斎験使長官たる蝶宰――おそらく花見庵で出逢ったあの老人からで、端正な字で簡潔に用件が記されている。
「『
沙庭の儀とは、蕾蛹の験の最終日に行われる龍華選定の儀のことだ。蕾蛹の験は発願の儀によってはじまり、沙庭の儀によって終わりを迎える。その期間はひと月半ほどだ。
(問題は、龍華たる真髄を示す、ってほうだけど……)
文水も蕾蛹の験がどのようなものかはかねてから知っていたが、漠然としている。
蕾蛹の験における課題は、毎回一緒でたったこれだけだ。
これまでには百花の腐敗を暴いた者が龍華となったこともあるし、はたまた飢饉の頃には田畑の改革を行った者が龍華になったこともある。
要するに、蝶位候補とともにより華々しい手柄を立てた王候補に龍華が授けられるということである。
いずれにせよ、王女に会わないことにはなにも始まらない。
(どうか、どうか、王女が素晴らしいお人柄でありますように!)
文水はそう念じると、森の奥に向かって歩きはじめた。
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