名前を呼んでくれたから(1)

 演奏会本番をなんとか終えて、合宿の時期がやってくる。

 先輩方が引退して、私はパートリーダーになった。

 三泊四日の合宿は、山梨県の河口湖で行われる。二十四時間音出し放題ということで、期待に心が弾んだ。


 合宿当日の朝は早い。普段は早起きの私だが、前日に色々準備して夜更かししていたため、眠くて仕方がなかった。

 合宿中にさらう曲の楽曲分析だったり、美冬に教えるところのリストアップだったりとか、やることがたくさんあったのだ。


 他の人と話す気力もなくて、とりあえず、バスの座席を一人で占領して、音楽を聴いていたけれど、気づいたら寝てしまっていた。

 起きた頃には、もう合宿所に着いていた。


 いつの間にか、富士山がすごく大きくなっていて、なんだか怖かった。

 あまり理解されないけれど、こういう、動かない大きいものが、私は苦手なのだ。


 眠い頭のまま、昼食の会場へ向かうと、美冬と同じテーブルになった。


「あ、進藤さん。おはよう」


 美冬にそう挨拶したら、同じテーブルの拓巳と駿にも笑われた。

 寝起きだということが、バレてしまったか。


 四人でなんとなく音楽の話をしながら昼食を食べた。

 気づいたら何故か、今度四人で演奏会に行こうという話になっていた。

 駿と拓巳はともかくとして、美冬と学校外へ出かけるのは、なんだか少し楽しみだった。


 午後からの全体合奏には、部活の皆から鬼コーチと噂されている松岡先輩が、指導に来てくれる。


 鬼も何も、私からすれば、彼はちょっと厳しいくらいなもので、特に怖いとは思わない。単に音楽に対して真摯に向き合っていて、それを高校生の私達にも、真剣に伝えようとしてくれているだけなのだ。

 まあ確かに、ちょっと口が悪いところがあるのは否めないけれど。


 私としては、松岡先輩に対しては、色々と複雑な思いがなくもないのだが、それは今となってはもう、どうでも良いことだった。


「フルート2nd、十四小節目の音程が悪い。1stの音、よく聴いて」


 松岡先輩は、初心者の美冬に対しても、ビシバシと厳しいことを言う。

 初心者と言えど、フルートパートにはソロもたくさんある。今から鍛えておかないといけないから、これは愛の鞭には違いなかった。


 美冬はほんの少し涙目になりながらも、真剣に練習に参加していたが、かなり辛そうにも見える。

 念の為、サシ練の約束を入れておいて、よかったと思った。

 全体合奏が終わる頃には大分精神的に疲れているだろうから、夜には目一杯フォローをしてやろう。


「練習、しなきゃ」


 全体練習の後で、美冬がそう呟いて、ため息をついたのが聞こえた。私は美冬が楽譜に丁寧に書き込みをするのを眺めていた。


 臨時記号に大きな丸をつけたり、難しいリズムの箇所にマーカーで色をつけたり。

 楽譜には、彼女の努力の跡がうかがえる。


「美冬ちゃん、そろそろご飯の時間だよー」

「あ、うん。ありがとう」


 私がぼーっとしている間に、美冬はヴィオラパートの江利子に連れて行かれてしまった。


 ああ、また声を掛けそびれた。


 美冬の周りには、自然と人が集まる。彼女の人当たりの良さと、可愛らしい容姿が相まって、そうなるのだと思うのだが、時々困った表情をしているのだけが、少しだけ気になる。


 果たして、本当に心の底から楽しんでいるのだろうか。


 でも、すぐにその考えを頭から追い払う。私なんかにそんなこと心配される筋合いはないだろうし。

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