1-2 邂逅、野球部のマネージャー
野球部は生徒玄関のあるバックネット側、つまり進行方向とは逆にいる。帰りの足になっている今、わざわざ戻るのは大変億劫だ。
今は打撃練習のようで数人の守備がついているが、少し距離があるためそれなりの声で呼ぶ必要がある。
人が少ないとはいえ大声を出すのは抵抗があるな。
適当にグラウンドの中に投げておこうか、と考えながらボールを拾う。
もちろんこのまま無視して帰るという手もあるのだが、玉があったら握ったりいじったりしたくなるのが男子というものだ。ああ玉じゃなくて球か。
肩から下げていたカバンを地面に置き、ボールを拾い上げる。
使い古されているからか、少し汚れがある。歴史がある、と言った方が聞こえがいいか。
持ち上げたそれを少し弄ぶように手の中で回してみる。握りなれていないせいか変な感触だ。なんというか、革?みたいな感じだ。
中学までの野球のボールといえば軟式が一般的だったため、ゴムっぽい触り心地だった。それに比べると硬式のボールは重量感と存在感がある。これが硬式のボールというものか。そういえば個体差の他にもプロ用や高校野球用などで少し違う作りなんだったか。流石に比較したことないから違いはわからないが。
と考えながら少し回していると、やがて指の関節に引っかかってしっくりくるポジションが見つかる。
4シームという握りの位置だ。
シームとは縫い目のことで、一回転で縫い目のラインが四回くるから4シームという。ストレートという球種に使用するもので、つまり投球における基本の握りがこれだ。
そして、いい感じに手に収まったったせいで投げたいという欲求が生まれてしまった。
決して届けに行くのが面倒だという理由だけではない。男の子は丸いものを手に持ったらぶん投げたくなる生き物なんだ。
野球のボールがグラウンドに転がっているのはむしろ健全なことだ、と言い訳をして少し足を開く。
「……ん?」
そして腕を上げ、軽く助走をつけて投げ――ようとしたが、すぐに姿勢を戻した。
キャップをかぶったジャージの女子が、籠を持ってグラウンド内をネットに沿いながら歩いていた。
その姿を少し追っていると、女子は足元に転がっているボールを拾い上げて籠に入れた。球拾いをしている野球部――のマネージャー、だろうか。
ちょうどいい、あの人に渡そう。
「あのー!」
若干距離があったので少しだけ声を張る。通行人もいないので、これくらいであれば抵抗感はない。
「……?」
女子は声に反応して顔上げで周りを見回す。
そして俺と目が合うと少し首をかしげた。
「呼びました~?」
女子の少し張った声が届く。
「はい、ボールが外に」
と言いながら手に持った白球を掲げる。
「え?あ、ありがとうございます」
女子は小走りにネット際に近づく。
投げ渡す気満々だったが、近づいてくるのであればそのまま渡す方がいいだろう。ボールを投げる機会を失ってしまったのは残念だが。
俺も少し通学路を外れ、ネット沿いに女子に近づく。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ、たまたま見つけただけなので」
ボールだけに。
「ボールだけに?」
言われた。
「エスパーですか?」
「野球部的思考、ですね」
ノリがいいなこの人。
……野球部的思考ってなんだろうか。
それはそれとして、目的はボールを渡すことだ。
「下、通します」
言いながらネットを少し持ち上げる。が、意外と下側に余剰分が長く、グラウンド側に織り込まれているためこっちからでは手が出しにくい。
「すみません、そっちから――」
反対側にいる女子に頼もうとしたが、両手に籠を持っていることを思い出す。
もちろん籠を置いてもらっての対応は可能だろうが……いや、むしろそのままでいいな。
「――いえ、やっぱり上からで、よろしくお願いします」
ボールを持ったまま右手の指で空を指し示す。
「え?」
女子は何を言ってるんだ、と言いたげな顔をするが、すぐに自分の手に持つ籠を見てああと頷く。
「ばっちこい」
俺を見てニヤッと笑いながら、元気よく言った。流石は野球部のマネージャーだ。
ボールを投げる大義名分を得た俺は、準備運動がてらに肩を回しながら少し下がる。
春休み中一切体を動かさなかったせいで調子に乗りすぎて肩を痛める可能性があるからな。軽くとはいえ準備運動は重要だ。
と、いったところで思った。
大変動きにくい。
わが校の制服は男子は学ランであり、学ランは型崩れ防止のために肩回りが硬く、動きが制限されているせいで運動が満足にできない。
更にボタンは第一までとめるのが校則らしいので、このままでは大変体を動かしにくい。ホックまで留めることが強制でないのが救いだ。
どうでもいいがホックって聞くと下着の話かと思ってちょっとドキっとする。未経験男子だから。
少し面倒に思いつつ学ランの第一ボタンを外し、体の動きに制服が干渉しないことを確認する。ネクタイがないのが学ランの唯一の評価点だな。
なお、第二ボタンは縁がないだろうそこはからマイナスだ。プラマイ、マイナス。
再度軽く肩を回す。多少学ランの重さはきになるが、このくらいであれば動きに制限はなさそうだ。
ネットを見上げる。
目算で10mは超える高さに加え、あまり道幅がないので角度をつけにくい。しっかり投げないと向こう側に入れるのは難しそうだ。
気合を入れるために一度ボールを左手に投げ渡し、右手を軽く振ってから再度右手で握り直す。
ネットに阻まれようものならダサいことこの上ないからな。オーディエンスもいるし。
一度女子の方に目をやると、俺の動作をしっかりと見ていた。なんだか気恥ずかしい。
「じゃあいきます」
「はい、いつでも」
声をかけると野球の守備のように籠を構える。
軽く前方にステップして、少し高めの斜め上をめがけて振りかぶる。初めて触ったはずの硬球が、思いのほか手になじむような感覚がした。
「……っしょ」
指先で革と縫い目の感触確かめながらボールを放り出すと、思わず掛け声が漏れた。
ボールは直線を描いて空へと上がっていく。そしてネットを少し大げさに超えたあたりで上昇をやめ、着陸の態勢になる。
角度のついた投球だったため、降下地点はネットを跨いでグラウンド側になっていた。ひとまず失敗しなくて一安心だ。
「おーらい、おーらい」
声がしたので目線を正面に戻すと、女子がボールの行方を見上げていた。
投球に少し角度をつけすぎたようだ。女子は数歩後ろに下がって落下地点に移動する。
「おっと」
やがて落ちてきたそれをボフンと音をたてて籠でキャッチした。中のボールとぶつかった音だ。グローブでもバットでもないから音が鈍く、気持ちよさがないのはしかたあるまい。
「ナイスキャッチ」
大した音を立てない拍手をする。
「ナイスボール」
女子ははにかみながら籠を下に置く。
「動かないで捕ってもらえたらよかったですけどね。……あと俺一年なんで敬語じゃなくていいですよ」
学ランだと見た目で学年を判断するのは難しい。こういうときは学年ごとにラインやらリボンやらを色分けできる学校独自の制服に軍配が上がる。
「え、あ、そうなんで――なんだ」
「はい」
ちなみに俺が敬語なのは、既に野球部と一緒に活動しているから二年生以上の生徒だろうという予想からだ。そうでなくても初対面は敬語から入るタイプだけど。
「一年生か……入る部活とかってもう決まってるの?」
「いえ、特には。部活そのものに入ろうかも決まってないです」
「そっか……よかったらどう?野球部」
言われて言葉に詰まる。
入る気なんてさらさらないのだが、一対一で言われると軽くあしらうことはできない。
「……いえ、野球はあんまり」
「そっ……か。……それは、残念」
女子は少し目を伏せる。
見学くらいはすべきだただろうか。少し罪悪感。
なんと言えばいいのかわからなくて相手の反応を見る。
と、ようやくその顔をちゃんと視界に収めた。
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