第2話 五弓という博士

 誰だかわからない声が耳に残っている。あの声が部屋に響いてから、しばらく何も変化がない。

 もしかしたら幻聴だったのかもしれない。


 ——プシュ。


 自分の耳を疑っていると、鏡の横側から暗い光が差した。この部屋が異様に白いから、光とは言えない黒が逆に光って見える。

 そのまま黒が侵攻すれば、わたしも黒に染まるのだろうか。


 思考が闇へと引き込まれそうになるなか、黒の中から白の人影が。

 白衣を身にまとっているからか、黒に近い深緑の頭が目立っている。

 中年くらいだろうか。老けているわけではないけど、若いわけでもない。ただ、なんとも言えない落ち着きを感じる。


「気分はどうだい?」


 あの声だ……。この人が、あの声の持ち主だ。

 わたしはどう答えるべきなのだろう。

 少女らしくあるべきか、心の中のわたしであるべきか。

 この人には少女にしか見えないはずだから、やはり少女らしく振る舞うべきか。


「だいじょうぶ」

「ふっ、そうか」


 今ので大丈夫そうだ。これからは中の自分が出てこないよう注意しないと。

 それより、中の自分という表現はあまりいい気がしない。

 わたしが何者であるか、それはわからない。ただ、ここにいるわたしはわたしなのだ。

 見た目が少女でも、中身は大人。それでいいじゃないか。


「無理しなくていいぞ」

「えっ……?」


 まさか、子どものフリをしているのが……。


「まだ目が覚めたばかりだろう。もう少し横になっていたほうがいいんじゃないかい?」

「あっ、うん」


 いらぬ心配だった。

 この人はわたしに気を遣っていた。ただそれだけ。

 ボロが出ないよう早々に布団に入り、わたしは男を見上げた。


「あっ、そうそう。僕の前では普通にしてくれてかまわないよ」

「……へ?」

「見た目と中身が異なることは誰にだってあることだからね」

「あっ……」


 バレていた……。

 いや、ちがう。この人はわたしを知っている。だからそんなことが言えるのだ。でなければ、今がでないことがわかるわけがない。


「ははっ、そんな顔しないでくれ。僕は怪しい人間じゃない」


 そんな顔……?

 わたしは今どんな顔をしていたのだろう。

 この人が自分を怪しくないと言い出したのは、わたしが怪しんでいるように見えたから。

 たしかに怪しくないと言えば嘘になる。ただ、まったく知らない人を怪しまずにいられる人間はいないだろう。

 わたしは普通でいたまでだ。


「ではあなたはいったい誰なんですか?」

「僕は五弓ごきゅうたすくだ。聞き覚えはないかい?」

「まったくもって」

「そうか……まあいい」


 今ちょっとだけ……ちょっとだけだけど、悲しそうな表情になった気がする。

 でも、ただの気のせいかもしれない。はじめて見た人の機微なんて、今のわたしにわかるわけがない。


「簡単にだが、今から僕のことを少しだけ教えよう」

「少しだけ?」

「ああ。最初からいろいろ教えると混乱するだろうからね」

「はあ」


 含みのある言い方だ。

 五弓さんは有名人か何かなのか。それであれば悲しげな顔をしたのも頷ける。

 僕はまだまだだなとか、そんなことを思っていたのかもしれない。

 気にするだけ無駄か。


「まず、僕は科学者だ」

「科学者……見た目どおりですね」

「白衣を着てたらみんな科学者だと思ってないかい?」

「そんなことないですよ。ただ、あなたの見た目が博士のようだと思っただけです」

「博士か……いい響きだな。よし、これからは博士と呼んでくれ」

「……わかりました」

「ほう、意外と素直だね」

「どうでしょう。わたしはわたしがわからないので」

「ははっ、そうだろうね」

「……」


 やっぱりこの人はわたしのことを知っている。この人に聞けば、わたしが何者なのかすぐにわかるかもしれない。

 自分語りが終わったあとに聞いてみよう。


「幼いころ、僕はどこにでもいる普通の人間だった。あっ、今も普通だけど、その……科学に興味のないって意味ね」

「はあ」


 幼少期から今までの話をするつもりなのだろうか。

 これは長丁場になりそうだ。


「じゃあいつ興味を持ったかわかるかい?」

「いえ。それについてはまったく興味がありません」

「まあそう言わずに! これも大事なことなんだから」

「大事なこと……?」

「おっと……口が滑ってしまった。今のは忘れるか、頭の片隅にでも置いといてくれ」

「はあ」


 なんだろう。ちょっと気になる。ただ、ここで止めても話が長くなるだけ。博士の言うとおり、今は忘れておこう。


「では話に戻るが、僕が科学に興味を持ったのは高校生のとき。ある日、ひとりの女子生徒が転校してきて僕がいるクラスに入ってきたんだ。その子は髪や肌や瞳までもが本当に真っ白で、例えるなら雪女が妥当だろう。僕はその子を見たとき外国人だと思った。それほどまでに美しかったんだ」

「……」

「あ、いや、日本人が美しくないってことじゃなくてね。なんというか、異質だったんだ。もちろんいい意味でね」

「はあ」

「僕は休み時間になるとすぐにその子に話しかけた。そして知ったんだ。その子は生まれつき真っ白なのだと」

「それって……アルビノ?」

「僕も最初はそう思った。でもそうじゃなかった。医者によると、身体にはまったく問題がなかったらしいんだ。世界的にも例のない特殊な存在。僕はそこに惹かれた」

「好きになったということですか?」

「最終的にはね。でもここで僕が言っているのは科学にって意味さ。いわゆる生物学だね」

「あっ、なるほど」

「世界にも知られていない事象を解き明かしたら、いったいどれだけうれしいだろうか。そう思った僕は科学の沼にハマり、暇さえあれば研究をするようになった」


 運命の出会いというやつか。

 わたしにそんな出来事はあったのだろうか。もしそんなことがあったとすれば、また同じような出会いがあればわたしの記憶は元に戻るのだろうか。

 これもあとで聞いてみよう。


「僕がどんな研究をしてきたか、それは言えない」

「えっ」

「言えなくはないけど、今は知るべきではないのさ。知ってしまえば、今後の動きに支障が出るからね」

「じゃあ言わなくてよかったですね」

「ははっ、厳しいな」

「それで、今後の動きというのはなんですか?」

「それについてはあとで話すよ」

「はあ」

「といっても、これ以上はあまり話さないほうがよさそうだな」

「いつかボロが出そうですからね」

「あはは……。そ、そうだ。ここまでで何か気になったことはあるかい?」

「博士については特にありません」

「ああ、そう……。ちなみにだけど、ここは病院ではないよ」

「記憶はなくても、あなたが自分を科学者だと言った時点でそれくらいはわかりますよ」

「まあそうだよね」


 このあと、博士は思い出したかのように自分の過去を話した。

 科学に興味を持つ前。つまり中学生までの博士について。


 低学年のころは戦隊アニメに時間を使い、よく真似をしていたそう。正義とは何かを教えてもらったらしい。

 中学年になるとそれは落ち着き、今度はボードゲーム。戦略的思考を学んだそうだ。

 高学年ではスポーツに励み、体力が尽きるまで毎日のように体を動かしていたとのこと。何かを続けるためには体力が必要だと本能的にわかっていたらしい。本能的に……。

 ただ、正義のヒーローやスポーツ選手になりたいと思うことはなく、そもそも夢について考えることもなかったと博士は言った。


 ここまで聞いて、わたしは博士が普通ではないと感じた。自分では普通と言っていたけど、こんな小学生が他にいるとは思えない。

 どんな小学生がいるかはわからないけど、少なくともわたしの感覚では、博士もまた異質だと思う。


 中学三年間は、大人になるためには基礎が大事だと思い、授業に全力で取り組んでいたそう。部活は運動部に入り、活動日はしっかり参加したのだという。

 中学生にしては珍しいと自分では言っていたけど、それは自慢なのか、それとも自嘲なのか、わたしにはわからない。


 そうして高校生になり、青天の霹靂へきれきでこれまでの世界が変わったということだ。


 やっぱり長くなったか。

 無理しなくていいと言ったのに、無理をさせているのは自分ではないか。

 なんだか眠くなってきたな……。

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