二 天命の蝶は后になりたい

(って、固まっている場合じゃないわ。どう考えたって言いがかりじゃないの)


 反論しようと息を吸ったところで、烏火がへらりと笑って頭を下げる。


「すみませんね、旦那。鳥骨のやらかしたことと思って、見逃してはいただけませんかねえ」

「ちょっと烏火、あなたが謝る必要はないったら。なんでいつもいつもこういうときにへりくだる――ぶっ」


 口元を押さえつけられて、文水の言葉は烏火の手のなかに吸い込まれる。そのまましぃっと人差し指を押し当てられて、文水は目を瞠った。

 見れば、騒ぎを聞きつけたらしい人々が文水たちを囲んでいる。なかには、石や農具をもった人の姿もあった。これは下手なことを言えば、袋叩きに遭いかねない。


「鳥骨が一丁前に大路を歩いてるんじゃねえよ!」


 年若い声が聞こえて、石を振りかぶられる。

 ぎゅっと目をつむって衝撃に備えたが、代わりにますます強く抱き寄せられただけだった。はっとして目を見ひらけば、烏火の手の甲から赤い血が伝っている。文水を庇ったのだ。


「烏火!」

「かすり傷です。それよか早く、花長のところへ」


 視界の隅では、また別の者が石を構えていた。


(ああもう、こういうやり方はしたくなかったけど)


 文水は烏火の前に飛び出した。

 馬借はもとより、その場にいた多くの人が目を見ひらく。彼らの視線は、隠れていた文水の姿を捉えていた。

 宝髻ほうけいに結い上げられた夜闇じみた射干玉の黒髪には、露草の意匠をあしらった釵子さいし。衣の色は斗鋺と同じ露草色で、の色は山吹。肩からは絹の領巾ひれを垂らしている。

 いつもは領民と大して変わらない格好をしている文水も、今日ばかりはどこぞの深窓の媛君か宮仕えの高貴な女官にでも見えるはずだった。


「六花色? 鳥骨の分際でなんで――」

「よう」


 動揺した馬借の肩を掴んで凄んだのは、斗鋺だ。

 露草色の衣を翻し、これ見よがしに五位以上の官人しか身につけられない象牙の笏で、ぺちぺちと自分の胸を叩いている。

 馬借はその正体を正しく認識したらしく、見る見るうちに青ざめていく。


「うちの跳ねっ返りが面倒をかけたようだが、お前さんの骨がどうしたって?」

「な、なんでもありませぇえええん!!!!」


 馬借は血相を変えて通りの向こうへと駆けていく。視界を埋め尽くすようだった野次馬も、引き波のように引いていって元の静けさを取り戻していた。

 呆気ない幕引きに、目を瞬く。文水と烏火がいくらじたばたしても意味がなかったのに、権力の効果というのは絶大だ。


「はあー、すぐに引いてくれて助かった。お偉いさんちの下男とかが紛れてたらどうしようかと思ったぜ」


 先ほどの凶悪顔はどこへやら、腑抜けた顔で斗鋺がぼやく。文水の育ての親は顔のわりに肝が小さい。

 文水は手早く懐から手巾を取り出すと、烏火の手にあてがった。真白の布がじわりと赤く染まっていく。


「烏火、わたしのせいで、ご――」


 ごめんなさいと言いかけて、口をつぐむ。その言葉は、庇ってくれた烏火の気持ちを無下にしてしまうような気がした。


「お媛さん。あの手の手合いが出てくるのは仕方のないことで、俺がとちったというだけの話ですから」

「仕方なくなんかないわよ。あんな理不尽認めたら、蟲子が廃るってもんだわ」

「お媛さんの負けん気の強さは嫌いじゃありませんが、時には怒りも吞みこまなければ、その前にもっと大事なものを失いますよ。なにかを成すためには、代償はつきものです」


 烏火の忠告に、文水はうっと押し黙る。

 烏火が先ほどあっけなく馬借に頭を下げた、その理由。あれは怖気づいたわけじゃない。すべては文水を守るためだ。

 頭ではわかっている。あそこで烏火が口ごたえをしたり馬借に殴りかかったりでもしていれば、大騒ぎになって王候補との対面どころではなくなっていただろう。

 烏火は項垂れた文水から視線を斗鋺に移す。


「だいたい、花長がいつまでも高みの見物を決め込んでいるのが悪いんです」

「ばぁか。月草が宮中でなんて言われているか知ってるか? 夏道の大貴族のお歴々がお取り潰しに遭いまくって、なぜかうっかり六花に繰り上がっちまっただけの格下弱小末席六花だぞ。あの魔窟で、俺がお前ら庇えると思うなよ」


 斗鋺は大路の北のほうに顎をしゃくる。花探しが行われる宮城、花宮はなみやまでは距離があるのだが、ここからでもその威容が窺えた。


「いい加減、自覚しろ。お前は、とうの民なんだからな」


 苳の民。またの名を、俗に鳥骨。緑色の眸をもつ、北方の冬道とうとう生まれの者を総称してそう呼ぶ。

 六蝶記むつちょうのき――龍華国神話において、六つ蝶に仇名したとされている苳の民は、蝶を食い荒らす鳥にたとえられ、建国以来なにかと槍玉に挙げられてきた。

 この風潮に拍車を掛けたのが、十年前に勃発した冬花とうか争乱だ。冬道の大貴族家が王家に反逆を企てたことに端を発する内乱である。文水も戦禍に巻き込まれ、焼野と化した冬道の街で死にかけていたところを、烏火とまとめて斗鋺に拾われた。

 その後、冬道の大貴族家は一族郎党処刑されたが、人々の憎悪はただ冬道で暮らしていただけの民草にも及んだ。苳の民は今では元の名を奪われて侮蔑的な鳥の字を与えられ、賤民として酷い扱いを受けて暮らしているのが現状だ。

 ――ただひとり、蟲子である文水を除いては。


「……分かっているけど、分かりたくないわ」


 文水は手巾に滲んだ赤を見つめて、唇を噛みしめる。


「戦を始めた偉い人たちはともかく、苳の民は、名前を取り上げられなきゃいけないようなことをした? 傷つけられて、怒ることすらできないなんて、そんなの――」


 文水は、母の顔も父の顔も故郷のことはなにひとつ覚えていない。どんな家に住んで、どんな食べ物を食べて、誰とどんな話をしていたのかも。

 だけど、彼ら皆が六つ蝶やこの国の人々を脅かす悪人だったとは思えない。ともに夏道で育った烏火は、他の誰より信用の置ける大切な家族だ。


「だからわたしはかならず龍華のお后おくさんになって、この国を変えてもらわなきゃならないの」


 それがきっと、文水が蝶印をもって生まれ、戦禍を生きのびた理由。

 六つ蝶が文水に託した、果たすべきさだめだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る