七 囚われの蝶と雷鳴

 ぴちょん、ぴちょん、と雨漏りの音が不気味に響いている。つんと鼻をつくのは、黴臭さを孕んだ湿った空気だ。

 文水は京師の左京にある罪人のための獄舎に閉じこめられていた。


「まずいまずいまずい」

「そんなに何度も言われなくても、分かりましたって」


 緊迫した状況にそぐわない暢気な声を上げたのは、文水の隣の房に押し込まれた烏火だ。

 真っ暗なせいでよく見えないが、床にごろんと横になり、頬杖までついている。


「分かりましたって烏火! わたしたち、このままじゃ明日にはきっと梟首さらしくびよ!」

「はあ、まあ焦っても仕方ないですし、夜なんで明日に備えて少しは身体を休めたらどうですか?」

「死ぬのに備えてぐっすり快眠してどうするのよ!」


 落ちついている――と言えば聞こえがいいが、文水から見ると烏火は自暴自棄になっているとしか思えない。彼のやる気のなさときたら筋金入りだが、ここでやる気を見せずしてどこで見せるというのだ。

 こちとら左団扇の贅沢后暮らしを蹴って命がけで烏火を庇ったというのに、なんとも守りがいのない従者兼家族である。


「もう! どこか壁が脆くなってるとか、秘密の抜け穴があるとか突破口があるかもしれないんだから最後まで諦めちゃだめよ。目指すはいざ、大脱出」


 爪の中を真っ黒にしながら、文水は土くれでできた壁を引っ掻きまくる。


「お媛さん、ちょっと、いいから俺の手の届かないところで無駄なことして傷つくるのはやめてください」

「無駄かどうかは分からないでしょ!」


 文水の馬鹿でかい声とともに、ぴっしゃーんと遠くで神鳴りが鳴る。遅れて、入り口のあたりから風が吹きこんできた。獄舎の戸がひらいたのだろうか。

 文水たちの房は入り口からかなり離れた奥のほうで、周囲にほかの囚人も見当たらないので、いまいち状況が分からない。

 耳を澄ませると、かた、と微かに音が聞こえた気がした。獄吏の見回りだろうか。刑場に連れて行かれるには、まだ随分と早いはずだ。


 明日の午前中には、蕾蛹の験の始まりを告げる発願ほつがんの儀が執り行われる。その神事が終わるまでは、血が流れるような穢れを避けるはずだった。文水の首と胴が離れるのは、どんなに早く見積もっても午後だろう。

 雨のせいで時を知らせる鐘鼓の音も聞こえないが、せいぜい今は丑の刻。死ぬまでにまだ半日近くは猶予がある。


(獄吏かと思ったけど……気のせいだったのかしら)


 しばらく待っても人の気配は感じられなかった。とはいえ、万が一にも獄吏の目の前で脱獄作戦を敢行するわけにもいかない。作戦はひとまず取りやめて、冷たく湿った牢の床にお尻をつけて膝を抱える。

 手指は痛いし、おなかは減ったし、とにかく寒い。

 晴れの衣装はここまで連れてこられる間に雨と泥にまみれて肌に絡みつき、少しずつ体温を奪っていた。


 あのあと、文水は朧と、遅れて駆けつけた斗鋺に事の次第を弁明した。事実だけを述べたが、当然のように華弥王の主張が真実となった。

 朧と華弥王ははじめから共犯だったか、朧が華弥王を庇ったのだろう。後見の斗鋺と引き離されたのも、督処院の長官として弾正台を好きに動かせる華弥王の画策にちがいなかった。分からないのは、どうしてここまで強硬的な手段を取ったのかということだ。文水は放っておいたって、おのずと蝶位争奪戦から転落したはずなのに。


 斗鋺は文水たちの減刑を訴えていたようだが、月草家にまで連座で罰が及びそうになったので、すでに手を引いたあとだ。かつて気まぐれに月草の姓を与えたのと同じように、月草の名を取り上げることで、事件とも文水ともつながりを断ったという。暇を持て余した獄吏たちが、それはそれは楽しい見世物を見つけた様子で、聞いてもいないのに教えてくれた。


(……養父さまに、捨てられちゃった)


 養父を薄情とは思わない。花長としては当然の判断だ。彼には、妻も血のつながった子もいる。守るべきものがなにかは明らかだった。

 どこの馬の骨とも知れない文水は、はじめから斗鋺にとっては権力争いのための道具に過ぎなかった。道具は使えなくなれば捨てる。それだけのことだ。

 けれど、実の親の顔を思い出せない文水にとっては、斗鋺は本当の父親も同然だった。

 鼻の奥が熱くなって、文水はすん、と鼻を啜る。


「……だから大人しく、あの御子さまの言うとおりにしときゃよかったんですよ」


 なにを勘ちがいしたのだか、烏火がとんでもないことを言いだす。


「顔もまあまあ男前だったじゃないですか。俺ならありです」

「なにがありです、よ。烏火のばか! 烏火に死ねって言った人と結婚しろっていうの?」


 文水は隣の房のほうに駆け寄り、牢の間にある格子を叩く。本当は烏火の胸倉を掴みたかったが、掴めなかったのでその代わりだ。

 烏火はぎょっとした様子で文水の指を掴んだ。泥にまみれ血のにじんだそれをいたわるように、やさしい触れかただった。

 だが、その眸はなじるように文水を見つめる。


「ほんと俺の話を聞いてくれない媛さまですね。うまいこと篭絡して寵愛を得る道もあったんじゃないかって話です。ひょっとしたらあの御子さまも心を入れ替えて、苳の民の保護に動いてくれたかもしれませんよ。少なくとも他の御子よりましだったのは確かです」


 もっともらしく烏火は囁く。

 確かにそういう道がひらく可能性も、ないわけではなかったのかもしれない。でも。


「たとえそれがすべて上手くいったとしても、烏火は、戻らないわ」

「仕方のないことです。代償が必要だと申し上げましたよね?」

「仕方がないって言葉が、わたしは嫌いだわ」


 ぽつりとこぼした言葉に、烏火はちいさく溜め息をつく。


「聞き分けのないことを言わないでください」

「いいえ、絶対に聞き分けたりしない」


 文水は睨むように烏火を見上げると、言葉を続けた。


「この国じゃ、力のない人間はぼろ雑巾みたいに扱われて死ぬのが当たり前だわ。そのくせ、みんな自分で自分を納得させるのよ。苳の民だから仕方がない。貧しいから仕方がない。子どもだから、女だから、人とちがうから」


 仕方がないの前につく言葉は無数にあって、だけどすべて十把一絡げに「仕方がない」に行きつく。

 その裏にあるのはきっと、諦めだ。怒ったところでなにも変わらないから。感情的になるのは、道理も分からない愚か者のすることだから。せめてわきまえて世慣れたふりをしていれば、みじめにならずにすむから。


「わたしはそれを変えたくて、ここまで来た。仕方がないって言いたくないし、誰にも言わせたくないから。それなのにわたしは、烏火に仕方がないって言わせて、自分も仕方がないことだって言い聞かせてあなたの命を奪って、蝶后になるの?」


 それは文水のなりたかったものではない。むしろ一番なりたくなかったものに限りなく近い存在になっていることだろう。


「――お媛さん」

「だからわたしは、後悔なんかしてないわ。本当よ」


 どこか思いつめたような険しい顔をした烏火に、文水はからりと笑う。


「でもがっかりだわ。二十三人も候補がいるならひとりくらい、わたしたちに力を貸してくれる御子さまだっていたっていいと思わない? 憧れてたのよ。この人こそわたしの唯一の花だって思えるような、龍華に出逢えるのを」


 この世で唯一の至高の存在、龍華。あの奥宮で、文水は花に出逢えると思っていた。

 この人こそが、わたしの運命だと思えるような。一筋の光も見えない闇の中で光りかがやく、道しるべのようなただひとつの花に。


「だけど、わたしの花はなかった」

「――花がないなら、花にすればいい」


 突如闇の向こうから遠雷とともに響いた声に、文水は目を瞠る。

 聞き覚えのある声だった。

 どうやら先ほどの物音はやはり、誰かが入ってきた音だったらしい。

 少しの間を置いて、ぱっと火が燈る。花燭かしょくだ。斎つ花を利用した高価な燈火具である。

 ゆらりゆらりと炎に揺れる影を背に、長身の男が立っていた。

 異様な風体をしている。身につけているのは乱れのない黒の朝服。表袴を捌く優美な所作からは、育ちのよさが窺える。顔には、神紋の描かれた白布。長い艶やかな闇色の髪は一つにくくって腰に流していた。

 斎験使だ。しかも、声からすると、おそらく文水に奥宮を案内してくれた人物。


「あなたは――」


 声が擦れる。

 男は煩わしげに白布を取り去り、床に放った。

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