第5話 無言の消失
猛烈なため息とともに博士に従うと決めたわたしは、目覚めてからずっといた真っ白な部屋を出た。
廊下は暗く、よくわからないものが散乱している。博士は片付けが苦手なのだろうか。
今は実験部屋とやらに向かっている。
まだこの施設の全体像を知らないわたしは、ただ博士の背中を追うことしかできない。
「そういえば、さっきまでわたしがいた部屋。あそこはいったいなんだったんですか?」
「あー、あれは無菌部屋だよ」
「無菌部屋……?」
「免疫力の低下が著しい状態の人が安全に過ごせる場所さ」
「今のわたしってそんなに免疫力ないんですか?」
「普通の人に比べたら低いけど、心配するレベルではないよ」
「じゃあどうしてそこにわたしが?」
「念のためだよ」
なんだろう。今の笑顔に少しだけ引っかかった気がする。昔どこかで見たような、そんな懐かしい気持ちにも似ていた。
頭の中は空っぽでも、心と体が覚えているのかもしれない。今はそう思っておこう。
「ここだ」
そんなこんなでわたしたちは実験部屋に到着した。
中に入ってみると、特に変わった感じはしない。どこにでもありそうな普通の部屋だ。
タンスにテーブル。イスにベッド。前の部屋と同じで窓はないけど、それぞれに色があって過ごしやすい気がする。
さて、ここで行われる実験とはいったいどんなものだろうか。
「おっと、忘れ物をしてしまったようだ。悪いけど、ちょっと待っててくれるかい?」
「わかりました」
博士が部屋から出たあと、わたしはタンスに目を向けた。優しい木目調が心を癒してくれる。
中には白いワンピースがいくつか入っていた。わたしはずっと同じものを着ることになりそうだ。
テーブルとイスはセット品なのか、どちらも焦げ茶色に染まっている。ふたつでひとつの存在は、見ていてなんだかほっこりする。
ベッドは全体的に空色でまとまっていて、わたしが入れば自分が雲になったような気持ちになるだろうと思った。
もうかれこれ十分くらい経ったか。博士はどこまで忘れ物を取りに行ったのだろう。
そもそも本当に何かを忘れたのだろうか。あるいは、わたしがこの部屋にいることを忘れてしまったのかもしれない。
「……えっ?!」
博士の心配をしていると、いきなり目の前が暗くなった。
ここまで短い時間ではあったけど、目覚めてから早くに動いたせいで脳に大きな負担がかかり、意識を失ってしまったのだろうか。
わたしはおもむろに指を
「……ちがう」
そもそも意識がないなら、考えが頭の中に流れ込んでくるはずがない。
じゃあどうして真っ暗なのか。
なんの前触れもなく起こったことに、わたしは軽くパニックになりかけた。ただ、すぐに原因が頭に浮かんだ。電力供給の遮断——停電だ。
施設の規模がわからないからなんとも言えないけど、他にも同時進行で実験が行われていて、電流過多でブレーカーが作動したのかもしれない。
ここまで暗くなるものだったかは定かではないけど……。
それにしても、こんな状況なのに博士はいったいどこで何をしているのだろう。
「すみませーん!」
なるべく大きな声を出してはみたけど、部屋に響くだけで外まで通っているかがわからない。
何も見えない以上、動き回るのは危険。このまま博士が来るのを待っていよう。
そうしてしばらく待ってはみたものの、博士も来なければ、状況がよくなることもなかった。
「おかしい……」
そこでわたしは異変に気づいた。
ある程度の暗さであれば、時間の経過とともに目が慣れるはず。にもかかわらず、わたしの目はいまだに光を感じない。
例えようもないこの感覚に、ぶるっと鳥肌が立つ。
「これは……」
これは停電なんかじゃない。わたしの目に原因があるのだ。
突如として視覚が機能を停止した理由が、今のわたしには見当もつかない……。
「あっ」
とうとうわたしは気づいた。これが博士の言っていた実験なのだと。
そしてだんだんイライラしてきた。何も言わずにいきなり実験をはじめるなんて。
「博士! いいかげん出てきてください!」
「……ははっ、やっぱり気づいたか。ごめんごめん」
わたしがとびきりの大声をあげると、博士の声がすぐに聞こえた。ただ、そばにいるようには思えない。どこか離れたところから、マイクを通して話している感じがする。
それより、おちゃらけた雰囲気にさらに腹が立った。こんな人が科学者を名乗っていいのだろうか。
「どこにいるんですか! いきなりはじめるなんて鬼畜の所業ですよ!」
「口が悪いな。これも実験内容のひとつだったんだから仕方ないだろ」
「どういうことですか?」
「まずわかってはいると思うけど、君の視覚は今、完全に機能を停止している。五感の中で最初に消える対象だったのは視覚だったわけだ」
「はあ」
「最初からどの感覚が消えると言ってしまっては、脳に与える刺激が少なくなってしまう。せっかく新たな試みをやるのに、それだともったいないだろ?」
「もったいないって……」
「だってそうじゃないか。二回目以降は消えたことに気づけてしまうから、一回目の衝撃を超えることはできないんだよ。僕から説明があるはず。そう思っている最初が肝心だったってわけさ」
「……はぁ」
博士はできることはやっておきたい主義なんだろう。だからこそ、このような愚行がまかり通るのだ。
ただ、博士はわたしの記憶を戻すためにこの行動をしたわけで、言っていることは納得のいくものでもある。
簡単に納得してしまう自分に腹が立つけど、博士のことを悪く思うのは愚考なのかもしれない。
「それで、何か思い出した?」
「いえ、まったく」
「そうか……まあそう簡単にはいかないよな」
「遠隔で電磁波を流せるくらいだから、わたしの脳が今どうなっているのかもわかりますよね? 何か変化が起こっているとかはないんですか?」
「視覚の領域が完全に止まっていること以外は、特に何も変化が見られないね」
「そうですか……じゃあ実験失敗ですね」
「いやいやいや、なにを言うか! まだはじまったばかりだよ」
「でも、視覚の実験はもう何もできませんよね? もう他の感覚の実験に移るってことですか?」
「ちがうよ。今はただ視覚機能を一時的に消しているだけだから、これから他の刺激を与えてみるのさ」
「他の刺激……?」
「そう。そこはそのための実験部屋でもあるんだから」
そうだ。ここが実験部屋だということをすっかり忘れていた。
それにしても、この部屋にあったものといえば……タンスにテーブル、イスにベッドくらいだったはず。それらが実験でなんの役に立つのだろう。
「じゃあまずはこれからやろうかな……」
そんなことを考えていると、博士が何かを決めたようで、キーンという音が耳に響いてきた。
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