三 桜の花守

 文水にあてがわれたのは、こじんまりとはしているが南向きの日当たりのよさそうな部屋だった。

 湯殿ゆどので汗と泥を落としてさっぱりとした文水は、部屋に招き入れた烏火の前に正座をすると、取っておいたなけなしの菓子を差しだした。粉類に甘葛煎あまずらせんを加えて捏ね、油で揚げた文水の好物である。


「なんですか、このいかにもーな袖の下は?」


 呆れたように見下ろしてくる烏火に、文水は目を泳がせる。


「だ、だって、あんなこと言っちゃったから」


 あんなこととは、午英に蕾蛹の験を降りると啖呵を切ってしまったことである。

 刑の執行を猶予されているのは文水だけではない。文水の選択は、自分だけではなく烏火の命運をも左右するものだ。それなのに、軽はずみにあんな、命を捨てるような大それたことを言ってしまった。いや、軽はずみではなく考えての発言ではあったが、それでも烏火に対して不誠実だったことに変わりはない。


「そのうえ王女さまには嫌がられて怯えられてるし……もし王女と上手くいかなくて最悪の事態になったとしても、烏火だけは逃がせるように、きちんと策は考えるから」

「ただでさえ面倒ごとが山積みなんですから、そんなことまで考えなくていいですって」


 烏火は菓子をひとつ手に取ると、文水の口に押しこんだ。


「むう、うひょ!」


 文水はもひゃもひゃ言いながら抗議の声を上げる。こちらは真剣なのに、烏火ときたらちっとも真面目に取り合ってくれない。

 文水はなんとか菓子を呑みこむと、今度は烏火の口の中に菓子をひとつ突っこんだ。


「烏火は養父さまに雇われていたんだもの。わたしと養父さまとの縁が切れた今、烏火がわたしに仕える必要はないのよ。姿や名前を変えれば、上手くいけば……」


 雷に獄舎から解放してもらってから、ずっと言おう言おうとしてここまで言えずにいた話だ。言えば斗鋺だけでなく、烏火まで居なくなってしまうかもしれない。そう思うと、ずるいと思いつつ、なかなか口に出せなかったのだ。

 烏火はぽりぽりとうなじの辺りを掻くと、文水の後ろに回り込んで手巾を広げる。濡れたままになっていた文水の髪を包んで、わしゃわしゃと拭きはじめた。


「烏火、だからお媛さま扱いは――」

「お媛さんは曲がったことが嫌いですから、さっきのを賄賂にするわけにはいかないでしょ。お菓子のお返しです」


 烏火は冗談めかして笑うとよく分からない理屈を捏ねて、文水の髪を乾かしてくれる。布越しの仄かな熱が心地よくて、文水は烏火に頭を預ける。しばらくそれを続けてから、烏火はぽつりと言葉をこぼした。


「俺は、もうずっと昔にあんたと往くと決めてしまったんで。今さら放りだされても困るんですよ」

「……烏火」


 じわ、と目頭が熱をもったところで、障子の向こうで物音がした。


「少しいいか」


 雷の声だ。文水は慌てて目を擦ると、いつものくせで烏火に凭れかかったまま「どうぞ」と声を張った。すぐに障子がひらいて、雷が顔を出す。

 文水と目が合うと、雷はぎょっとした顔をした。なにやら物言いたげな視線が絡み、それは烏火にも飛び火したが、雷は口をつぐんでなにも言わない。


(わたし、非常識な恰好でもしてる?)


 文水は自分の服を見下ろした。とくべつ、おかしなところはない。

 髪は下ろしてしまっているが、なにがあってもいいように寝る直前まではしっかり衣を着こんでおくことにしたのだ。どちらかと言えば、雷のほうが薄い白の衣の上に大袖を引っ掛けているだけなので、幾分かくつろいだ格好をしている。

 だが、そんな些細なことより、文水には雷に言いたいことが山ほどあった。


「あなたって最低ね」

「いきなり随分なご挨拶だな」

「とぼけないで。王女のことよ。あんなたちの悪いやり方で取り入るなんて――この、すけこまし性悪腹黒男!」


 文水の渾身の罵り言葉にも、雷はどこ吹く風だ。


「俺はただ、控えめな王女さまにやる気を出していただいているだけだが」


 善行に励んでいるのに心外だとでも言いたげに、雷は勧めてもいないのに勝手に円座に腰を下ろす。

 文水はひいっとのけぞると、烏火の袖を引いて雷から距離を取ったところに座りなおした。雷の視線はなおも文水と――烏火にそそがれている。一挙一動をつぶさに観察されているようで落ちつかない。この男は斎験使の本来業務をほとんど放棄しているはずなのに、なにがそんなに気になるのだろう。


「……王女のやる気がなくなったら困るのはお前じゃないのか」

「どういうこと」

「王女が俺のために、、、、、頑張ってくださらなくなったら、どうなるかって話だよ」


 いけしゃあしゃあとよく言う。

 たしかに午英からは龍華になりたいとか、こんな国にしたいとか、そういう野心や展望は感じられなかった。ただただ雷が望むので、嫌々ながらそのとおりに文水の名前を願文に書きました、と言われたほうがしっくりくる。

 雷という拠り所をなくしたら、ひょっとすると午英のほうから蕾蛹の験を降りると言いだしかねない。


「俺は再三言ってるだろ。気に入らないなら、お前のやり方でやってみろってな」

「言われなくてもやってやるわよ。あなたなんてあとで本性がばれて、王女から幻滅されればいいんだわ!」

「俺がそんな下手を打つかよ」


 鼻で嗤って、雷は立てた膝に頬杖をつく。

 この男、いったい何をしにわざわざ文水の部屋までやってきたのか。なにかを探られている気もするが、文水には探られて困る腹などない。残念ながら文水のあらゆる事情はこの男に筒抜けだ。文水はこの男がなにを考えているのかまるで分からないのに。

 いつまでも防戦というのも、性に合わない。文水は円座をむんずと掴むと雷に近づいた。


「ねえ、雷って八峯家が後見の蟲子だったわけよね」

「今さらだな」


 八峯家といえば香散見家を主家とする春道の六花だ。今の八峯家花長は朧の腰巾着に成り下がっていると聞く。そんなお家事情から、朧や華弥王とのなんらかの関係を疑わなかったわけではない。しかしそもそも八峯家に義理立てしたいのなら、獄舎で文水を助ける必要もなければ午英を擁立する必要もなかった。そんな余計なことをしなければ、今頃龍華は華弥王で決まりだっただろう。

 となると、やはり雷は。


「本当に……王女を利用して権力を握るのが目的なの?」


 知らず、声がしぼみ、視線が畳の上を彷徨う。

 自分を助けてくれた人が、そんな私利私欲にまみれた権力欲の権化だと思いたくないというのはやはり、甘いのだろうか。


「俺はそうだとも、そうでないとも答えることができるが、どっちがいい?」


 せせら笑う声に鼻白む。

 やはりそう簡単には、真意を掴ませてくれそうにない。


「今度は駆け引きの仕方くらい覚えてくるんだな。そそられる土産のひとつでもなければ、お話にならない」


 悔しいが図星すぎてぐうの音も出ない。

 あなたが犯人ですかと聞かれて、はいそうですと答える罪人はいないだろう。

 文水がいるのは、ぬくぬくと養父が守ってくれていた蛍谷ではない。賢くしたたかにならなければ、ふたたび獄舎の闇の中に逆戻りだ。


 雷はぶすっとした文水の顔を一瞥して、立ち上がる。その拍子に、衣の袷からぽろりとなにかが落ちかけた。

 雷は器用にそれを掴みとり、文水を向いた。どうやら手にもっているのは午英からもらった花守のようだ。


「――いるか」

「はあ⁉ あなたって――あなたっていっそすごいわ」

「お褒めの言葉をどうも」

「褒めてない! 最低の最低を更新し続けてるって話よ。あなたのためを思ってつくってくれた花守くらいとっときなさいよ。人の心がないわけ?」


 怒りのあまり、ぜーはーと肩で息をしてしまった。

 でもこれで、実は裏の裏をかいて、雷が午英を大事に思っているとか忠誠を誓っているという線も消えたように思う。

 まさか想い人や忠義を尽くしている相手からの贈り物を、こんなぞんざいな扱いはしないだろう。


「桜はどうにも、好みじゃない」


 おそれおおくも龍華の血族の奉じる花を好みじゃないの一言で一蹴するとは、この男こそ不敬罪で梟首になったほうがいい。


「それにお前には、王女との縁結び祈願が必要かと思ってな」

「余計なお世話よ。必要なら自分でつくりますからお構いなく!」

「露草ごときじゃ、しおれた花が関の山だろうに」

「いちいち嫌味な男ね!」


 文水が育った月草家の奉じる露草は、朝に咲いて昼にはしぼむ。

 花守は月光に一晩浴びさせてつくる必要があるので、露草は花守には不向きなのだ。そういうわけで、文水は月草家で花守をつくったことは一度もない。


(――あれ?)


 思い返してみれば、文水は花守をつくった覚えもつくりかたを教わった記憶もない。なのにどうして、そのつくりかたを知っているのだろう――。

 あぶくのように湧いた疑問は、夜の静けさのなかにそっと呑みこまれていった。

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