合宿の本番は夜からで(2)

 私の恥ずかしい頭の中はともかくとして、お風呂のあとは、須賀さんとサシ練が始まる。

 ホールでは、何人かのメンバーがそれぞれ、個人練習やパート練習をしていた。

 私達は、お互いの音がよく聞こえるように、一番隅っこの壁の近くに、場所を取る。


「昼間、注意されてたとこ、やってみようか」


 いつものようにリードしてくれる須賀さんは、まるで先輩のようで、こういうときは、つい敬語を使いそうになる。


 須賀さんの合図に合わせて、苦手な箇所をゆっくりとしたテンポで、吹き始める。

 早い指の箇所は、いつものように、ゆっくりのスピードから、少しずつ早くしていく。

 あやふやなリズムのところも、須賀さんと一緒に吹いたら、少し掴めてきた気がする。


「大丈夫? 疲れてない?」


 一時間ほど練習したところで、須賀さんが心配して声をかけてくる。


「うん、ちょっと疲れたかも。なんか、ちょっとフラフラする」


 気づいたら、目の前がちょっと白っぽくなって、ふわふわしていた。


「とりあえず、座って。寄りかかっていいから。あと、お水飲んで」


 須賀さんが、私を抱きかかえるようにして、座らせてくれる。

 それから、自分の飲みかけのミネラルウォーターを渡してくれた。一口、二口、もらう。


「練習、やりすぎたね。ごめん」


 須賀さんが申し訳なさそうに言う。


 どうやら、吹きすぎて酸欠気味になっていたらしい。

 だけど私はこの時、不謹慎にも、須賀さんはいい香りがするなぁ、などと思っていた。これは多分、ローズの香りだと思う。


「ううん、大丈夫。でも、須賀さんはすごいね。これだけ吹いてるのに平気なんだね」

「私は、慣れてるからさ。でも最初の頃は、結構酸欠になったよ。初心者の頃って、息に無駄が多いから、余計に疲れるんだよね」

「そうなんだ。私も、上手くなれば、平気になるかな」

「うん。きっと、大丈夫だよ」


 須賀さんは笑う。


「少し、顔色良くなってきたね。今日はもう、帰って寝よう」

「うん」

「立てる?」


 須賀さんが、手を差し伸べてくれる。こういう自然な王子様感、一体どこから来るんだろう。


「ありがとう」


 手を取って立ち上がる。

 顔が一瞬近づいたその時に、須賀さんが耳元でささやいた。


「美冬の音、綺麗だよ」

「えっ」


 びっくりして私がそちらに顔を向ける頃には、彼女はもう私のそばから離れていた。

 何も言ってない、といった様子で、知らん顔を決め込んで、笑っている。


 けれどその言葉を、私が聞き逃すはずがなかった。

 『綺麗』の方じゃない。名前を、呼ばれたことの方。


 身体が熱くなるのがわかる。多分、こんなことごときで、私の顔は赤くなっていると思う。

 胸がドキドキする。呼吸を整えて、言葉を発する。今しかない、と思った。


「真雪」


 呼び慣れない発音に、戸惑いながら。


 その一瞬だけ、彼女の表情が驚いたように固まったのを、私は見逃さなかった。


「ん、何?」


 すぐにポーカーフェイスを決め込んだ彼女は答える。


「ありがとう」


 私は心の底から微笑んだ。


 犬みたいに尻尾がついていなくて、よかった。きっと、振りまわしすぎて、千切れてしまっていただろうから。

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