第6話 トリガー

 モスキート音のようなものが聞こえる。

 いくつかの周波数を行ったり来たりしているのがわかる。これも実験のひとつなんだろうけど、視覚となんの関係があるのだろうか。


「あのぅ、今やってることはなんの意味があるんですか?」

「え? まだ何もやってないけど」

「じゃあこれはいったいなんなんですか? さっきから耳がキンキンするんですよ」

「……もしかしたらこれかも。ちょっとマイクの調子が悪くてさ」

「あっ、なるほど」


 この耳障りな音は実験とは無関係というわけか。

 何も見えない状態では、音だけが頼りになる。だからこそ、少しの音でさえも気になってしまう。

 少し疲れた。あまり耳に集中しないほうがいいかもしれない。


 それにしても、自分の近くから発せられているであろうあの音に、博士はまったく気づかなかったのか。かなり耳が悪いのか、それとも年齢的に聞こえない周波数だったのか。あるいは、視覚を失ったことでわたしの聴力が向上したのか。


「別にどれでもいいか」


 わたしが小声でそう言うと、マイクからボンボンと音が鳴った。


「あー、あー。マイクテスト、マイクテスト。どうだろう、聞こえなくなったかい?」

「あ、はい」

「ふんっ。僕にかかればこんなもんだよ」

「……そうですね」


 科学者なんだからその程度でいい気にならないでほしい。むしろ故障していることに気づかなかった自分を恥じてほしいくらいだ。


「よし、じゃあ実験に戻ろうか」

「はい」

「その部屋にタンスがあると思うけど、その中に着替えがあったよね?」

「ありました。今とまったく同じものが」

「そうそれ。ちょっと今から着替えようか」

「は? この場で、ですか?」

「うん。それがどうかしたのかい?」

「いやいや、わかるでしょ! 博士が見てたら着替えられませんよ!」

「あそっか。ごめんごめん。じゃあ着替えが済んだら呼んでくれ」

「ほんとに見てませんか?」

「見てないよ」

「じゃあこれはなんですか?」

「それはイスだね」

「やっぱり見てるじゃないですか! このド変態!」

「おいおい……そっちから聞いておいてそれは理不尽だろ」

「……いいから呼ぶまでどっか行っててください!」

「はいはい」


 博士の声が聞こえなくなってから少しだけ待ち、わたしは新しいワンピースに着替えた。

 タンスまで歩き、そこから取り出して着替える。たったこれだけの動作でも、何も見えない状態ではかなり難しかった。どこかにぶつかってケガでもしたら。そう思うだけで、萎縮するのがわかった。


 それにしても、わたしはなんであそこまでムキになったのだろう。

 相手はただの博士だ。わたしを介抱していた時点で、服の下なんて見ているはず。

 わたしの中に生まれたもの。あれは明らかに嫌悪感だった。過去にトラウマがあり、それに反応したのかもしれない。


「博士、もういいですよ」

「……ずいぶんかかったね」

「見えないんだから当然ですよ」

「まあそうか」

「それで、着替えさせた意味はなんですか?」

「君はなんでもかんでも意味を聞きたがるね。少しは自分で考えたらどうだい?」

「はぁ?」


 右のこめかみ部分からピキッと音が鳴ったような気がした。そろそろ堪忍袋の限界が近いのかもしれない。

 ただ、博士の言うことももっともだ。わたしの記憶を戻すためには、わたし自身が頭を使わないと。


 着替えさせた意味。

 普通に考えれば、さっきまで着ていたものが古いから新しいものに替えただけ。ただ、それならここに着いたときにその指示を出しておけばいい。

 わざわざ今になって着替えさせたのは……わたしに頭を使わせるため?


「その顔、どうやら答えが出たようだね」


 またそれか。でも、今はわたしの顔がどうなっているのか、それはどうでもいい。

 自分の考えが合っているのか。それだけが知りたい。


「何も見えない状態で着替えさせることで、いつもは使っていない脳の領域を使わせる。それによって生まれた刺激で、わたしの脳の変化を見たかった。そういうことですか?」

「正解だ」

「それで、何か変化は見られましたか?」

「なんだ喜ばないのか……。せっかく自分で考えて答えを出したというのに」

「わたし、子どもじゃないんで」

「見た目は子どもだけどね……」

「何か言いました?」

「いやぁ、なんでもない! えっと、変化についてだけど……部分的に活性はしているようだ。君のほうでは何か変わった感じはしないかい?」

「そうですね……ちょっとだけ気分がよくなったように思えます」

「ほう、それはよかった」

「だからといって、何かを思い出すことはないですけどね」

「うーん、じゃあまた別の方法だな」


 そのあと、わたしは博士に言われたものをいくつか試した。

 テーブルを持ってみたり、イスに座ってみたり。ベッドの上で飛んでみたり、ベッドに入って寝てみたり。

 どれも見えない状態でやるのはかなり苦労した。ただそのおかげか、手足の感覚が鋭くなっているような気がした。重たいものを持つときや座っているときの手足の位置。空中での手足の動きなど。目が見えていたときよりもはっきりわかるようになった。

 最後に関しては目を閉じるから普通と変わらないと思ったけど、目を閉じたとき、開けていたときと変わらないことに強い違和感と恐怖を覚えた。


 結局、わたしの脳に変化はあっても記憶が戻ることはなかった。ただ、学ぶことは多々あったと思う。

 見えることがどれだけ幸せなのか。この短時間でもじゅうぶんわかった。


「ちょっと休憩しようか」

「はい」

「いったん戻すから、少しじっとしていてくれ」

「わかりました」


 これからわたしの脳に特殊な電磁波が流される。それによって、視覚機能が元に戻るわけだ。

 少しでも動いたら、別の領域に電磁波が流れてしまうのだろうか。もしそうだとしら、かなり危険だ。しばらくは動かないでおこう。

 そういえば、いきなり視覚を奪われたとき、わたしは動いていただろうか。それとも止まっていただろうか。今となってはどちらでもいいけど、やはり博士は奇人だ。


「あれ……?」


 気のせいでなければ、聞きたくない声が聞こえたような……。


「おかしいな……」


 やっぱり聞こえる。追加情報も込みだ。


「あのぅ、どうしたんですか? まさか……戻らないとか?」

「ははっ、そんなことはないぞ! ただちょっと今はおかしいだけだ!」

「なら戻らないじゃないですか! どうするんですか! 盲目のままなんて嫌ですよ!」

「まあまあ慌てなさんな。すぐになんとかするから、しばらく好きにしていてくれ」

「好きにしろって……どこが天才なんだか……」


 わたしは呆れて何をする気にもなれなかった。

 せめて心を落ち着かせようと、空で横になって雲にでもなろうと思った。今は雨雲になるかもしれないけど。


「あっ、まただ……」


 こんな状況で、わたしの頭の中にまた謎の詩が流れ込んできた。

 そしてわたしの口は、まるで他の人のものになったかのように勝手に動き出した。



 *

 夢追い人に焦燥感

 時期尚早と傀儡かいらい崩れる


 ご覧ください閻魔大王

 大器が円満とは思えません

 *



「……終わった……?」


 以前よりもかなり短い。ただ、前よりも意味は理解できる。

 これはわたしの心の声なのだろうか。いや、だとしたら意識と乖離かいりするのは変だ。やっぱりわたしの中には別の誰かがいる気がしてならない。博士はああは言っていたけど、あのあと様子がおかしかったから、まだ決めつけるのはよくない。

 これこそまさに時期尚早だ。


「あっ……!」

「よかった、戻った戻った!」


 またもなんの前触れもなく、わたしの視覚は元に戻った。

 ようやくと思ってしまうのは、それだけ光が恋しかったのだろう。


「また何も言わずにやっておいて、よかったじゃないですよ!」

「ごめんごめん。でもなんで急に戻せたんだろう……」

「天才が聞いて呆れますよ」

「天才にだってわからないことはあるさ」

「……ですね」

「それより、僕がいない間に何か変わったことはなかったかい?」

「ありましたよ。前のと同じように詩が頭に流れ込んできました。今回のは短かったですけど」

「ほう、なるほど……。はっ、もしかしたら……」

「なんですか、そのもしかしたらって」

「その詩って、君の意識とは別なんだったよね?」

「はい、そうですけど」

「やっぱり。まだ確実にそうとは言えないけど、おそらくその詩がトリガーだね」

「トリガー?」

「ああ。君の状態は特別だって前に言ったけど、それが今回の実験にも影響しているようなんだ」

「はあ」

「普通なら最初と同じように電磁波を流せば戻るところが、そうはならなかった。ただ、君の頭に詩が流れたあとで君の視覚は元に戻った。これは関係していると思わずにはいられないよ」

「なるほど、あの詩が……」


 でもそうなると、消した感覚は詩を歌わないと戻らないということになる。あの詩はわたしの意思ではないから、いつ戻るかわからない状態で実験を続けないといけないのか。

 はたして、わたしにそんなことができるのだろうか……。

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