三 花宸殿での邂逅

 白砂の地面を薄紅の花びらが毛氈のように埋めている。一向にやむ気配のない桜吹雪の向こうから漂うのは、甘やかで芳醇な香りだ。桜と対に植えられた花の色は、白。

 花宮の正殿である花宸殿かしんでんの階の左右には、王家が奉じる桜と今は亡き正后の生家が奉じていた梔子の花が今を盛りと咲き誇っていた。

 ここは、花宮のかぐわしき秘されし園、奥宮おうぐう。龍華の后やその御子みこらが暮らす、この国でもっとも高貴なる場所だ。


 高御座に龍華の姿はない。

 本来は先王の崩御の前に次期龍華の選定が行われるのが慣例で、実は三年前にも一度、行われたことがある。しかし、文水は流行り病で予備試験を受けられず、失格扱いとなった。あのときは運命を呪ったものだが、六つ蝶は文水を見放していなかった。

 そのとき王位継承者――華嗣はなつぎの御子となったのは、年若い常花王とこはなのみこだったが、一年と経たずに彼はある恐ろしい罪を犯して配流となり、病を得て亡くなった。このことで、王位も蝶位もふたたび選び直しとなったのだ。

 しかし、二度目の選定を待たずして、華岏王は身罷られた。


 主不在の高御座に粛々と立礼を行う。

 花宸殿で必要な作法はこれだけで、このあとは場所を移動して花探し開始となる。王候補ひとりひとりに面会して、これぞと思った王候補の名を記名して提出するのが今日の流れだ。


(あの人たちって……)


 建物内に佇んでいる幾人かの異様な雰囲気の官人に、文水ははっと息を呑む。

 頭からかぶっているのは、国教である蝶道ちょうとうの神紋が描かれた布だ。おかげで顔立ちは全く分からない。

 斎験使ゆげしだろう。彼らは、龍華選定の儀を執り行うのが仕事だ。

 この花探しで番いとなった王候補と蟲子は、翌日から龍華選定に関わる最終試験となる蕾蛹らいようためしに参加することになる。そしてひと月半後に行われる、斎験使による詮議によって龍華が決定されるのだ。詮議といっても、要は多数の斎験使の票を得た者が龍華となるので、蟲子にしろ王候補にしろ斎験使の前で滅多な真似はできない。

 斎験使は龍華選定に関わるとあって、覆面が原則である。

 あんな布をかぶっていたらとてもこちらのことなど見えていないと思うのだが、まるで一挙一動をつぶさに観察されているような気がして落ち着かない。他の蟲子たちは逃げるように殿舎から退散したが、文水は高御座の背後にある障子絵に目を奪われた。


(噂には聞いていたけど……)


 描かれているのは、六蝶記を場面ごとに抜き出し図案化した作品のようだ。予備試験でも六蝶記の暗誦をさせられたが、こうして改めて図絵として眺めてみると圧倒される。

 不意に背後から足音がした。どうやら他にも斎験使の視線に耐えた蟲子がいたらしい。


「はじめに、昏き海があった。かがやく六つ蝶は海原うのはらの果てよりわたりきて、あめつちと昼と夜と花と風とを生んだという。六つ蝶は、草木や獣や人やありとあらゆるすべてを生みいつくしんだが、なかでもつ花をいっとうあいした。

 季節がめぐり、六つ蝶は海の果てへと消え去る。これにより、実りなき冬が来りて、多くの命が失われることとなる。

 終わらぬ冬に、あるひとりの男が六つ蝶がめでし花の種を撒き、ふたたび蝶がこの地を訪れるよう冀うことを思いつく。凍てつくような冬の夜に八つ花が咲き初めると、あるひとりの女の膚に蝶のしるしが浮かび上がった。男がこの女を娶ると、六つ蝶が春を告げに現れたという。男は龍花と讃えられ、この国の王となる。

 王の代替わりのたびに蝶印もちは男であれ女であれ顕れ、男はつかさに女は后に取り立てられた。六つ蝶はいつの間にか姿を消したが、終わらぬ冬は二度と訪れることはなかったという。

 花と蝶を統べしもの。それこそが龍花のあかしと、今の世に伝わる」


 得意げに響いた声を振り返れば、鼻先をほんのりと甘い梅花の香がくすぐる。見たくない顔がそこにあった。文水は、げっという言葉を呑み込む。


晴央はるひさ……さま」

「これはこれは、鳥骨の媛君殿。君のような下賤の輩が、のこのこ斎つ花宮にやってくるとはなんの冗談かな」


 象牙の笏で口元を覆いながら、嫌味ったらしい言葉を浴びせてきたのは、香散見晴央。蜂宰である香散見おぼろの末子であり、文水と同じ十六歳にしてすでに刑部省次官すけに任じられている。彼が斗鋺の言っていた香散見家のボンボン――蝶位候補筆頭だ。

 今や龍華の桜色を差し置いてもっとも貴いとすら囁かれる紅梅の朝服に、緩く垂らした癖のある色素の薄い髪。猫の目じみた榛色の眸も相まって、いつ見ても華やかな印象を受ける。十にも満たない頃に六花合同の手習いで初めて顔を合わせて以来の腐れ縁だ。

 文水はぴくぴく震える表情筋を総動員して、にっこりと微笑む。


「それは晴央さま。わたしも予備試験を通過したからだわ」


 予備試験、の言葉に今度は晴央の唇がわなわなと震え、その整った春めいた美貌が朱に染まる。文水はあっと口元を覆った。


(まずい、禁句だったわ)


 蝶位は男と女で最終的に担う役割はちがうが、争奪されるその地位はただひとつしかない。よって、蟲子の予備試験というのは、公平を期すため男女合同で行われる。

 筆記試験では記学や史学、法学、数学に至るまで、大学寮で行われる官吏登用試験と同水準の試験が課される。

 女の蟲子は筆記が大してできなくても、詩歌管弦や立花たてばなといった教養分野で得点できれば問題にされない。というか、得点できなくてあたりまえだ。筆記試験の内容の多くは后教育の範疇外である。

 では女の蟲子はなにによって評価されるかというと、すべては王候補の歓心を買えるかに掛かっている。要するに、男心を掴めるような美人であればあるほどいいというわけだ。

 そんな女には意味のない試験に文水は全身全霊で挑み、並みいる良家の子息を――今目の前にいる御曹司のなかの御曹司、晴央をも蹴散らし、見事首位の成績を収めた。

 そのことは、他家の面子を丸潰しにしたらしい。


 晴央はなんとか平静を取り戻したのか、ふたたび人を小馬鹿にした笑みを浮かべる。


「君がみんなからなんて呼ばれているか知ってる? 色気のない、勘ちがいでしゃばり女。女のくせに、文台ぶんだいにしがみついて恥ずかしくないのかな。君みたいな貧相な女、御子さま方が相手にするわけないだろう?」

(貧相で悪かったわね!)


 残念ながら晴央の言うとおり、文水の顔立ちはいたって平凡で、身体つきもよく言えばつつましく、悪く言えば女らしい丸みとは無縁の、まな板に牛蒡がくっついたようなありさまだ。せっかくの晴れ着を着こなすどころか着られているのも分かっている。


「さあね。それは分からないわ。すべて六つ蝶の思し召しだもの」


 そう言うと文水はさっと踵を返す。


「あっ、おい。僕を無視するな!」


 追いすがってくる声に、文水は内心溜め息をつく。


(このおぼっちゃま、やたらとしつこいのよね)


 なんと言って躱すべきか悩みはじめたそのとき、その場にいた誰もが深い礼をとった。

 ハッとしてそちらを見やれば、晴央と同じ艶やかな紅梅の朝服姿の御年六十くらいの男が目に入る。よく手入れされた顎髭をたくわえ、腰には宮中でただひとりしか身につけられない蜂文を織り込んだ平緒。深謀遠慮の滲む深く刻まれた皺に、ともすれば武人にすら見える恰幅のいい身体つき。


「こたびの蛹たちは、奥宮を学生がくしょうの手習いの場かなにかと勘ちがいしておるようだな」


 低く地に轟くような声と鋭い眼光に、実の息子である晴央までもが金縛りに遭ったように硬直する。

 蝶宰と並ぶ最高官職である蜂宰はちのつかさにして、六花でもっとも格式が高い香散見家花長。次期龍華の最有力候補華弥王の外祖父でもある朧である。龍華亡き今、この花宮を――ひいては龍華国を牛耳る最高権力者だ。


 文水も道の端に移動してさっと礼をとる。

 階下では次々に朧に擦り寄っている人の姿が見えた。

 今回の王候補との対面には、すでに成人して宮仕えをしている蟲子に後見の付き添いは必要なかったはずなので、朧はおそらく他家に圧力をかけるために来たのだろう。

 死んだ魚の目をして朧を取り囲むおべっかの列に加わっている斗鋺を一瞥して、彼の言っていた魔窟という言葉を思い出す。


(だけど、どんなに偉くっても六つ蝶のご意志を――神意を曲げることはできないはずだもの。過去には平民出身者も蝶位に選ばれたっていうし、とにかく真摯に誠実に王候補の皆さまとお話をして――わたしの龍華を見つける。それだけよ)

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