第3話 少女の名はエトリー

 博士は無理やり話を長引かせようとしている気がする。

 そんなに自分のことを知ってほしいのだろうか。それとも、ただ話し相手がほしいだけなのだろうか。

 まあでも、わたしには関係のないことだ。博士のことを知る必要があるとも思えない。

 わたしはただ、早くわたしという存在を知りたいのだ。


 これ以上は限界だと思い、わたしは博士の話を止めた。


「じゃあ次はわたしの番です」

「ん?」

「博士はわたしのことを知っていますよね?」

「君のこと?」

「はい。わたしはどこから来たのか。わたしは何者か。わたしはどこへ行くのか」

「え、なに、ゴーギャン?」

「聞きたいことと合っていたので」

「おもしろいな」

「では順番に教えてください」

「まだ君のことを知っているとは言ってないけど?」

「……」

「わかったわかった! 教えるからそんな顔しないでくれ」


 またそれか……。

 今度はどんな顔をしたのだろう。自分を知ることができば、それもわかるようになるのだろうか。


「じゃあまず、君がどこから来たのか」

「はい」

「これについては今は言えない」

「またですか」

「悪いね。でもこれは君のためなんだ」

「はあ」

「ここに来たばかりのときにも言ったけど、今いろいろ教えると混乱してしまうから」

「それはわたしの記憶がないことに関係してますか?」

「ああ」

「そうですか……」

「んじゃあ次、君が何者か」

「それも今は言えないとか、言わないですよね?」

「君はエトリーだよ」

「えっ……エトリー?」

「そう。君の名前」

「わたしの名前……」

「なんで知ってるかは聞かないでくれ。今はまだ、としか言えないから」

「……わかりました」


 わたしはエトリー。エトリー……。

 自分の名前と言われても、やっぱり何も思い出せない。

 それでも、何もわからなかったときよりはいい。

 頭の中で響く、わたしの名前。エトリー。

 うん、気に入った。


「んじゃあ最後、君がどこへ行くのか。どこへ行くのか……? どこへ行くのだろう……」

「なんですかそれ」

「いや、君がどこへ行くのかは、君次第だなって思ってさ」

「たしかに……」

「この質問に意味があるのかね」

「わたしの今後がどうなるか。そういう意味ではどうですか?」

「君の今後か。それはこのあと話すつもりだったよ」

「あっ、そう……」

「君にはやってもらわなきゃいけないことがあるからね」

「……それ、変なことじゃないですよね?」

「変っていえば変かもね」

「え」

「でもこれも君のためだから」

「また……」

「まあまあ。他に聞きたいことはあるかい?」


 これは聞いてもわからないだろうけど、わたしは聞かずにはいられなかった。


「どうしてわたしは空っぽなんですか?」

「それはなぜ記憶がないのかってことだよね?」

「はい」

「うーん……どこかに落としてしまったんじゃないかな」

「ふざけてます?」

「いやいや。記憶というのは難しいのだよ。忘れたくても忘れられないこともあるし、忘れたくなくても忘れてしまうこともある。見ただけですべてを覚えてしまうこともあれば、脳にまったく異常がなくても、その日の出来事をすべて忘れてしまうこともある。まさに神秘なんだよ」

「はあ」

「君だって、少しは思うことがあるんじゃないかい?」

「え?」

「例えばそう、ゴーギャン。君は君自身を忘れてはいるけど、直接的に関係のないことは覚えているだろ?」

「それは……覚えているというか、パッと浮かんできたというか」

「そう、それだよ。意識していなくても勝手に出てくる。もっとわかりやすいものでいえば、ペンの使い方や自転車の乗り方かな。ずっと使っていなくても、ずっと乗っていなくても、忘れることはないだろ?」

「たしかに……」

「ここで最初の答えに戻るけど、どこかに落としたっていうのはあくまで比喩的ものであって、物理的に落としたわけじゃないんだよ。君の記憶にないどこかで、君の脳に刺激を与える何かが起こり、君はその場所で記憶を落とした。そう考えれば、意外と納得できると思わないかい?」

「うーん……」


 うまく丸め込まれているような気がする。

 ただ、記憶を落としたという表現には妙に納得がいった。わたし自身が気に入ったのか、それともわたしの中に眠る別人格が気に入ったのか。

 どちらにしても、これは新しい発見になった。


「まあそこまで気にする必要はないさ。いつか納得できる日が来るよ」

「そう、ですかね」


 博士を信じるわけではないけど、わたしは人間の神秘とやらに少しだけ期待することにした。


「他には何かあるかい?」


 これも博士が答えられるかわからないけど、ついでだから聞いてみよう。


「博士は少し前に『見た目と中身が異なることは誰にだってある』と言いましたよね?」

「ああ、言ったね」

「ではわたしがなぜそうなっているのかを教えてください」

「えっ……?」

「わたしは見た目が少女でも、中身はそうではないんです。どう考えても、少女の発言とは思えないからです」

「ああ……」

「どうなんですか? 博士なら何か知っているのではないですか?」

「知ってはいる。だが、今は言えない」

「そうですか……」

「ただ、別の人格があるわけではない、ということだけは言っておくよ」

「えっ」


 それはつまり、わたしはわたしだけってこと?

 じゃああれはなんだったんだろう……。


「何か引っかかることでもあるのかい?」

「……目が覚めてしばらく経ったあと、わたしの頭の中にうたが流れ込んできて、口が勝手に動いたんです」

「詩……?」

「はい」

「そ、そうか……まさか……いや、そんなことは……」

「何か引っかかることでも?」

「いや、なんでもない」

「?」


 今のは絶対に何かを隠した。博士は何かを知っている。

 いや、わたしが言うまでは知らなかった。わたしが言ったことで、思い浮かぶことがあったのだろう。

 かなり気になるけど、どうせ教えてはくれないか。


「そろそろ僕のほうからも話をしたいんだけど、他に何か聞きたいことはあるかい?」

「じゃあ最後にひとつだけ。わたしが記憶を落としたであろう状況がまた訪れたとしたら、わたしの記憶は元に戻りますか?」

「……絶対に戻る、とは言い切れない」

「ですよね……」

「ただ、僕がこれから話す君の今後について。それが脳に影響を与えることは確かと言える」

「さっき言ってたやつですね」

「ああ。少し……いや、かなり驚くかもしれないけどね」


 驚くことか。目が覚めてから今まで何度もあったような気はするけど、博士の言うとおりわたしの脳に影響があるなら、それはやらないといけないことなんだろう。

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