八 天命の蝶は后にならない

 年の頃はまだ二十歳に満たないだろうか。

 とてもうつくしい、危うい色香の薫る青年だった。長い睫に縁どられた、朝焼けとも夕焼けともつかないこがねの眸。秀でた額に、すっと通った鼻筋。白皙の頬。

 声を知らなければ、天女と言われても疑わなかっただろう。この世のものとも思えない美貌に、束の間呼吸を忘れた。

 しかし、その顔はたちまち人のにおいを纏う。炎の影を躍らせる黄金の眸が情念に歪み、薄い唇に傲岸な笑みが乗る。男は、文水を嘲るように見下ろした。


「花探しのときから甘い甘いと思っていたが、話を聞いていればとんだお花畑だな。だからいいようにやりこめられる」

「は――? な……え?」


 文水は口をぱくぱくとさせた。

 聞こえてきた悪口のどれもこれも、このとんでもない美人から発せられたとは思えない。一応昼間にも顔を合わせているとはいえほとんど初対面のようなものなのに、大事な話を盗み聞きされたあげく、ここまで貶される謂れなどあるだろうか。


「あなた、なんなの」

「俺? 俺はお前をここから連れだせる唯一の存在だよ。分かったら地面に頭を擦りつけて、助けてっておねだりしてみたらどうだ?」

「はああああ?」


 文水は素っ頓狂な声を上げた。


(おねだり、って……な、何様?)


 斎験使は、蟲子からしてみれば敬意を払わなければならない相手だ。だが、こんな俺様何様男に愛想を振りまけるほど、文水の心は広くない。


(だけどこの人、今、わたしを連れだせるって言った……)


 斎験使は王位継承に関わるので、実績があり、ある程度年齢を重ねた官人が任命される傾向にある官職だ。それが十代後半そこそこで斎験使に任官されているということは、かなり有能な出世頭にちがいない。人格に問題があるとしか思えないが、身なりや立ち回りからしても宮中でそれなりの立場にいることは明らかだ。文水を一喜一憂させるためだけにわざわざ夜更けにこんなところに来て、嫌がらせをするほど暇な人間のようには思えない。


「どういうこと?」

「少しはその足りない頭で考えろ。無実を証明せずともここを出る方法が、ひとつだけある」

「無実を証明せずとも……?」


 それは、あるとすれば文水が王候補の誰かから蝶として指名されている場合だ。いち王候補である華弥王がいくら文水に殺されかけたと言ったところで、同じ王候補がそれを否定し庇護下に置いたならば、禍根は残るがひとまず蕾蛹の験が終わるまでは文水の処刑は保留になるだろう。

 蕾蛹の験は、人知の及ばぬ神の領域にある儀である。それゆえ、蕾蛹の験が始まれば、何人たりともその儀の進行を妨げることはまかりならない。

 だが、どう考えても華弥王に盾ついてまで文水を指名してくれていそうな御子はいない。

 文水の心の声を読みとったのか、男はひどく冷めた目をして答えを告げた。


「簡単だ。指名させればいい」

「え、な、なに? 今から脱獄して御子さまの誰かを脅せってこと?」

「べつにそれができるならそれでもいいがな。ひとつ当てがある」


 文水はたまらず、たたらを踏んだ。


「お媛さん」


 制止の声を上げて手を伸ばしてきた烏火からするりと逃れて、男のほうに駆けだす。体当たりする勢いで格子を掴んで、男を仰いだ。


「教えて。それは誰?」

「午英王女」

「な――王女? ばかにしてるの? 王女の后にはなれない」

「王女の后にはな。だが、王女の補佐――蝶宰ならどうだ」


 文水はしばし言葉を失った。


「そんなの、もっとなれるわけない。蝶位は女は蝶后、男は蝶宰って決まってるわ。そもそもこの国で女王が立ったことなんて」

「なれるわけない? なに寝ぼけたことを抜かしてる? 予備試験首位のおつむは飾りか? 王位継承に関わる玉条を思いだしてみろ。女が蝶宰になれないなんて決まりも、女王は禁止なんて条文もどこにもない」


 たしかにこの男の言うとおりだった。

 そんな決まりはどこにもない。ただ慣例があるだけで。

 だけど、文水は奥宮で午英王女と話すことはおろか、遠目で見るのが精一杯だった。だって女王なんてありえないし、女の蝶宰なんてもっとありえないから。それが答えだ。そんなことは逆立ちしたってできっこない。


「だって、それは、仕方のないことで……」

「『仕方ない』? 人には嫌いだと言っておいて、自分が自分を諦める理由には簡単に持ちだせるとは便利なものだな。その仕方ないって言葉は」


 心底馬鹿にしたように言われ、文水ははっと口元を押さえる。


「お前は望みだけはご立派なくせに、それを欲しがってねだるだけで本気で求めちゃいない。后になったら、お願いすれば心優しい人徳のある龍華がそれを叶えてくれる? 笑わせる。そんなままごとで、まつりごとが動くと思うか? だいたい龍華になにかねだるつもりなら、どうして汚い手でもなんでも使って、もっと必死に王候補どもに喰らいつかない? 俺だったら王候補どもには満遍なく媚びへつらって使えるものはなんでも使って、斎験使には王女にも会わせろと恫喝する。代償も迷わず払ってな」

「あ、あなたになにが分かるの。男で、官人になれて、その年でそんな出世までして、そんな恵まれた人にわたしのことをどうこう言われる筋合いなんて――」

「俺はあずま。八峯雷だ」

「八峯、雷――?」


 その名は聞いたことがある。というか忘れられるはずもない。

 三年前。文水が蕾蛹の験を受けられなかったあの年、蝶位を掻っ攫っていった蟲子だ。それも、ただの蝶位内定者ではない。それまで一度も前例のない、文水と同じ平民出の。

 近頃は華弥王が平民出の蟲子を次々に取り立てていることもあって、平民出に対する視線はいくらか和らいでいる。だが、三年前――さらに言えばこの男が任官された五年前は今とはまるで状況がちがった。というか、この男によって貴族出身者だけに独占されていた花宮は、蟲子に限ってではあるが平民出の官人にも門戸がひらかれるようになったと言っても過言ではない。

 そもそも官人になるには、五位以上の貴族だけの特権である蔭位の制を利用する方法や、中下級官人の子にまで門戸のひらかれた大学寮を卒業する方法など様々な方法があるが、いずれも貴族出身の男子に限られていた。唯一、五位以上の官人三名からの推薦があれば、一切の条件なく官人登用される蛹士ようしという制度もあるにはあるのだが、もはや黴の生えた無用の長物となっている。平民がどれほど足掻いたところで、五位以上の高位高官――それも複数人とお近づきになれるはずがない。


 他の人間に馬鹿にされたところで、痛くも痒くもない。だけど実際にありえなかったはずの道を切り拓いたこの男の言葉はちがう。胸に突き刺さって棘のように深く、文水の一番柔らかいところをつらぬく。


「お前は俺が喉から手が出るほど欲しいものを持っているのに、それをどぶに捨てた。胸やけしそうに甘い屁理屈をこねて、つまらない、、、、、ことで王候補どもの不興を買ってな」

(喉から手が出るほど、欲しいもの)


 ほんの一年足らずの間だが、雷は次期蝶宰を約束されていた。いくら六花の八峯家の後見があるとはいえ、この国の頂に立つ誉れ高き最高官職に元平民が就くなどという事態は、まさに青天の霹靂だった。

 しかし常花王が雪病みにかかり、その目はついえた。

 雪病みは凶兆とされ、その王の番いとなった蝶はたとえ自身が病に冒されなくとも二度と蝶位には就けなくなる。

 つまり雷は蝶印をもっていても、もう蕾蛹の験には名乗りを上げられない。


「そういう馬鹿で考えなしの糞みたいに夢見がちな甘ったれが、俺は一番嫌いなんだよ」


 眸に激情を閃かせて、雷は唾棄するように吐き捨てる。

 苳の民のくせに、女のくせにといくらでも蔑みの目で見られたことはある。けれどこれは、そのような外側の話ではない。文水の根っこを、その生き方や思いや信条を真っ向から否定する言葉だ。


「……そんな嫌いなわたしを、どうして助けるような真似をするの」

「俺のことを詮索できるほど、上等な身の上か?」


 もっともな指摘に、文水はぐっと押し黙る。


「選べ。ここで犬死にするか、それとも俺に従うか」


 雷が差しだしたのは、確実にただの善意などではない。手放しに信用するのは危険だ。けれど、雷の言うとおり文水の掌に残された選択肢はもうそれしかない。


「わたし、は――」


 雷は微かに口の端を上げた。誘うように甘く、それでいて嵐のような烈しさをひそませた笑みに、くらりと酩酊したような感覚を覚える。

 雷は文水の答えを疑っていない。この強靭で自信に満ちた男に、文水が非を認め、全面的に屈服すると思っている。

 文水は目を伏せて、静かに口をひらく。


「あなたの言ったことは耳に痛いことばかりだし、自分がどれだけ愚かだったのかよく分かった。……だけど」


 文水は瞼を押しひらいて、強く雷を見据える。


「ひとつだけ訂正して。烏火の命は、つまらない、、、、、ものじゃない」

「は――」


 雷は口元に手をやると、腹を抱えて腰を折った。

 風雨でがたがた揺れる獄舎に、雷の狂ったような哄笑が響き渡る。


「ここまでくると、いっそおめでたいよ、お前。そのぺらっぺらの吹けば飛びそうな偽善がいつまで続くのか見物だな。――それで、返事は」

「……あなたの話に乗った。午英王女の、蝶になるわ」

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