サシ練習(1)

 それから数日後の放課後。


 今日は、二、三年生の先輩方が音楽室で全体合奏だったから、私たち一年生は、一般の生徒が帰った後の空き教室で練習することになる。


 テストが近い六月の第一週だ。一年生の教室は残っている生徒も多く、なかなか空いていない。かといって、二、三年生の教室は行きづらい。


 教室を覗きながらうろうろ歩いていると、よく知った音色が聞こえてくる。

 もう、姿を見なくたって、その人とわかる。


「須賀さん、ここ、いい?」

「ああ、いいよ」

「テスト前だから、教室混んでるよね」

「みんな真面目なんだな」


 須賀さんはどうも、真面目な子が好きじゃないみたいだ。少しだけ、悲しいような気もする。


 とりあえず楽器を出して吹き始めると、一瞬ちらりとこちらに視線を向けてくる。

 私はまた何か音を間違えただろうか。少し身構えてしまう。


「進藤さんてさ」

「えっ」


 ロングトーンを吹き終えたところで、唐突に話しかけられる。


「真面目すぎるのかな」

「そ、そうかな」

「肩、力入りすぎ」


 この間までの、不機嫌そうなテンションとはうってかわって、屈託なく笑う。


「ちょっと、ごめんね」


 須賀さんは、私の楽器をひったくると、その辺の机にそっと置いた。

 次の瞬間、私の上半身は前方に倒されて、頭を下に向けられる。腰に手を当てられて、ぶらぶら揺すられる。視界がぐらぐらした。


「えっ、ちょっと」

「しゃべらないで、力抜いて」


 為すがままにされていると、不思議と心地よくて、なんとなく力が抜けてくる。


「そのまま、腰から少しずつ起き上がって。そう、骨を一本一本積み上げるみたいに」


 言われたとおりに、少しずつ、上体を起こす。元の位置まで起き上がってみれば、なんとなく、背筋が伸びた気がする。


「よし。少しは力抜けたかな。さっきのとこ、もう一回吹いてみて」

「あ、うん」


 勢いに飲まれて、指示されるがままに音を出すと、さっきとは比べものにならないほど、素直な音が鳴った。


「嘘。なにこれ」

「ん、それが、進藤さんの一番楽に出る音ってことだね」

「唇が痛くない」

「肩の力が抜けたから、顔の筋肉も一緒に緩んだんだよ。練習前にいつも、やるといいよ」

「ありがとう! 須賀さんて、やっぱりすごいね」

「大げさだな。私も先生に教わったこと、そのままやってるだけだよ」


 自分からフルートを教えてと言ったとはいえ、いざ、指導されると不思議な感じもする。


 でも、約束を覚えていてくれたことが、なんだか嬉しかった。

 やることだけやると、須賀さんはまた、自分のポジションに戻って、練習を再開した。


 それにしても、本当に感動した。今までひとりでうなってたのは何だったのだろう、というくらいに楽に音が出たのだから。

 しかもそれは、自分の音だなんて信じられないような、まっすぐに透き通った音だった。


 須賀さんの音には遠く及ばないけど、それでも。

 自分のフルートの音を初めて、ちょっとだけ好きになれそうな、そんな予感がした。


 次の日の放課後も、やっぱり教室は空いていなくて、なんとなく須賀さんの練習している教室に来てしまった。


 夏の定期演奏会まであと二ヶ月ほど。私たち一年生はアンコールしか演奏しないから、曲の練習というのは殆どなくて、ただひたすらに基礎練を重ねる日々だ。


 特に我らがフルートパートは、二年生がいなくて、三年生二人と一年生二人の、四人だけ。必然的に指導の手は足りなくて、私も須賀さんも、先輩の手を借りることもなく、個人練習ばかりしている。


「進藤さん」

「あ、うん。なに?」

「『サシ練』のこと、先輩から聞いてる?」

「えーっと、なんだっけ」

「聞いてないか。ええとね」


 私がわかっていないことを悟って、須賀さんが解説を入れてくれる。

 話によると、我らがオーケストラ部には、代々『サシ練』という練習形態が存在しているのだという。


 同じパートの先輩と後輩が組になり、その名の通り一対一で練習をする。先輩が後輩のマンツーマンレッスンをする、というイメージだ。


 こうすることで、一人一人の苦手なところを潰して、演奏のレベルを上げていくことができる。というと、まるで塾の宣伝文句のようだけど、さすが進学校らしい、合理的なシステムだなと思う。


 この学校では、部活動は基本的に、生徒の自主的な運営に任されている。

 顧問の先生はあくまで事務的な手続きや、最後の仕上げを行う程度で、普段の練習は自分たちで管理しなさい、というわけなのだ。


 そういうわけで、私たちは本来、一学年上の先輩と組みになって練習するはずだったのだけど。

 前述のとおり、フルートパートには二年生がいない。しかも三年生は、演奏会の事務的な仕事や、自身のソロパートを仕上げるのに忙しく、一年生の世話まで手が回らない。

 さらに、私のような初心者の相手ともなると、余計に大変だろう。


「そういうわけで、私が進藤さんの練習を見ることになったんだけど、いいかな?」


 つまりは、そういうことなのだ。

 先輩たちの役割を、須賀さんは見事に押しつけられてしまったわけなのであった。


「うん、わかった。ごめんね、ありがとう」

「謝ることないよ。むしろこっちこそごめんね。先輩みたいに、うまく教えられないかもしれないけど」

「ううん、須賀さん、昨日のもすごかったし。よろしくお願いします」

 私は大げさに頭を下げてみる。

「よろしく」


 下げた私の頭を、須賀さんはこれまた大げさな動きで、ポンポンとたたく。

 やっぱり、距離感はいまいちわからない。


 でもとりあえず、須賀さんは先輩公認で、私の練習を見てくれることになった。

 サシ練習のパートナー、というやつになったのであった。

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