第8話 月に見られて月に溺れて

 しばらく博士と会話したあと、約束どおり、わたしはお風呂に入ることにした。


 わたしが眠っていた間に博士がわたしの体をキレイにしていたとは思えない。思いたくもない。

 自分が汚いとは思わないけど、心も体もすっきりすれば何かを思い出すかもしれない。早くゆっくりしたい。


 研究所にあるお風呂はどんなものかと期待が高まるも、目にしてみればなんのその。どこにでもあるような普通のお風呂だった。

 この普通というのは変わった機能があるという意味で、本当に普通のお風呂と比べれば少しは変わっていると思う。

 洗い場は広いし、浴槽は大きい。ひとりで入るには心寂しいくらいだ。

 天窓からは月が見える。無性にクロワッサンが食べたくなった。


「はぁ……疲れたぁ」


 絶妙な湯加減で、このまま眠ってしまいそうになる。

 そういえば、わたしは寝てもいいのだろうか。また深い眠りにつき、次に起きるのは数日後、数週間後、数年後。そんなことにならないだろうか。

 心配しすぎか。もしそうなるなら博士から事前に言われるはず。わたしが起きていないと実験はできないのだから。


 いや、もし深い眠りについたとして、実験が止まったとする。あの博士がそのままなことがあるだろうか。否。なにかしら口実を作って無理やり起こすに決まっている。

 せっかく気持ちよく寝ていても、勘違いで叩き起こされたらたまったもんじゃない。寝る前にちゃんと確認しておこう。


 それにしても。


「結局、何も思い出さなかったなぁ……」


 まだはじまったばかりとはいえ、脳にはかなり影響があったと思う。実感したわけではないけど、実験はそれほど濃いものだった。


 目覚めてすぐに空っぽな状態が普通だと思ったけど、今もそこに対して変わりはない。

 思い出さなきゃいけないと感じることもなければ、頭がモヤモヤすることもないのだ。

 博士という存在がいたから、わたしには思い出せる記憶があると知った。

 博士のことは何もわからない。これから思い出すかどうかもわからない。けど、博士はわたしを知っている。それだけでも、実験を続けるにはじゅうぶんだ。


『僕は五弓介だ。よろしく』

『わたしは……』


 突然ゆらめく湯気の中に、見たことのない光景が映し出された。


「……っ?!」


 男は名乗るも、手を取る女は名乗らずじまい。


 あれ……この男って、若いころの博士?

 そうだ、あの名前。顔はわからないけど、あんな珍しい名前がそうそうあるわけがない。これは高校生のころの博士だ。でもなんで急に……。


 わたしは考えすぎてそのまま湯船に沈んでいた。


「ぶるぶるぶる……ぶはっ! はぁ、はぁ」


 いきなり現れた若い博士。そして手しか見えなかった女。その手は白く、美しかった。名前を聞かなくても予想はできる。おそらく、博士が惚れた転校生だ。


 ただ、どちらも記憶にはない。それなのに、どうして見ることができたのだろう。

 もしかしたら、博士から聞いた話が頭の中でイメージを作り出したのかもしれない。いきなりそれが出てきた理由はわからないけど、今はそう思うしかない。


「エトリー、湯加減はどうだい?」

「だ、大丈夫です」

「それはよかった。長湯するとのぼせるから気をつけるんだぞ」

「はい」


 このお風呂……監視カメラがあるなんてこと、ないよね。さすがにないか。根拠もないのに疑うのはよくない。いつもは自分が入るだけだし……。


「そろそろ上がろう」


 心も体もぽかぽかになり、いくらか疲れもマシになった。

 そのあと博士に呼ばれ、少しだけ頭の中を覗かれた。問題がないか確認するだけと言っていたけど、本心はわからない。


 ——ぐぅぅぅ。


「あっ……」

「そういえば、起きてから何も口にしていないんじゃないかい?」

「たしかにそうですね。今までお腹が空くこともなかったので」

「じゃあ出前でも取ろうか」

「料理できないんですか?」

「い、いやぁ……ちょっとばかしフライパンが言うことを聞かなくてね」

「はあ」

「悪かった! 僕の負けだ。僕は料理ができない。それでいいだろ?」

「素直でよろしい」

「ふっ……これぞまさしく、とほほだな」


 目覚めてからはじめて食べたのは、そば屋のカレーだった。

 近所にあるというそのそば屋は、博士が小さいころからあるらしい。


「ここのカレーは深みのある味わいが特徴で、僕のお気に入りなんだ。毎週金曜日に必ず食べるようにしているくらいだよ」

「へー」


 パッと思い浮かんだのは海上自衛隊だ。博士と同じような習慣があるらしいけど、博士はずっと研究所にこもりっぱなしなのだろうか。


 それにしてもカレーか……。ワンピースが汚れないよう気をつけないと。



 カレーを平らげたあと、念のため博士に寝ても問題ないか確認した。


「気にせず泥のように眠るといいさ」と、まあ意味のわからないことを言ってはいたけど、何も心配せずに寝ることができるとわかっただけで、わたしの心は満足だった。


 無菌部屋には戻ることなく、別で用意された寝室に来た。

 ほんとにこの研究所はどれくらい広いのだろう。この疑問が浮かんだときには、わたしはすでにベッドの中だ。


 ここにもお風呂にあったような天窓がある。

 わたしはかわいい三日月に「おやすみ」と言い、実験初日は静かに幕を閉じた。

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