猫とフルート(2)

 一限目の数学を終えて、二限目の音楽の時間のことだった。音楽室での座席は一番窓側だから、真面目に授業を聞きながらも、自然と外の景色が目に入る。

 窓の外の斜め後ろに、見慣れた人影が映り込む。なんとなく、嫌な予感がした。


「進藤さん。悪いんだけど、準備室から資料を運んできてもらえますか? 入ってすぐの机の上にあるので」

「あ、はい。わかりました」


 端っこの席、かつ、見慣れたオーケストラ部の生徒である私は、先生の使いっ走りにはちょうど良いようだ。

 皆がクラシック音楽の鑑賞をしている隙に、後ろから回って音楽室から出る。

 廊下の窓からテラスが見えて、先ほどの人影の正体がわかった。


 ああ、やっぱり須賀さんだ。

 なんとなく知っていた。須賀さんは時々ああして、授業をサボってテラスにいるのだ。


 やめておけばいいのに、私はついつい窓を開けてテラスに出る。

 そこには、手すりから身体を乗り出して、今にも落下でもしてしまいそうな須賀さんがいた。

 気づけば私は、その腕を引っ張ってしまっていた。


「ねえ、何してるの?」

「……ん? ああ、天気が良いからね。涼んでるの」

「……授業、ちゃんと出ないとだめだよ」


 やっとのことで、言葉を絞り出す。恥ずかしいことに、声は震えてしまっている。

 だって手すりによりかかる須賀さんは、まるで飛び降りでもしそうに見えたから。

 落ちてしまわなくてよかったと、心から安堵する。


「そっちこそ。なんでこんなとこにいるわけ?」

「私は、先生に頼まれて、資料を取りに行くところだけど」

「へえ、まじめなお手伝いってわけか」


 邪魔されて気に入らなかったのか、不機嫌そうに言葉を返す。

 須賀さんの言葉には、少し馬鹿にしたようなニュアンスがあって、ちょっとムッとする。別に好きでお手伝いをしているわけじゃないんだけどな。


「もう、行かなきゃ。授業、ちゃんと出なよ」

「まあ、気が向いたらね」


 どうでもよさそうな顔をして、須賀さんはまた手すりの向こうを向いてしまった。

 本当はこのまま、もう少し会話をしてみたかったのだけれど、悲しいかな、生来の生真面目な性質がそれを許さなかった。

 私は先生に資料を届けなければならないのだ。


 後ろ髪を引かれる思いとはこのことだな、と思いながら、資料室へ向かい、プリントの山を持って音楽室に早足で戻る。

 帰りながらまたテラスのほうを見れば、あろうことか制服のまま寝転がる須賀さんが見えた。まるで、野良猫みたいだ。


 だめだ、こりゃ。ついつい、ため息が漏れる。

 結局、そのあと一限が終わるまで、テラスの方角が気になって仕方なかった。


 野良猫さんは、翌日もその翌日も、気まぐれなタイミングで、テラスにいるようだった。

 なんでそんなことを知っているかといえば、授業中に時々、一階の窓から四階を見上げてしまっていたからだ。


 いつのまにか、一階の窓からテラスが見える場所を、把握してしまっている。

 自分でもなぜ、そんなことをしてしまっているのか、よくわからないけど。


 多分、自分が真面目だからだ。

 一応、同じパートのよしみとして、繰り返されるサボりが心配なだけなのだと思う。


 だけどよく晴れた日のテラスは、確かに気持ちが良さそうだ。

 その日、授業が自習になったので、私はわざわざ四階にまで上がってみた。


 やっぱりそこに、猫さん、もとい、須賀さんはいて、手すりにもたれて下界を眺めている。


「あのさ。進藤さん、私になんか言いたいことあるの?」


 ……バレていた。なんとなく、気まずい。


「授業、そろそろ出たほうがいいんじゃないかな」

「いや、そっちも、同じでしょ」

「あっ」


 そうか、自習とはいえ授業中なのは、こっちも同じだった。これでは人のことは言えない。

 だけど、須賀さんの様子を探りたい気持ちのほうが勝ってしまった。


 私も意外と、真面目なんかではなかったのかもしれない。


「そんなに、私に会いたかった?」


 須賀さんは、ニヤリと笑う。

 意外な表情に、ドキッとする。


「別に、そんなこと……」

「冗談だよ。こんないい天気だもんね」


 須賀さんは、空を見上げる。

 つられて見上げた空は、やっぱり青い。


「須賀さんは、どうして授業サボるの?」

「さあね」


 答えてくれないことなんて、わかっているけど。

 それでも一応、聞いておく。


「ここ、また来てもいい?」

「お好きにどうぞ」


 真面目な私は、そのまま教室に戻ることはなく、須賀さんの隣に並んで、空を眺め続けた。

 悪いことをするのも、たまには悪くないかもしれなかった。


 

 野良猫はテラスがよほど好きなようで、昼休みや放課後の練習のときも、テラスでフルートを吹いていることが多かった。

 音が拡散しやすいテラスなのに、須賀さんのフルートは、よく響く。


「ここ、いいかな?」


 一応聞いてから、少し離れた場所で練習を始めてみる。

 授業中は来れないけど、練習時間ならと、何度も懲りずにテラスで練習する。


 私の音は貧弱だから、テラスではよく聞こえない。

 それでも涼しい風が心地良くて、やっぱりいいなぁ、と思う。

 それに、須賀さんのフルートの音は、聞いていてドキドキするほど綺麗だから、快適なのだ。


 キラキラで、透き通っていて、しっかりしているのに、繊細で。

 時折、猫みたいに気まぐれな遊び心も感じられる。

 きっとこういうのが、センスってやつなのだ。


 聞き惚れていると、ふいに須賀さんが振り向いて言った。


「進藤さん、なかなかしぶといよね」


 思わず、言い訳じみた返答をしてしまう。


「だって、私もこの場所好きになっちゃったんだもん」


 それを聞いた須賀さんは、急に笑い出す。

 こんな表情、見たことない。


「それはよかった」


 無防備に笑う須賀さんを見ていると、この人が何を考えているのか、もっと知りたくなる。


「須賀さん、あの」


 私は、つい言ってしまった。


「フルート、私に教えてくれないかな」

「えっ?」

「須賀さんのフルートの音、すごく好きで。だから」


 自分でも情けないなと思う。先輩ならともかく、同級生にそんなこと、真面目に頼むなんて。


 でも、少し間を開けて、須賀さんは、言った。


「いいよ」

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