妖精は夢を見ない
森野 狐
第1話 ゆりかごの中の夢
握り込んだ小刀は、持ち手のギリギリまで深く突き刺さっていた。
ミケラは突き刺さった小刀から真っ赤な血が溢れ出るのを見つめた。
そして唐突にすべての色を奪われるような感覚に襲われた。その感覚の正体を彼女は知っている。
何度も、なんども口に詰められて嚥下させられた味。
その正体は、悲しみだ。
ミケラがおもわず手元に視線を落とすと、そこには真っ赤に染まった両手があった。ミケラは反射的に小刀から離れたかったが、体が言うことをきかない。世界はあやふやな形にきしみ、体はミケラの思うようには決して動かない。
その時、名前を呼ばれた気がした。
はっと顔をあげると、見知らぬ男と目が合った。
全てを見透かすようなしずかな瞳は、紫色に濡れている。
宝石のように煌めく瞳には、ミケラの知らない感情が浮かんでいる。彼は整った眉をきつく寄せながらこちらを見下ろしていた。月明かりのように輝く銀色の髪を端正な顔にいくつも垂らし、美しい顔には不釣合いな脂汗をにじませて。
——そうさせたのは私だ。私が彼を……。
耳元でくぐもった音がする。
鼓動に呼応するように、音はうねりのような強弱をつける。
さざ波が、木々の揺らめきが、人々が大地を踏みしめる音が……。
重なりあって獰猛な獣の唸り声になって赤く弾けた。
「ミケラ、ミケラ!」
ミケラは飛び起きた。全身に冷や汗をかき、両手は痛いほど自分のドレスを握り締め、背中に鈍い痛みを感じた。肩が大きく上下するほど荒い息を繰り返し、いつものように両手の感触を確かめる。ドレスの生地は変わらず滑らかで、自分の頬や腕を掴めば感触があるとわかる。
「ミケラ、落ち着きなさい。もう大丈夫だ」
手が届く周囲を隅々まで確認して、ミケラは自分が今現実の世界にいることを確かめた。動揺して震えるミケラの頬を大きな両手が覆った。その手からは革の匂いがする。
ミケラはすがるような思いで頬を包む父の手に自分の手を重ねた。父・アレクシスはオークの木を思い出させるような深い茶髪に、知性的な翠眼を携えじっと娘のミケラを見つめている。そして労わるように何度も何度も名を呼んで、腕を摩って落ち着かせてやった。深い声色には、根拠のないことでも他人を納得させる響きがあった。
「お父様。わたしは——」
「心配するなここにいる。私とここに。少し休んで、外の空気でも吸おう。馬車を停めろ!!」
ミケラが何かを言う前にアレクシスは馬車の御者を呼びつけ、やがて揺れが収まり、扉が開いた。
「どうかしやしたか?ダブリンまであと少しですぜ?」
顔を出した褐色の肌の男は戸惑った表情でアレクシスとミケラに手を差し伸ばし馬車を降りるのを手伝った。
「少し外の空気が吸いたくてな」
「馬車は息苦しいのがいけねぇですなぁ、今飲みもんを持ってきやす」
アレクシスが馬車を降りると、御者の男よりも早く車内に取り残されたミケラに手を伸ばし、馬車を降りるのを手伝った。
ミケラが馬車から降りるとすぐに周囲から驚嘆の声と不躾な視線が降り注いだ。馬車の周りには、護衛のために十数人の騎馬隊が、カーディオン帝国の旗を掲げて囲っている。彼らは深窓の令嬢を目の前にして浮き足立っていた。
カーディオン帝国では珍しい黒髪を腰まで伸ばし、太陽を知らない真っ白な肌をしたミケラは華奢で長身の少女だった。今年18歳となったが、まだあどけなさの残る桃色の頬と、人目を奪う不思議な目の色をしていた。乳白色をベースにしたミケラの眼の色は見る角度によって色が変わる——
「あれが、"妖精の生贄"か?」
「妖精王の花嫁だ。口を慎め」
「グウィン侯爵の前で生贄なんて言ったらぶっ殺されるぞ」
「別嬪じゃねぇか、
浮き立ち、ジロジロと無礼な視線からミケラを守るように、アレクシスがミケラの前に立ち塞がり、鋭い一瞥で彼らを黙らせた。
「ミケラ、落ち着いたか?」
「はい……外の空気を吸ったらとても」
安心したように顔を綻ばせた父の表情を見てミケラは、ありがたさで胸がいっぱいになっていた。ミケラと父のアレクシスは早朝から城を出発し、<
ミケラはカーディオン帝国の北部地方<アルスター州>を統治するグウェン侯爵家の長女だ。
父・アレクシスと母・エヴリン、下には12歳の弟と9歳の妹がいる。カーディオン帝国には5つの州がある。帝都があるのは中央のミーズ州、北部のアルスター州、西部のコンノート州、東部のレンスター州、南部のマンスター州に分けられ、それぞれの州を侯爵が統治し、州をより細かく分割したそれぞれの群を伯爵・子爵や騎士団が統治をしている。
人々は統治という呼び方をするが、ミケラは"武装"だと思っている。グウェン家が住む
——ダブリンにて、三人の娘の死体が発見されました。腐乱死体です。狼、熊や
それは、昨晩コエッドビスへやってきた伝令兵の言葉だった。
男は深夜近い時間に門兵とほとんど殴り合いになりながら開門を求め、城主を起こしてまで伝令を伝えた。ミケラは中庭から聞こえる喧騒に目を覚まし、ローブを纏って騒ぎの中心である中庭を目指した。——すっかり夜は冷えるようになった。
中庭にはすでにアレクシスとエヴリン、そして幾人かの使用人や近衛兵が伝令兵を囲んで立っていた。
エヴリンは茶色の巻毛を捻って背中へ流し、柱の影に立って様子を伺っていたミケラに気がついた。そして、驚きと心配と——少しの罪悪感を滲ませた表情を浮かべてミケラを呼び寄せた。ミケラが側に寄ると「何時だと思っているの?」と心配と叱咤をないまぜにした声で問いかけ、ミケラの頬を包み、ミケラの両耳に髪をかけさせ、体に怪我がないか調べるような手つきで肩や二の腕を撫でた。
「私は
「カハル伯爵が直々にか……」
アレクシスは複雑な表情をして、伝令兵が差し出したカハル家の紋章で封蝋された巻物を受け取った。
「ミケラ、明日の朝私と共にダブリンへ」
ミケラと腕を組んでいたエヴリンの手が抗議をするように、ぎゅっとミケラの腕を握った。行かないでというようなその手の上に、自分の手を重ねて、ミケラは安心させるように撫でた。いつも母がするように。エヴリンは翠色の目に悲しみを灯してミケラを見下ろし、静かな声で告げた。
「スロージャムのサンドイッチでも作りましょう。道中でお食べなさいね」
母に肩を抱かれ寝室へ移動する最中。エヴリンはミケラにそう言って聞かせた。
スロージャムは酸っぱすぎてミケラは苦手としていたが、拒否することはできなかった。スローが妖精避けであることを、カーディオン帝国人であれば誰もが知ることだからだ。
…
ダブリンは意外にも石畳の広場を携えた大きな街だった。
街に到着すると、カハル伯爵とその一行にミケラたちは迎え入れられた。
ブライズ・カハル伯爵は細身の騎士で、ミケラの想像よりもずっと若かった——まだ30代にも差し掛かっていないだろう。首元まで伸びた無造作な赤毛はミケラが今まで見てきたどんな赤毛よりも赤く、燃えているように見えた。しかし、本当に目を惹くのはその赤毛でも、整った顔でもない。顔を横切る痛々しい傷跡だ。カハルは戦いの王を意味し、長年この土地で妖精たちと戦ってきた一族だ。
カハル伯爵は深々とお辞儀をし、アレクシスとミケラの手を取って額に当てた。その際にじっと見上げられ、ミケラは視線を逸らし頬が熱くなるのを感じた。
挨拶もそこそこに、一行はすぐさま死体を留置する場所へ連れていかれた。
三体の遺体は、もう使われていない豚小屋に寝かされていた。藁の覆いがかけられ、足だけが突き出ている状態で。
「覆いをとっても?」
「もちろん、どうぞ」
アレクシスは振り返りミケラに退室することを求めたが、ミケラは首を横に振りその場に留まった。見ておきたかったのだ——妖精と対峙したものたちがどうなるのかを。それは自分がこれからなぞる運命であるかもしれないからだ。
「……見つけた時からこの状態か?」
「はい、このままだと聞いております。——ただ、布は掛けさせました。乙女を裸体のまま放置することは騎士の名が廃ります」
カハル伯爵は一度言葉を区切り、ミケラを気遣ってから言葉を続けた。アレクシスは頷き、覆いを戻させた。
「率直に聞こう。これは、
「いいえ。この三人の娘はポドル川付近に捨てられていました。聞き込みをしたところ。娘らの母親は不義を働いたと噂が立っています。刺し傷が的確に心臓を射止めています。家畜を殺す方法と似ている……。憶測ですが、父親の腹いせに殺されたものかと」
「父親はどこにいる?」
「ロング・ポートの街道の脇で、木に首を括って亡くなっていました」
「そこまでわかっていて、なぜ私と娘を呼んだ」
低い声だった。ミケラを含め子ども達には向けない父の怒りと威厳の伴った声にミケラは怯えた。向けられた相手が自分ではないというのに。
「民が怯えているからです。ミケラ様の存在が彼らを落ち着ける唯一の手立てだと私は判断しました。どうか、ご理解を。——
——妖精はサウィンが近づくにつれて、活発化する。
夏はより暑く、冬はより寒くなっていく。それもすべて
夏の終わりが訪れると、ユグドラシルの加護は弱まり、死者と魔物と妖精の力が強まる。普段は霧の向こうの世界でじっとしている異界のモノたちは、この時期になると頻繁に人間側へ訪れて、困りごとを増やしていった。
「彼らに必要なのは真実ではありません。保証です」
「……ミケラが”妖精の花嫁”に相応しいことを、私に民衆の前で保障しろというのか?」
「はい、酷な申し出であることは承知です。しかし、そうでもしなければ民衆は納得しません。侯爵殿下も今年の不遇の数々はお耳に入っているはずです」
カハル伯爵は一切怯えを見せず、淡々と続けた。アレクシスは大きなため息をついて頷く。実際、妖精関連の報告は信じられないほどたくさんあった。ミケラを含む貴族階級の人々は、妖精に関連した事件を国民から呆れるほど聞くハメになる。多くの事件や報告は近辺の伯爵と子爵が対応するが、いくら言って聞かせても埒が明かない場合は侯爵家が対応する必要がある。
雲の上に妖精の城を見た。沼地の妖精が子どもたちを攫った。妖精が家に穴を開けて、食べ物を盗むのだ。妖精に妊婦が拐われた。妖精に殺された。妖精が、妖精が……。それは靴紐を解いたという小さなイタズラから、大きな町を暴風と大雨で洗い流したと言った大規模なものまで。あらゆる出来事が妖精と紐づけられ人間たちの間で話されている。
すべて不運な事故や人間が妖精に擦りつけただけの事件であれば対処は簡単だ。厄介なのは妖精たちは確かに存在しているということだった。
「美しいミケラ様を一目見れば、民衆は安堵の息を付けるというものです」
「カハル伯爵は、父親の私に娘を見世物にせよと言うのか」
「……仰る通りです」
アレクシスの言葉はとても意地悪な言い方だ、とミケラは思った。しかし、カハル伯爵はその汚名を顔を逸らさず受け止めた。アレクシスは若い騎士の気概に返す言葉を失い、重々しい口調で「良いだろう」と告げた。そして、ミケラに向き直った。
「ミケラ、帝国のためだ。わかってくれ」
アレクシスの顔が歪み、翡翠色の瞳に悲しみが映った。
「お父様、喜んでお受けしましょう。それで人々の心が休まるならば」
豚小屋を出ると見物人達が小屋の周りに張り付き、近衛兵たちが怒声を浴びせていた。ミケラは降り注ぐ視線を無視して
「あれが
ミケラは鉛を飲み込まされたような気持ちになった。
普段は
その日に、妖精は人間の国へ足を踏み入れる。
——妖精の王は、サウィンの日に世界で唯一夢見る乙女を攫う。
そして、その世界で唯一夢を見る乙女とは——ミケラの事だ。
ミケラは霧を見つめながら、幼少期の
この日は貴族のミケラも村人たちにまじって屋台の食べ物を食べて、焚き火の炎を真似して踊ったものだ。夜も深まり、酔っ払った大人たちが大概突っ伏して眠る頃、シャナーキーは子どもたちを焚き火のそばに集めて、小さな声で歴史を語った。
——俺たちが住むこの土地はむかーしむかし、大陸のど真ん中に聳え立つ巨大な樹木、ユグドラシルが流した緑の水によって生み出されたと言われる。だからこの土地は「
——妖精よ! 妖精のことよ!
——卑怯な
ミケラは息を潜めてシャナーキーの声を聞いていた。男の声には不思議な引力があり、ミケラに一言も言葉を聞き漏らしてはいけないと思い込ませた。
——そうさ、妖精族が住んでいる。妖精たちはいつもは、ユグドラシルの周りに流れている霧の向こう側、
きゃー! と子どもたちが声をあげた。赤毛の子どもは困ったようにあたりを見渡したが、助けてくれる親はテーブルに突っ伏してしまったのか、はたまたここにはいないのか、誰も彼に助けを与えなかった。そのうち騒いでいる子どもたちが「妖精かどうか調べよう!」「鉄で刺すんだ!」と喚くので、とうとう目に涙を溜めている。
——こらこら、お前たち。そう興奮するな。なに、大丈夫さ。人間の国には妖精はやってこない。
——どうしてそう言えるの!?
——わたしのおじいちゃんは妖精のせいでバカになっちゃったのよ。今じゃ私の名前も覚えてない!
——やれやれ、お前の爺さんはただの痴呆さ。いいかい、子どもたちよ。大昔、人間と妖精は争い続けていた。1000年間も続いた、長い長い争いだった。妖精は賢王イシュロンを殺し、その上平和を求めたグィネヴィア王女様を呪い殺した。
——許せない!
——人間たちは長い争いに疲れ、おまけに病で大変多くの仲間を失っていた。我々は不利で、いまにも人間は一人残らず殺されるところだった。そこに、グィネヴィア王女の祈りが創造主に届いたのか、妖精側から約束が持ち掛けられた。
ミケラはぎゅっと自分の体を抱きしめた。子どもたちの何人かが振り返り、ミケラを見遣った。その瞳にどんな感情が映っているのか、ミケラはちっとも知りたくないと思い、急いで俯く。
——その約束は……”100年に一度、人間の乙女を妖精王へ嫁がせること、代わりに妖精は人間に
——妖精王の花嫁は、誰がなるの?
焚き火のそばで無邪気な子どもが声を上げる。
——妖精に嫁ぐ乙女は特別な能力を持ち、決まって不思議な目の色をしている。
——その瞳は、光によって何色にも見える不思議な乳白色……そして、夜目を閉じると、”夢を見る”。
——夢って一体なに?
——俺たちは眠る時何も見ない、真っ暗な世界だけだ。しかしその乙女は実際に自分がそこにいて経験したかのように美しい世界を見るんだ。信じられないような光景を、な。
子どもたちが一人、また一人と振り返り、後方で話を聞いていたミケラを見つめた。
——その乙女は18歳になると、妖精王の花嫁となり、二度と人間の国には戻らない。
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