五 花見庵と老人
日程の半分が終わり、いったん小休止となった。
前半戦はまるで手ごたえがなかったが、落ち込んだところでなににもならない。
(庭でも眺めて、気持ちを切り替えようかしら)
ちょうどよくすぐ近くに庵を見つける。高貴な人の屋敷にはこうした花見をするためだけの
花見客は文水ひとりのようだ。
中に入ると、壁が丸く切り取られた花見窓がある。色とりどりの花が、まるで一幅の絵のように繊細に窓枠のなかに配されていた。
右のほうだけ物寂しく空白があるのが少し気になるが、手がけたのはおそらく相当名のある庭師だろう。
(梅に椿、菖蒲に露草、萩、桔梗……そっか、これは)
「龍華が眺めるのにふさわしい、うつくしい六花でしょう」
突如響いた声にびっくりして振り返る。白髪の髪を丁寧に撫でつけた黒づくめの老人が、柔和な笑みを浮かべて腰掛けに凭れていた。
「驚かせて申し訳ありません」
「い、いえ」
文水は慎重に礼をする。
覆面こそかぶっていないが、老人は斎験使と同じ格好をしている。文水を先導してくれた斎験使とは声がちがうが、おそらく彼も斎験使のひとりだろう。
洗練された所作に、すっと背筋が伸びる。
六花出身者が幅を利かせている朝廷では、年齢が高ければ高官であるというわけでもないが、かなり高位の官人であるように見受けられた。
「蟲子殿さえよろしければ、今だけは立場を捨て置き、老いぼれの花見に付き合ってはいただけませんか」
年の頃はおそらくもう七十も近いだろうに、華やかさすら感じさせる微笑にどきりとする。若い頃はさぞや女官たちを色めき立たせたことだろう。
「は、はい。あの、先ほど龍華と仰いましたけど、ここって龍華の――?」
奥宮には、それぞれの御所の前に貴人のための庭が設けられている。この庵は御所から離れた場所にあったため、誰の庭かと思っていたところだった。
「ええ。龍華の庭です。この庭には、六蝶記になぞらえて代々八つ花が植えられてきました。もっとも今は、そのうちの二つが欠けてしまっておりますが」
文水はふたたび花見窓の向こうに目をくれる。
六蝶記には、六つ蝶が格別にめでた花が八つあったことが記されているが、その花がなんだったのかは明らかにされていない。歴代の八つ花は時代が下るにつれて何度も入れ替わったが、ここ十年ほどでうち二つの花は空位となり、今では残りの六つの花を称して便宜的に六花と呼んでいる。
すなわち、春道を治める香散見家が奉じる梅、その旗下の
おそらくこの庭には、かつて橘と松も植えられていたのだろう。だから花見窓から覗くと不自然な空白があるように見えたのだ。
文水は幼くてなにも覚えていないが、橘と松が健在の頃は今ほど苳の民も嫌われてはいなかっただろう。
それを踏まえると、この見事な庭にも少し複雑な気持ちになってくる。
「歴代の龍華が、何度も足を運ばれた庭なのでしょうね」
「どうでしょう。少なくとも先の華岏王は、この庵を厭うておられました」
どうやらこの老人は、華岏王に近しかった人物のようだ。
華岏王といえば、民草からも人気のあった名君として名高い。かつては斎つ花の威光を笠に着て、地方で暴政を敷いていた百花は珍しいものではなかったが、華岏王はこれらを粛清して綱紀を正し、八つ花の多くを別の花に挿げ替えた。
華岏王は大貴族と折り合いが悪く、側近の多くが百花のなかでも傍流や庶子の出の官人だったと聞く。そうした烈しさが初代龍華を彷彿とさせたことから六つ蝶にことのほかあいされていたと言われ、政敵の何人かは六つ蝶が罰を下すがごとく病にかかって死んだという。
平民出の男の蟲子が官人に取り立てられるようになったのも、華岏王の御代からだ。数多くの改革を断行した彼の崩御の折には、国中が悲しみ喪に服した。
変革に生きた華岏王がこの六花しか見えない庵に足を運びたがらなかった理由が、文水には少し分かる気がした。
(華岏王みたいな王候補に、わたしも出逢えたらいいのに)
残念ながら、文水はそれぞれの王候補がどんな人物なのかもいまいち分からないまま、花探しの後半を迎えようとしている。
「華岏王を見出した蝶宰さまは、どうやって自分の花を見出したのかしら」
心の中で呟いたつもりが口に出ていて、文水はあっと口を押さえる。中立公平な斎験使に向けて言うべき言葉ではなかった。
だが、老人は気分を害した様子なく、顎に手を当てる。
「案外なりゆきですかねぇ」
知ったような口ぶりに、文水は目を瞬く。
(あれ? そういえば、華岏王の蝶宰って、斎験使の長官を兼ねていたはず――)
覆面が原則の斎験使も、長官だけは名が明かされている。
まさかこの老人は――。文水の心中を読んだかのように、老人は口元に人差し指を立てる。
煙に巻くように老人は立ち去ろうとしたが、思い直したように文水を振り返った。
「ああでも、
「どういう、意味ですか」
「この花見窓から見える景色は、庭のほんの一部だということです。窓枠の外で、思いがけずまだ見ぬ花に出逢うこともありましょう」
ますます意味が分からない。
首を捻った文水を残して、今度こそ老人は庵を後にする。
「って、もう戻らなきゃ」
文水は慌てて老人に背を向けて、小走りに元来た道を駆けだす。
やがて花探しの後半の部がはじまった。
後半戦も、文水は王候補からことごとく避けられ続けた。ほとんどの王候補との面会を終えたところで、女官が小走りに駆け寄ってくる。
「失礼つかまつります。
弾正台といえば、斗鋺の勤務先だ。一応、斗鋺はこれで
かつては京師の治安維持や官人の不正の取り締まりなど華々しい活躍をしていたらしいが、その役目は新設された
月草家の花長としての仕事と兼務なので、激務でないのを喜ぶべきか悲しむべきか悩むところだ。
「はあ? こっちは御子さま方のお相手の真っ最中だ。あいつらも分かってるはずなんだがな。もうすぐ終わるから、あと一刻ほど待てと伝えてもらえるか?」
「なんでも、火急の用件とのことで、すぐにいらしてほしいとのことでしたが……」
困ったように女官が視線を彷徨わせる。
「うちに
うんざりとした顔をして、斗鋺が頭を掻く。
「養父さま、わたしは大丈夫よ。わたしに行儀作法を叩き込んだの、誰だと思ってるの?」
「……しゃあない。そこの斎験使さんよ、うちの蟲子を任せてもかまいませんかね」
「致し方ありません。終わり次第、戻られますよう」
短いやりとりのあと、斗鋺は文水の腕を掴んだ。
「用心しろよ」
ぼそっと警告のように囁くと、斗鋺は急ぎ足でその場を後にする。
斎験使が文水に向き直り、流れるような動作で礼をとった。
「次が最後の御子さまとなります」
文水ははっとして、唾を飲みこむ。
(ってことは――次にお会いするのは次期龍華筆頭候補――華弥王さま)
華弥王は、御年二十六歳。文武両道、眉目秀麗な非の打ちどころのない御子だと専らの噂だ。
正義感が強く、その昔お忍びで街に出かけた折に、人さらいに遭いかけた貧しい子どもをその手で救いだしたという逸話は夏道の農民の子どもにまで伝わっている。今では督処院長官として京師の治安維持に目を光らせており、民からの信頼も厚い。
事前に集めた調書の内容だけなら、文水も華弥王が本命だった。
(やっぱり前評判通り、わたしの龍華も華弥王さま……?)
だがそうなれば、晴央を蹴落として華弥王から選ばれなければならない。
ここが正念場だ。文水は深呼吸をすると、華弥王の庭に足を踏み入れた。
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