父の経験談
壱
藤堂高虎は弘治二年(1556年)、1月6日、近江国犬上郡藤堂村 (現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪、藤堂虎高の次男として生まれた。
父である虎高は永正十三年(1516年)の生まれであり、高虎が生まれた頃には四十歳。その妻――高虎にとっては母に当たる――とらは、詳細については伝わってはいないが、名前から察するに寅年の生まれであろうか。そうなると、夫の二歳年下と思われる。
高虎は幼少期から人並み外れた体格であった。その為、当時既に壮年であった母の乳だけでは足りず、近所に住む、数人の女性の乳を分けてもらったと伝わる。三歳の頃には、既に餅を一人で五個、六個平らげてしまうほどの大食いだった。気の強い性格で、怪我をしても「痛い」などとは決して口にはしなかった。十三歳になる頃には、兄の高則よりも背が高く、筋骨隆々とした逞しい体つきであった。
高虎も当時の同世代の男子がほとんどそうであったように、戦の話に興味を持った。父の実際の体験談も生々しさを感じ、興味深かったが、それよりも興味を引いたのは、『川中島の戦い』の話である。
川中島の戦いとは、天文二十二年(1553年)年から永禄七年(1564年)にかけて、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名、
インターネットはおろか、テレビやラジオ中継もない時代のことである。当然、情報はすべて伝聞、言ってしまえば確実性の低い話である。しかし、虎高の話はそれなりの真実味を持っているように、少年期の高虎には感じられた。
何故ならば、この虎高という男は、十六歳の時、生まれ育った近江国を離れ、甲斐の武田氏に仕えた経験があるという。その時の武田氏は武田信玄の父である、武田信虎の代であった。虎高はその才を信虎から深く寵愛された。何を隠そう、虎高の〝虎〟の字は、信虎から授かったものである。
しかし、虎高はわずか二、三年ほどで甲斐から離れることになった。高虎がその理由を聞いてみても、虎高は多くを語ろうとはしなかった。ただ一言、
「男の嫉妬は怖いぞ……」
とだけ言った。
「何を馬鹿なことを……」
と、横で聞いていた、とらは鼻で笑った。高虎は長じるにつれて、よそ者のとんとん拍子の出世を他の家臣から妬まれたのだろうということをなんとなくだが理解した。ただ、戦で功を立てたり、仕事をソツなくこなすだけでは、この世の中は渡ってはいけないのだということも察した。
虎高は武田氏の居城である躑躅ヶ館で元服前の武田信玄を何度か見かけている。まだ太郎と呼ばれていた頃である。言葉を交わしたこともあるという。
「どのようなお方でありましたか」
「どことなく凄みを感じさせるようなお方であったわ」
高虎の問いに虎高は答えた。高虎としてはそのどことなくというものが何なのかと聞きたかったのだが、英雄と呼ばれる者には、言葉では形容し難い何かがあるのであろうと勝手に解釈した。
「只者ではないと思ったが、まさか父君を追放してしまうとはな……」
そう、元服した信玄(当時は晴信)は父である信虎を追放し、武田氏の家督を継いだ。そして、『風林火山』の旗の下、騎馬隊を中心とした精強なる軍団を以って、版図を拡大、『甲斐の虎』として他国から畏怖される存在にまで登りつめた。
他国の出身ながら武田氏に仕えたという珍しい経験が、虎高の語る川中島の戦いに関しても、真実味をもたらした。しかし、それだけではない。虎高は甲斐国を離れた後、越後国の長尾為景にも仕えたことがあるというのだ。
長尾為景は『越後の竜』、上杉謙信の実父である。虎高は越後での自身のことについては、詳しくは話さなかったが、やはりそれなりに頭角を現したのか、長尾氏の居城である春日山城にも何度か出入りしたことがあるという。そして、その際にまだ幼年であった謙信(当時は虎千代)を見かけたそうである。
「どのようなお方でありましたか」
「どのようなもなにも、まだ齢四つか五つの頃じゃ、なんとも言えんわ」
高虎の問いに虎高は笑って答えた。ただ、なんとなく凄みのようなものを感じさせたと付け加えた。高虎としてはそのなんとなくを聞きたいところであったのだが、明確な答えが出るものではないだろうと理解した。
甲斐の武田氏や越後の長尾氏にほぼ同時期に仕えたという稀有な経験が、虎高の語る川中島の戦いに一段と迫力を持たせた。思えば、その頃からの付き合いのある者、例えば諸国を巡る商人などからより詳しい情報を得ていたのかもしれない。情報を集めることの重要性を高虎は父の話から感じ取っていた。
戦の話だけでなく、父の語る話で興味深かったのが、『城郭』の話である。周辺を山城で囲まれた武田氏の居城、躑躅ヶ崎館、難攻不落と謳われる長尾氏の居城、春日山城などの話には何故だろうか引き付けられるものがあった。
「なんだ、与吉は城持ちにでもなるつもりか」
兄の高則はそんな高虎を笑う。
「先のことはどうなるかわかりません」
高虎はムッとして言い返す。
「いや、その心意気はたいへん結構」
虎高は酒に酔いながら上機嫌で頷くのであった。
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